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またSubにフられた。
出会いは相手を求めるDomやSub、ダイナミクス性を持つ者達が集まるダイナミクスバーだった。たまたま隣に座ってお互いフリーだという話になって、互いのNG項目や性嗜好も確認して同意し合い、お試しでパートナーを組むことになった。
二人とも社会人だったので会うのは週末、月に何度か会って二人きりの空間に慣れた頃、簡単なコマンドも使えるようになって、次のステップに進もうと思っていた矢先のことだった。
「長谷部さんの支配は安心できないんです」
ごめんなさい、と頭を下げられてパートナー解消を申し込まれた。
SubがパートナーのDomに逆らうのはそれなりに精神力がいることだ。通常SubはDomに支配されたい、Domの機嫌を損ねないようにしたいというのが本能に刻み込まれている。そこを抗っての勇気ある申し出に、長谷部は否ということはできなかった。プレイの為に反抗したりされたりするのとは訳が違うということは表情を見ればわかった。長谷部は目の前で肩を震わせて頭を下げ続けるSubからの信頼を得られなかった。今までの経験からそのことが容易く理解できてしまった。
自分がSubの扱いに長けた力量のあるDomならば、ここからさらに巻き返しもあったのかもしれない。あるいは、支配欲が強く傲慢なDomならば、Glareとコマンドを駆使して離れようとするSubを完全に自分の支配下に置いていたかもしれない。しかし、不安がり離れていこうとするSubをどろどろに甘やかし安心させることも、完膚なきまでに屈服させることも、長谷部にはできなかった。
唯一長谷部にできたのは、「今まですまなかった」と謝罪し、言われるがままにパートナー解消を受け入れることだけだった。
硬い謝罪の声を聞いてようやく顔を上げたSubは、悲しげに微笑んだ。
「……長谷部さんは、最後までそうなんですね」
それを聞いてわずかに目を見開いた長谷部を振り切るように、元パートナーはくるりと踵を返して玄関から出て行った。ガチャン、と重い鉄のドアが閉まる音が、そのSubとの最後の思い出になった。
『長谷部さんといても安心できない』
『長谷部さんっていつもそうなんですね』
『長谷部に俺って必要なのか?』
過去パートナーになったSub達からは、フられる度にそんな風に言われてきた。
DomとSubは一見DomがSubを支配する一方的な関係に見えるが、そこにはSubがDomに己が身を預けてもいいという信頼が不可欠である。DomとSubは本来対等な存在なのだ。
だが、長谷部は今までSubと深い関係にまで進めたことがない。そこに至る為のSubからの信頼を得ることが、どうしてもできなかったのである。
Subが支配されたり甘やかされたりすることに充足感を得る性ならば、Domは支配し、甘やかし、信頼されることで充足感を得る性だ。Subの心からの信頼を一度も得たことのない長谷部は、Domとしての欲求を完全に満たした経験のないまま、もうじき三十を迎えようとしている。
いつも行っていたダイナミクスバーに元パートナーも来ているのかと思うとなんとなく顔を出しづらく、その日長谷部は気分転換にすこし遠出したところのダイナミクスバーに向かった。
まずは受付で渡される名刺大のカードに簡単なプロフィールやNG項目、性嗜好を書き込んで、ケースに入れて社員証のように首から提げる。ネックストラップの色はDomを表す赤だ。
以前通っていたバーはフリーの人間しか集まらなかったが、ここはダイナミクス同士の交流の場でもあるらしい。パートナーやカップルらしき二人組の姿も多かった。
週末の店内はそこそこの混み具合で、L字になったカウンターの空いている席に座り、メニューにざっと目を通して適当に飲み物を注文する。
「お客さん、ここは初めてかい?」
目の前にブラックルシアンを置きながら銀髪のバーテンダーが尋ねてくる。頷くと、バーテンダーは申し訳なさそうに苦笑した。
「出会いを求めてるなら運が悪かったな。今日はカップルデーでね、独り者は少ないんだ」
なるほど、と店内を見渡せば、あちこちの席でDomの足元、専用のラグの上でSub達がKneel(おすわり)の姿勢を取っている。時折DomがSubの髪を撫でたり、首輪を着けたSubが幸せそうにDomの太腿に頭を寄せていたりする様子にずきりと胸が痛む。その光景を振り切るように長谷部はグラスを呷った。
(俺だって、本当は、)
続けて何杯か酒を注文して飲み干したが、店内の幸せそうなパートナー達を羨む気持ちは晴れない。どころか頭痛と吐き気、強い飢餓感や焦燥感まで襲ってきた。Domの欲求が満たされないことによる体調不良だ。思わず舌打ちしてしまう。
鞄から抑制剤を取り出し、そのままカプセルを酒で胃に流し込もうとグラスに手を伸ばした瞬間、後ろから腕を掴まれた。
「そういう飲み方は感心しないなぁ」
低く艶のある男の声だった。
隣いいかい、とこちらに問いかけながらも有無を言わさない様子で、男は長谷部の腕を掴んだまま隣のカウンターチェアに腰を下ろした。
「ギムレットちょうだい。あとこっちの彼にお水」
「ああ、あなたか。久しぶり。元気にしてたかい」
「まあまあかな」
バーテンダーと顔なじみらしい男は、受け取ったロンググラスをそのまま長谷部に渡して、ようやく腕を放す。そこで長谷部は初めて男の顔を見た。
男は思わず息を呑むくらいの美形だった。藍の混ざった深みのある色をした黒髪に、金色の瞳。長い前髪は右目側に流して、その前髪の隙間からは革の眼帯が覗いている。きりっと凜々しい眉にまっすぐ通った鼻筋は男らしく、厚みのある唇はセクシーだ。
「それ、抑制剤だろう。服用するならちゃんと水で飲まないと」
初対面の男から嗜めるように言われ、一瞬見惚れてしまった気恥ずかしさもあり、長谷部はむっと唇を尖らせた。しかし言われていること自体は正論なので、渋々とカプセルを口の中に放り込み、受け取った水で飲み下す。
「……ご忠告感謝する」
「君は薬に頼らなきゃならないほど欲求の強いDomなのかな」
「は?」
「うーん、でも支配欲が強いタイプでもなさそうだね。単純に長期間いいパートナーに恵まれてないのかな」
パートナーに恵まれていない、の言葉で頭に血が上った。
付き合ってきたSub達は皆いいSubだった。常に長谷部を尊重し、気遣ってくれた。悪いのは自分だった。そんな彼らに安心感や満足感を与えてやれなかった、自分が全部悪い。
「……彼らのことを悪く言うな」
唸るように低く吐き出すと、男は眉を下げて「ごめん」とすぐに謝ってきた。
「言い方が悪かったね。君と相性のいいSubにって言えばよかった。気を悪くさせたならすまない。怪しい者じゃないんだ」
そう言って男はごそごそとジャケットの胸ポケットから革の名刺入れを取り出し、中から一枚抜いて長谷部に渡してきた。名刺を渡されると思わず恭しく受け取ってしまうのは営業職の悲しき性だ。
「僕は長船光忠。ダイナミクスカウンセラーをしているんだ。職業柄、ダイナミクス性で悩んでそうな人は放っておけなくてね」
務め先らしき病院名と肩書きと名前の書かれたシンプルな名刺の端に書かれた単語を見て、長谷部はぽかんと口を開けた。
「Switch……?」
にっこりと笑う男の首からは、Domの赤でもSubの青でもない、紫色のネックストラップが下がっていた。
SwitchとはDomとSub両方の特性を持つ性のことだ。この世界の約三割程度というダイナミクスの中でも、さらに数パーセントの確率でしか生まれないという珍しい性である。長谷部もこれまでSwitchと直接会ったのは片手で足りるほどの経験しかない。
僕でよければ相談に乗るよ、という長船の言葉に最初は反発心があったものの、酒で緩んだ舌はぽつぽつと長谷部の境遇を語っていった。
Subに過去何度もフられていること、これまで誰とも深い関係になったことがないこと、どうしてもSubに安心感を与えてやれないこと、それでSubからも信頼されないこと。
「……俺は、SubをSub spaceに連れて行ってやれたこともない、駄目なDomなんだ」
そう言って言葉を締めくくると、長谷部はグラスの残りを喉に流し込んだ。氷で薄まってほとんど水になったそれは、ぼんやりと口の中に嫌な後味を残した。
長谷部の境遇を聞いても、長船はけして茶化したり馬鹿にしたりしなかった。真摯な態度で頷き、適切な相槌を打ち、時折詰まる長谷部の言葉を辛抱強くじっと待ってくれた。
自分の弱みを人に晒すのは怖い。心のやわらかな部分を他人に剥き出しにしてしまったことに、開放感よりも恐怖感が勝るのは支配欲の強いDomだからだろうか。知らず震えていた手を膝の上で抑え込むように握ると、その上から宥めるように手を重ねられた。
「……よく話してくれたね」
頑張ったね、とすりすりと手の甲を撫でられる。俯いていた顔を上げて恐る恐る隣を見ると、慈愛の色を乗せた瞳がじっと長谷部を見つめていた。
「君は駄目なDomなんかじゃないよ。多分、そうだね、ちょっと不器用なだけだ」
「……だが、」
「じゃあさ、こういうのはどうだろう。試しに僕とパートナーになってみない?」
たっぷり十秒の間を置いてから、長谷部は「は?」と眉根を寄せた。怪訝そうな長谷部を見て、長船は安心させるように重ねていた手をぽんぽんと叩いた。
「僕はDomの視点もSubの視点も持ってるし、職業柄君に適切なアドバイスができると思うよ。悪くない話だと思うんだけど」
「……悪くはないが、おまえにメリットはあるのか?」
「それ聞いちゃう?」
長船は愉快そうにくすくすと肩を揺らして、それからそっと長谷部の手に指を絡めてきた。
「……君に一目惚れしたんだ。僕は君のことをもっと知りたい」
「え、と、」
「君に甘やかされたいし、甘やかしてあげたい。君が望むなら今すぐ跪いてその引き締まった足を指先から一本一本舐めたっていい」
「ま、待て!」
会ってまだ一時間足らずの相手から熱烈な告白を受けて長谷部の脳は完全にキャパシティオーバーをしていた。心臓が口から飛び出そうなほどばくばくしている。顔が熱い。照れと焦りを誤魔化すように必死になって言葉を紡ぐ。
「待て、あのな、そういうのは良くない。会ったばかりのよく知りもしないDomにほいほい主導権を渡すのはSubとして――」
「僕Switchだし」
「しかし、」
長谷部くん。先程教えたばかりの名前を、長船は歌うように唇に乗せる。絡めた指はそのままに手を引かれ、長船は長谷部の手の甲にキスを落とした。
「僕が君にDomとしての悦びを教えてあげる」
そうしてとろりと蕩けるような目で微笑まれると、長谷部にはもう何も言えなかった。
顔を赤くして無言で俯く長谷部を了承と取ったのか、長船はバーテンダーに「大般若さん、プレイルーム空いてる?」と声をかけた。
「五番が空いてた筈だぞ」
「ありがとう。じゃあ、長谷部くん、行こうか」
そう言ってカウンターチェアから降りた長船は長谷部の手を引いた。
「おい、」
「ああは言ったけど、相性もあると思うし、一回個室で試してみよう。大丈夫、ここ本番禁止だから最後まではしないよ」
「そうじゃなくてだな!」
きょとんとこちらを振り向く整った顔に、長谷部は喉から絞り出すように告げる。
「……リードされっぱなしは性に合わん」
ああ、と納得したように長船は頷いて、ぱちりと瞬きをした。瞬間、媚びるような色が金の瞳に宿る。
「…………プレイルームは奥の階段を上ったところだよ。連れて行ってほしいな。君と二人きりになりたい」
Subからの――厳密にはSwitchだが――お願いに、今まで飢餓状態だったDomとしての本能が刺激される。目の前の男を支配し甘やかしてやりたいと体中が叫ぶ。一方的に握られるだけだった手をやや乱暴に握り返し、長谷部は長船の手を引いて階段へと向かった。
「……行くぞ」
二階に上がって手前から五番目の部屋のドアを開けると、中には小さなテーブルとソファが置かれ、床にはSub用と思しき厚手のラグが敷かれていた。部屋の隅には小型のロッカーが設置されている。おそらくプレイ用の鞭や蝋燭等の道具がしまってあるのだろう。一般的なプレイルームの作りだった。
「長谷部くん、お願い聞いてくれてありがとう」
「別に、大したことじゃない」
そう言うと、長船はすこしだけ眉を下げて困ったような顔をした。何か不適切なことでも言ってしまったかと思って内心びくりとする。表情には出さなかったと思うが、長船は敏感に長谷部の心の動きを感じ取ったらしく「ごめんね。後でちゃんとフィードバックするから」と苦笑した。
「ああそうだ。これ、僕のNGリスト」
そう言って長船がネックストラップからカードホルダーを外して長谷部に渡す。長谷部も反対に自分のカードホルダーを渡してやる。
二人でソファに腰を下ろして互いのカードを読み込み始めた。まず一番重要な性嗜好が一致していることにほっとし、それからざっと一通り目を通す。ほぼほぼ一般的で許容できる範囲のNG項目の中に、珍しく目を引くものがあった。
「この『”Kneel”は応相談』ってなんなんだ?」
“Kneel”はコマンドの中でも最も基本的なもので、通常のSubはパートナーのDomの足元でKneelをするとリラックスするのだという。長谷部も過去何回かパートナーのSub達に使ったことがあるが、皆嫌いではなさそうだった。このバーのようにダイナミクス対応の店ではSubがKneelする時用のラグが常備されているくらいだ。そのKneelが応相談とはどういうことなのか。
Switchだとまた何か事情が違うのだろうか、と首を傾げる長谷部に、長船は腕組みをしてみせた。
「うーん、見せた方が早いかな。ちょっとコマンド出してみて」
「……初対面だぞ」
「お試しだから。僕は気にしない」
何度もデートを重ねたパートナーや、そういう商売に従事しているSubならいざ知らず、今日会ったばかりの、まだ正式にパートナーになってもいない相手にコマンドを使うのには躊躇してしまう。口をぱくぱくと開け閉めしてなかなか行動に移せずにいる長谷部を見て、長船が助け舟を出した。
「長谷部くん、ね、お願い。僕にコマンド使って」
ぐわんと脳が揺れる。
お願い。お願いなら、叶えてやらなければならない。
気づけばするりと言葉が出ていた。
「…… “Kneel”」
ソファから降りた長船が長谷部の足元に静かに座り込む。膝から下を左右に開いて座る、いわゆる女の子座りではなく、普通の正座だ。手を行儀よく膝の上に置き、ぴしりと背筋を伸ばしたその姿勢は、まるで時代劇の武士のようだった。
「……おまえ、それ、」
「…………昔から関節が硬くてね。一般的なKneelの座り方ができないんだ。正座が堅苦しくて嫌だって人もいるから、応相談にしてる」
気まずげに目を泳がせて溜め息をつく長船がなんだか面白くて、ふは、と長谷部は息を吐いた。
「っく、ふふ、いや、似合ってるぞ」
「……まあ笑って貰えたから良しとするか。それと長谷部くん」
「なんだ」
「何か僕に言うことない?」
「え? ああ、ずっと正座はつらいだろ。”Stop”、崩していいぞ」
そうじゃなくてね、と長船は長谷部の太腿に手を置いた。
「コマンドをこなしたSubはちゃんと褒めてあげないと」
「褒める……」
目から鱗だった。
「ひたすら命令されるのが好きなSubもいるけど、それは少数派だ。コマンドやお仕置きをこなした時なんかにSubをきちんと褒めて甘やかすのもDomの務めだよ」
「……適切な褒め方がわからん」
「『よくやった』とか『頑張ったな』とか何でもいいんだ。よく使われるのは”Good boy”かな」
「……ぐ、”Good boy”」
正解を探るような心地で口に出すと、長船は目元と口元をふわりと緩めた。
「うん。そんな感じ。あと僕は髪を撫でられるのも好きだな」
やってみて、と撫でやすいようにか頭を軽く下げられる。長谷部は恐る恐るその夜色の髪に手を伸ばして、そろそろと動かした。やわらかい手触りがすこしくすぐったい。
> 「”Good boy”」
今度は躊躇わずに言葉にできた。はあ、と長船が息を吐く。呆れや怒りからのものではなく、人が温泉に浸かった時に吐くようなほっとした様子の溜め息だった。
「落ち着く……」
こてんと長谷部の膝に長船の頭が乗る。もっと、と甘えるような仕草でぐりぐりと頭を擦りつけられて、長谷部の胸はきゅんと締めつけられた。
自分の手で、言葉で、相手が満足感を得ている。それは途方もない喜びだった。長谷部の欠けていた何かが急速に埋められていくような心地がする。
「長船、」
「光忠って呼んで」
「……光忠、”Good boy”」
「んー、ふふ、嬉しい」
長谷部に体重を預けたまま、光忠が顔を上げる。唯一見えている左目は蜂蜜のようにとろとろと今にも溶け出しそうだった。
「長谷部くんも、気持ちいい?」
「……ああ」
よかった、とやわらかい笑みを向けられて、やはりまたきゅんと胸が高鳴る。
「……僕ら相性はいいみたいだね。君とは気が合いそうだと思ったんだ」
光忠が長谷部の手を両手で包み込むようにして握る。
「ねえ、僕とパートナーになってくれる?」
慈悲を乞うような眼差しが長谷部をじっと見上げる。
「そうだな……」
いかにも悩んでいるといった風に光忠の顎を指でくすぐるみたいにして撫でると、その端正な顔に待てを命じられた犬のような表情が浮かぶ。瞳が揺れているのは不安からだろうか。このまま焦らしてもうすこし様子を見たいと本能が囁く。ああでも、やはり甘やかしてやりたい。あの蜜色の瞳が蕩け落ちるさまが見たい。求められるなら何度でも髪を撫でて、「”Good boy”」と声をかけて喜ばせてやりたい。
そう思ってしまった時には、答えはもう決まっていた。
「……光忠。俺にDomとしての悦びを教えてくれ」
顔を近づけて囁くと、「オーケー、任せてくれ」と握られた手に力が入った。
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