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やはり心身が充実していると、自然と顔や態度や業績に表れるものらしい。
営業部の飲み会で同僚から「長谷部、最近調子いいみたいじゃないか」と既に何人かから言われた言葉が投げられたので、長谷部は食べかけの焼き鳥を自分用の小皿に置いて向き直った。ビールを何杯か飲んで顔を赤くした同僚は長谷部の肩を軽く叩いてきてにやにやと笑う。ここまで来ると次に投げられる台詞も予想できる。
「恋人でもできたか?」
このご時世、仕事の好不調の理由を恋愛関係に求めるのはどうなのか。大体この質問自体セクハラだし、いっそ人事に訴えてやろうかと思いつつも、特に表情を変えずに「まあ間違ってないな」と返すと、聞き耳を立てていたらしい周囲から一斉にどよめきが起こった。
「長谷部さん、マジですか!?」
「えー、どんな人なんですか?」
「あ、例のパートナーさんとうまくいったんすか? おめでとうございます!」
最後の一言は先日引き継ぎをした後輩だ。耳ざとく聞きつけた周囲が、「どういうことだ」と何故か後輩の方を囲んで事情聴取を始めそうになったので、余計なことを言われる前に慌てて止めに入る。
「以前からダイナミクスパートナーとして関係を持っていた相手と、その、改めて恋人として交際することになった。それだけだ」
「へえ」
「どんな方なんですか?」
どんな方、と聞かれて真っ先に思いついたのが「顔がいい」ということだったのだが、あまりにも端的すぎだったし、恋人を紹介する言い方としてどうなのかと思って、それ以外を探す。性格も良くて、床上手だ。気配りもできるし、手料理も美味い。強いて短所を挙げるならベッドの上ではちょっと我慢の効かないところくらいだが、それをわざわざここで話す必要もないだろう。
「……非の打ち所がないな……」
溢れた言葉はきちんと惚気として受け入れられたらしく、女性社員からはきゃあきゃあという歓声が上がり、男性社員からはおお、と感嘆の声が漏れた。
「写真とかあります? 見てみたいなぁ、長谷部さんの恋人」
「特にないな」
「そっかー、残念」
今度見せてくださいね、と力強い瞳で念押しされたので一応頷いておく。
その後長谷部の恋人がどんな相手なのかの妄想が繰り広げられる中、長谷部は適当に相槌を打ちつつマイペースに手酌で酒を飲み進めていった。
実はこの飲み会の後でその恋人と会う予定なのだと告げたらきっとまた騒ぎになるんだろうな、と思いながら、すっかり冷えた元熱燗をちびちびと舐める。そっとスマートフォンを覗くと、『お疲れ様。今長谷部くんの家に着いたよ。のんびり待ってるね』と光忠からメッセージが届いていたので思わず口元が緩む。明日は光忠が休みなので長谷部の家に泊まりがけでゆっくりする予定だった。その為の合い鍵も渡してある。
そろそろ宴会もお開きの気配を察して、『今から帰る』と光忠にメッセージを送った。幹事に代金を渡して鞄とジャケットを掴んで立ち上がると、「もう帰るのか?」と驚いたように声をかけられる。
「家で例の恋人が待ってるんでな」
ひらひらと手を振って個室を出ると、背後で爆発的な歓声が上がった。酔った勢いでいらないことを言った気がするが、言ってしまったものは仕方がない。
それくらい、浮かれている自信がある。
自分の家の前なのに、長谷部はドアの前で立ちつくしていた。普通に入ればいいと理性ではわかっているのに、百均で買った不細工な犬のキーホルダーがついた鍵を手の中でチャリチャリと鳴らして、かれこれもう数分が経っている。
ドア一枚隔てた自分の家の中には既に光忠が待っている。そう考えるとそわそわして落ち着かない。悩みに悩んだ結果、ゆっくりと人差し指をインターホンにかけて、押す。ピンポン、とやけに間の抜けた明るい音が聞こえ、しばらくして鉄製のドアの向こうからばたばたという物音とともにガチャリと扉が開いた。
「長谷部くん?」
艶のある低声が長谷部の鼓膜を震わせる。目を丸くしてドアノブを握っている恋人に、長谷部はぎこちなく頷いた。
「ああ、うん。俺だ」
「君の家なんだから、普通に入ってくればいいのに」
変な長谷部くん、と笑われて恥ずかしくなる。その通りだ。俯いて顔を赤くした長谷部の肩を叩き、光忠が家主を家の中へ迎え入れる。
「おかえり。お疲れ様」
「…………ただいま」
間を置いて返された挨拶に首を傾げる光忠に、長谷部は慌てて言葉を足す。
「……その、」
「うん」
辛抱強く長谷部の返答を待つ光忠の様子に安心しつつ、そんなところも好きだと思う。
「おまえに出迎えてもらえて、嬉しいんだ。すごく」
当たり前のやりとりを、当たり前のように交わせることが嬉しくて仕方ない。その相手が光忠であることも。
「ただ、恋人にこうして出迎えられるのは色々初めてだから、どうしたらいいかわからなくてだな」
俯いた顔をえいやっと上げると、視線の向こうで光忠が右手で顔を覆っていた。指の隙間から覗く肌が赤い。
「光忠?」
「あー、もう……なんで不意打ちでそんなかわいいこと言うかなぁ……」
「あ、え、ええと、悪かった……?」
「謝らないで」
そう言われてぎゅうと抱きしめられる。肩に顔を埋められ、首筋に鼻を擦りつけられた。その犬のような仕草とくすぐったさに思わずふふと笑いを漏らすと、べろりと耳の裏を舐められた。
「っ……ん、」
「お酒と煙草の匂いがする」
「飲み会だったからな」
「シャワー浴びる? 体洗ってあげようか」
「……うちのユニットバスで男二人が入るのは無理だ」
「残念」
するりと身を離して光忠は長谷部に笑みを向けた。
「とりあえず先にシャワー浴びておいでよ」
「ああ」
離れていった体温になんとなく寂しさを覚えながら返事をすると、「そんな物欲しそうな顔しないで」と苦笑される。
「そんな顔してない」
「してるよ、すごくかわいい顔。襲っちゃう前にお風呂入っておいで」
両肩を掴まれてぐいぐいとバスルームの方に追いやられる。おい、と長谷部が抗議の声を上げてもお構いなしだ。ガチャリとユニットバスのドアが開かれ中に押し込まれる。
「皺になっちゃうからスーツだけ貸して。消臭剤とアイロンかけておくよ」
まだ長谷部の家に来たのは二回目だというのに、すっかり手慣れたその様子に呆れ混じりの笑みが零れた。抵抗を諦めて長谷部は渋々とジャケットの袖から腕を抜く。
「これじゃどっちが家主だかわからんな」
「ご主人様なら君だよ。そうだろう?」
「どうだかな。油断してると俺の方が食われそうだ」
冗談めかして肩を竦めると、光忠は唇の両端をくっと上げた。細められた金の瞳がきらりと光る。
「……もし君が望むなら、いくらでも」
馬鹿、と脱いだスーツをぐいと押しつけてバスルームのドアをばたんと閉めると、扉の向こうからくすくすと笑い声が聞こえた。
油断のならない恋人を黙らせるようにドアを一度強く叩くと、笑い声が止んで気配が遠ざかっていく。
火照った顔を覚ますように一度洗面台の蛇口から水を出してざぶざぶと顔を洗う。濡れた顔をタオルで拭きながら鏡を見て、長谷部は溜め息をついた。
「……これのどこがかわいいんだ」
鏡の中では眉間に皺を寄せて顔を赤くした男がこちらを睨みつけていた。
「飲み会どうだった?」
「別に。普通だ」
よく冷えたミネラルウォーターのペットボトルに口をつけ、ぐびりと飲み込む。冷たい液体がするすると喉を滑り落ちていく感触が心地よい。
「……顔が見たいと、言われたな」
「え?」
「恋人ができたと言ったら、写真はないのかと聞かれた」
「撮ってもいいよ? 今ここで」
ほら、と笑顔を作ってみせる恋人に、長谷部は馬鹿を言えと一蹴した。
「もし一目惚れでもされたら困るだろう」
「…………困るんだ」
「おまえは俺のだからな」
ううう、と顔を押さえながら光忠はぱたりとカーペットの上に倒れこんだ。
「光忠?」
膝立ちになってにじり寄り顔を覗き込もうとすると、ぐいと肩を引き寄せられて抱きしめられる。
「君のそういうところ、本当に好きだ」
好きだよ。そう言って口づけてくる光忠の瞳はとろりと蕩けて蜂蜜のようだ。
舐めたら甘いのだろうか。その考えにぞくりとしたものを感じる。何を馬鹿なことを。けれどもその思考は茨のように長谷部を捕らえて離さない。腰骨の辺りから背筋を伝って、ぞわりとした感覚が走る。
駄目押しになったのは光忠の言葉だった。
「……ねえ、何かコマンド出して。今すごく君に支配されたい」
こうして全幅の信頼と愛情を向けられて、嬉しくないDomが、いや、人間がどこにいるだろう。
「…………”Present”」
気づけば口を開いていた。
「いいよ。どこ?」
「おまえの、眼球を舐めたい」
ぱち、と長い睫毛が上下に動く。瞳は丸く開かれて満月のようだ。
「……すまん。気持ち悪いならセーフワードを」
「いいよ」
「いいのか」
「君が言い出したんじゃないか」
そう言われては返す言葉もない。
ぐうと押し黙っていると、光忠は長谷部の額に口づけ、後頭部の髪を柔らかく梳いてくる。瞳はやはりとろとろと蕩けるようで、その奥に蝋燭の炎にも似た欲情の灯火が揺れていた。
「舐めて、長谷部くん。君にあげる」
ごくりと喉が鳴る。恐る恐るその白いかんばせに両手を触れさせて、ゆっくりと唇を近づけた。
至近距離で真っ先に思ったのは、睫毛が長いなということだった。長いだけでなく濃く、密集している。女性がよくしているようなマスカラはなしの、これで自前というのだから恐れ入る。
目の縁に親指をかけ、瞼に唇を寄せる。睫毛の生え際をなぞるように舌を動かすと光忠の体がびくりと揺れた。
嫌か、と尋ねかけてぐっと堪える。ここまで自分を明け渡してくれた光忠への、それは冒涜だと思ったからだ。
ちろ、と舌を伸ばす。つるりとした表面の感触が舌に触れる。舌先に感じる味はすこし塩っぽい。甘くないんだな、と当たり前のことを思う。こんなに甘そうな色なのに。
長谷部の左手が光忠の眼帯に触れる。なんとなく指先でその表面の革の感触を確かめていると、「こっちも舐める?」と笑い混じりに聞かれる。
「……いいのか?」
今まで光忠が長谷部の前で眼帯を外したことはなかった。本人が話したがらないことを無理に聞く趣味もなかったので、今までその下がどうなっているかも聞いたことがない。
「いいよ。……君になら」
光忠が頭の後ろに手を伸ばしパチリと眼帯の留め具を外す。一本の紐状になった眼帯をかたわらに外して置いて、光忠が長い前髪をかき上げる。
「右目は元々視力が低くてね。瞼に傷跡もあるし、見栄えが悪いから普段は隠してるんだ」
言われて顔を近づけて見ると、左目に比べて右目の色は薄く、瞼を割くように縦に大きな傷跡が走っていた。
長谷部は親指で盛り上がった傷跡の縁をそっと撫でた。
「…………痛みは?」
「今は、全然」
「そうか。良かった」
本当は誰の仕業なのか、どうしてこんな傷跡ができたのか、問い質したかった。聞けば答えてくれるという確信もあった。けれど、長谷部はそれを選ばなかった。
光忠が勇気を出して打ち明けてくれたことを褒めてやる方が、今はずっと大事だと思ったから。
「頑張ったな」
そうしてゆっくりと傷跡に唇を落とした。
「……光忠。見せてくれて、話してくれて、ありがとう。”Good boy”」
光忠の両目が見開かれ、その瞳からぼろりと透明な涙がこぼれ落ちた。ぼろりぼろりと大粒の涙がとめどなく溢れてくる。長谷部はその涙をすくい取るように舐めあげ、目の縁にキスをする。
いとおしい、とはきっとこういう感情を言うのだろう。長谷部の腕の中で体を震わせて泣く、この図体のでかいうつくしい男を、長谷部は心から好きだと思った。
好きだ。そう囁きながら、獣が傷を癒やす時のように長谷部は光忠の頬と瞼をちろちろと舐めていく。
ぎゅう、と強い力で抱きしめられ、肩に顔を埋められる。ぐり、と顔を擦りつけながら、震える声で光忠が告げる。
「……長谷部くん。僕のDom。君が好きだ。君のSubになりたい」
「? おまえはSwitchだろう」
そう言うと、光忠はくしゃりと顔を歪めるようにして笑ってみせた。
「……うん、そうだね。本当にそうだ」
そうしてまた長谷部の肩にすりすりと顔を寄せてきたので、長谷部はあやすようにその頭をぽんぽんと撫でてやった。
幸せな夜だった。
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