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「長谷部さん、最近顔色がいいですよね」
後輩からそんなことを言われて、長谷部はぴくりと片眉を上げた。
「そうか?」
「そうですよ。顔色がいいっていうか、機嫌がいいっていうか」
取引先の担当を後輩に引き継ぐことになり、先方へ一緒に挨拶に出向いた帰りの電車の中でのことだった。昼過ぎの車内は同じく営業回りらしきサラリーマンや、外国からの観光客らしき人影がまばらに乗っている。空いていた二つの席に並んで座り世間話をしていると、唐突にそんなことを言われた。
「彼女でもできたんですか?」
にしし、と冗談っぽく笑う後輩は、営業先以外では無愛想で知られている長谷部にも果敢にコミュニケーションを図ってくる、いわゆる物怖じしないタイプだった。他の人間だったら失礼にあたることをしてもなんとなく許してしまうような愛嬌もある、非常に営業向きな、しかしまだまだ教えることも多い後輩である。
普段なら「彼女などいない」と答えて終わりにするところを、真面目に答えてやろうかと思う自分に気がつき、なるほど、これはたしかに機嫌がいいと内心納得した。
「……彼女というか、パートナーだな」
「それって恋人とは違うんですか?」
そう無邪気に聞いてくる後輩はNormalだ。長谷部がDomであるのは社内では有名な話なので、好奇心旺盛なNormalからこういった質問をされることが時々ある。
世間の大半はNormalで構成されているので、男女以外のダイナミクス性を持つ身はやや肩身が狭い。近年はDomやSubの生態も学校で簡単に教えられるようにはなったものの、それでもなんとなく公に語られるのは憚られる風潮がある。
「一般的にはパートナーから恋人に発展することが多いが、まあ人それぞれだな。パートナーと恋人は別って割り切る奴もいるし」
DomやSubの支配・被支配欲求というのはNormalのサドやマゾとはまた違い、定期的に発散するか薬で抑制するかしなければ生活に支障を来す厄介なものだ。それを発散する為だけの風俗もあるにはあるが、ああいうのは性に合わなくて長谷部はあまり利用したことがない。やはり自分の心身を預けるにはそれなりに信頼関係を築いた相手でなければ、という思いが湧いてしまう。
「へええ……。じゃあつまり、長谷部さんはそのパートナーとはまだ恋人じゃないってことなんですね」
ぎろり、と睨みつけると大げさに首を竦めて「すんません」と素直に謝られた。こういうところもなんとなく憎めない。溜め息をついて鞄からスマートフォンを取り出して視線を落とし、話の打ち切りを暗に伝えると、それ以上後輩は踏み込んでは来なかった。そういうところは聡いのだ。
まだ恋人じゃない。そう言われて実はどきりとした。ダイナミクスのパートナーはどうしても肉体関係に発展しがちなので、そこから恋愛関係に発展することも多い。しかし長谷部は誰かとパートナーから恋愛関係に発展したことは一度もない。過去にはいっそNormalと恋愛でもしてみようかと思った時期もあったが、自分の欲求が満足できそうになかったのでやめた。パートナーと恋人は別物なんだと割り切れるほど、長谷部は器用にできていなかったのだ。肉体関係を結ぶなら相手は一人がいいし、その相手はDomとしての欲求を満たしてくれるSub性を持っているのが望ましい。そして長谷部の後ろも弄ってくれる相手でないと、少々困る。そうなると自ずと選択の幅は狭まった。狭まった中でこの相手こそ、と思った歴代のパートナー達からは深い信頼関係を築く前にことごとくフられてきたので、長谷部のそういった面に対する自信は驚くほど低い。
光忠のことを思い出す。先日ようやく後ろを触らせるまでに至った初めてのパートナー。光忠は最初から長谷部への恋情を隠さなかった。先日のプレイ中にも何度か告白紛いのことを言われている。それらを受け流してきちんと答えず、さらにそこに胡座をかくような真似をしているのを不誠実だとは思っている。
光忠が好きかと問われれば、間違いなく好きだと思う。というか好意しかない。あんなにもまっすぐに好意と信頼を向けてくれる相手を嫌いになれという方が難しいと思う。
けれど、自分が光忠に感じるこの好意を、恋愛感情と断じていいのかわからない。愛情を注がれても、どう返すべきなのかがわからない。段々と深まっていく光忠との関係を心地よいと思う反面、どこに向かっていくのかわからない空恐ろしさも感じている。
あの日、光忠は「僕が君にDomとしての悦びを教えてあげる」と言った。長谷部は「教えてくれ」とそれに乗った。光忠はあの宣言通り、長谷部が今まで知らなかった充足感を与え続けてくれている。こんな自分を好いて、信頼して、心身を預けてくれている。おかげで最近は抑制剤の世話になることもない。光忠には本当に感謝しているのだ。
しかしそんな光忠を恋愛対象として見ることでこれ以上に入れ込んで、それでもし、また今までのようにフられてしまったら、一体どうすればいいのだろう。いつの日か光忠も過去のパートナー達のように失望と諦念を浮かべた顔をして自分の元を去っていく、そうさせてしまう未来が来るのが怖くてたまらない。だって自分は今までどのパートナーもSub spaceに連れて行ってやれたことのない、駄目なDomなのだから。
思考はいつもそこに帰結する。結局のところ、自分には自ら踏み込んでいく勇気や自信がないのだと、長谷部はそう思っている。
隣に座る後輩に溜め息とわからない程度に長く静かに息を吐く。スマートフォンの画面を見ると、時刻は十五時を示していた。あと七時間後が光忠との約束の時間だ。
こんなことで悩んでいても、光忠の声を聞けると思うとやはり胸が高鳴る。これは支配対象を求めるDomの本能なのか、それとも。
ガタン、タタン、と不規則に揺れる電車の中で、長谷部は眠るように目を閉じた。
会社から帰宅する途中で適当に夕飯を済ませ、家に着いてシャワーを浴びて着替える。そうして長谷部が真っ先にしたことはテレフォンセックスについて調べることだった。
明らかに業者関係とわかるページは飛ばして、まっとうにやり方について述べていそうなページだけを選んでアクセスし、また次のページへ移動する。万が一この検索履歴が社会に流出したら首を括るしかないな、と思った。
調べた結果によると、どうやら最初は日常的な雑談から入って、徐々に性的な話題へとシフトし、本番に入る、らしい。ここでも会話術が必要ということに長谷部は絶望した。雑談はともかく、自然な形でセクシャルな話題に舵を切れる自信がない。営業トークなら立て板に水と話せるけれども、それとこれとはまったく別問題だ。
それから、なるべく興奮を煽るような淫猥な言葉遣いや言い回しを心がけた方がいいらしい。こちらもよくわからない。
一時間近く調べた結果わかったのは、「これは自分には荷が勝ちすぎるぞ」ということだけだった。不安しかない。
これで光忠を満足させてやれなかったら呆れられるだろうか、と思ってすこし落ち込む。どうしたものか。悩みつつもとりあえず使いそうなものをベッドの上に並べていく。ティッシュにウェットティッシュ、ローション、それにディルド。主に一人遊びの時に使っている品々だ。ディルドの方は出しておくかどうか悩んだが、一応置いておく。
そうこうしているうちに約束の二十二時になった。何故か意味もなくベッドの上で正座して待っていると、画面が着信状態のものに切り替わる。画面には大きく「長船光忠」と表示されている。震える手で着信ボタンをスライドしながらスマートフォンを耳に近づけた。
「……もしもし」
『もしもし、長谷部くん?』
ああ、と返事をすると、嬉しそうに声が弾んだ。
『こんばんは。一週間ぶり。そっちは今自宅?』
「そうだ。おまえは?」
『自宅だよ。今は寝室にいる』
「2LDKにでも住んでるのか? 豪勢だな」
『残念、2Kなんだよね。まあまあ広いけど駅からはちょっと遠くて、その分家賃はそこそこ』
「へえ」
今のところ普通に雑談できている。問題はここからだ。どのくらい雑談をしてどういったタイミングで性的な方向へシフトすればいいのだろう。相槌を打ちながら頭をフル回転させていると、光忠がふふ、と笑った。
『長谷部くん、今緊張してるだろう』
「……なんで、」
『なんとなく、かなぁ。職業柄、相手の感情や思考パターンを分析するのは慣れてるから』
そういえば光忠の本業はカウンセラーだった、と思い出す。
『この間はああ言ったけどね、テレフォンセックスっていうのは別に口実で、長谷部くんとこうしてゆっくりおしゃべりしたかったってのが本音なんだ。だから、君が今夜はそういう気分じゃないなら雑談で終わろうと思ってるから安心して』
「……だが、」
『もしかして、もしうまくできなかったら、とか考えてる?』
数秒の沈黙に、光忠はある程度事情を悟ったようだった。真剣な声で名前を呼ばれる。
『長谷部くん、』
「…………なんだ」
『何度でも言うけど、僕はそんなことで君を嫌いになったりしないよ』
「…………」
『失敗したっていいじゃないか。何度でも挑戦して最終的に成功すればいいんだよ。そうやって、いつか「あんなこともあったね」って笑い話ができるような関係を、僕は君と築きたい』
きゅうと締めつけられるような感覚がして、思わず胸元を押さえる。
「…………頭ではわかっている。しかし、」
スピーカーから息を吐く音がしたので、思わずびくりと身を竦めませた。
『ああ、ごめん、誤解しないでね。君に呆れたわけじゃないんだ。気持ちを伝えるのは難しいなと思って』
「……? おまえはよくやってくれていると思うが?」
『……ありがとう。いや、でも、うーん、覚悟はしてたけど、これはもう長期戦だなぁ』
光忠は認知の歪みがどうとか推論の誤りがどうとかぶつぶつ呟いていたが、やがて『よし!』と気合いを入れるように声を上げた。
『セックスしよう、長谷部くん』
「は?」
『論より証拠、案ずるより産むが易し。試しに一回やってみよう。成功すればそれでいいし、失敗しても僕達は大丈夫だってわかって貰ういい機会だから』
「え、いや、ちょっと待て」
『あ、やっぱりそういう気分じゃなかったかな』
「い、や、そういう気分では、その、あるんだが、」
なんせ長谷部の今の姿は部屋着用のTシャツに、下半身は下着一枚だ。ベッドの上にはティッシュやアダルトグッズが広げられている。完全に準備万端な状態だった。
「展開が速すぎてついていけないというか……あの、お手柔らかに頼む」
何か咳払いのような音が聞こえた。
「光忠?」
『君ってばそういうの無意識にやってるんだもん、参っちゃうよなぁ……』
「何か困らせたなら謝るが」
『謝らなくていいよ。……ね、長谷部くんは今どんな服装してるの?』
「上は普通のTシャツで、下は下着だけだな。おまえは?」
『僕は黒のルームウェアの上下だよ。今日はソックスガーター着けてないの?」
「ああ」
残念、と笑い混じりの低音が鼓膜を震わせる。
こうして電話越しに話していて改めて思うが、この男、顔だけじゃなく声までいい。
『長谷部くんの脚って綺麗だよね。僕好きだな』
絡みつくような甘さのある声で「好き」と告げられて顔に熱が上る。脚のことだ。わかっている。それなのにどこかくすぐったくて、嬉しい。
「……普通の脚だと思うが」
普段よりつっけんどんな声色になってしまったのは照れ隠しだ。それでも光忠は――声からしか判断しようがないが――気を悪くした様子もなく楽しそうに告げてくる。
『綺麗だよ。筋肉が無駄なくついてて、きゅっと引き締まってて。毛も薄いし、触るとすべすべしててさ』
「……数回だけなのによく覚えてるな」
『覚えてるよ。君のことだもの』
段々といたたまれなくなってきて、長谷部は正座していた脚を崩した。何の変哲もないと思っていたこの二本の脚をまるで宝物のように扱われた晩のことを思い出して、心臓がとくとくと速いリズムを刻む。捧げ持つように足先を包んだ両の手の温度、足の指の股までを丹念に這い回った舌や、踝に吸いついてきた唇の感触までありありと思い出されてくる。股間に血が集まってくるのを感じて、崩した足をさらにもぞもぞと動かした。
『……その気になってきた?』
は、とかすかに吐いた息の音が聞こえたのだろう。問いかけられ、一瞬迷ってから「……ああ。いや、」と答える。
「言っただろう。最初からその気だった」
ふ、と吐息の音が聞こえる。
『ああ、会いたいなぁ』
君の顔が見たい。そう言われて、ビデオ通話にするかと尋ねたら止められた。
『顔を見ると余計に会いたくなるから』
そういうものかと思って黙っていると、光忠が続ける。
『たった一週間なのに、もう君に会いたくてたまらない。会って、触れたい。君の脚に口づけて、かわいい乳首を摘んで、形のいいおちんちんしゃぶってあげたい』
馬鹿、と言いかけて止める。熱っぽい声にいやらしい言い方。おそらく既にプレイは始まっているのだろう。どう返すのが正解か考えて、わからなかったので素直に思いついたことを言ってみる。
「……俺は、キスがしたい」
『長谷部くん、キス好き?』
「好き、だ」
キスのことだ、と自分に言い聞かせながら口にしてみたものの、口から言葉を出してしまってから無性に恥ずかしくなってくる。
『触ってみてよ。僕が唇で触れたみたいに』
「……ん、」
二本の指を唇に押し当て、次に挟むようにして触れてみる。触れた感触と触れられた感触が指と唇に同時に走る。そのままその感触を楽しむようにふにふにと動かした。
電話の向こうでも同じように触れているのだろうか、時折ちゅ、ちゅく、とリップ音が聞こえる。
『……君の舌、薄くてひらひらしててかわいかったな。吸い上げたり歯を立ててあげるとすこし体が震えるのがたまらない。ね、舌も触ってあげて』
言われて、指で慎重に舌を摘んで引き出した。くすぐったいような感覚が、興奮によってすぐ性感へと変わっていく。
『舌を引き出したら指も舐めてほしいな。そのままお口に入れられる? 上顎のところ、軽く擦ってあげて』
言われた通りにぴちゃりと指に舌を絡め、濡れた指をえずかない程度に口の中に差し入れる。やわらかな粘膜を傷つけないよう、指の腹でそっとくすぐるように上顎を撫でる。
「……ん、ふ……」
ぞく、と悪寒に似た感触が腰から背中にかけて電流のように流れた。
『気持ちいい?』
こくんと小さく頷いてから、相手には見えないのだと気づき、「う、ん」と声を出した。
『長谷部くん、気持ちよさそうな顔してるんだろうな』
ふふ、とひそやかな笑い声が鼓膜を揺らす。吐息まで感じた気がして思わずスマートフォンを耳から離した。
「……そんな、ことは」
『ないって? 残念だな。じゃあもっと気持ちよくなろうか』
「は?」
『今スマートフォンは持ったままかな? いったん置いて、乳首弄ってみようか』
たしかに、軽量モデルとはいえそれなりに重量のあるスマートフォンを片手で持っているのが段々とつらくなってきた頃だった。長谷部は用意していた無線タイプのイヤホンマイクをスマートフォンに接続して、シーツの上に置く。イヤホンマイクを装着して息を吐き、恐る恐るTシャツの中に手を入れ、そろそろと乳首の上に指を伸ばした。
「っ……」
『大丈夫?』
「ちょっと驚いただけだ」
『感じちゃった?』
「っ……ああ」
指で乳首をきゅうと摘むと思わず声が出る。
「んっ、あ、」
『気持ちいい? いいならそう言って』
「はぁ、い、ぃ……きもち、いい」
『長谷部くん、ちょっと爪立てられたり、強く摘まれたりするの好きだよね』
「ぁ、ふ……っ」
言われて反射的に力の入った指先に体が震える。下着の中は既にパンパンに張り詰めていて、押し上げられた布地はうっすらと濡れて滲んでいる。
『今どうしてる?』
「っは、乳首、摘んでる……」
ふ、と息を吐いた音が聞こえる。イヤホンをつけているのでそのまま耳に吐息を流し込まれたような心地がしてぞわぞわする。
『あー……どうしよう、すごく興奮する。僕もうガチガチ』
ふと、この電話の向こうの相手もちゃんと興奮できているのだろうかと気になった。
「……おまえは今どういう感じなんだ」
『僕? 僕はね、今下着を脱いで自分のを握ったところ』
「スマホは?」
『無線タイプのヘッドセット着けてる』
「……ガチガチ、なのか」
『うん、おかげさまで』
今この電話の向こうでガチガチになっているという光忠の性器を思い描く。二回見ただけのそれは一般的な成人男性のものよりも大きな立派なもので、表面に太い血管がビキビキと走り、先端は大きく傘の張った逸品だった。
その感触や味を思い出してゴクリ、と喉が鳴る。
「……また、足で扱いてやろうか」
気づいたらそんな言葉が口からするりと出ていた。
『っ……』
「それとも舐められる方が好きか?」
『……どっちも、かな。でも僕はまた君の脚を舐めたい』
「おまえ本当に俺の脚が好きだな」
『君の脚だからいいんだよ。つるつるしてて、すべすべで。君の薄くまんべんなく筋肉のついた引き締まった綺麗な脚に口づけてると、なんというかすごく背徳感があってイイ』
「ドMか」
『否定はしない。君に付き従ってる気分がして、安心するし興奮するんだ』
そうだ。この男は自分のパートナーで、そして自分はDomなのだ。そうして自分達は三回目、バーでのお試しを入れるならば四回目のプレイを、電話越しにしている。そのことがようやく身に沁みてわかってきて、長谷部は長い長い息を吐いた。
無理をする必要はない。今までのように光忠を、できる限りいい形で支配してやればいいのだ。そうして、互いが気持ちよくなれればいい。たとえなれなくても、光忠の言葉を信じるなら、きっと見捨てられるということは、ない。まだそのことに確たる自信は持てないけれど。
『長谷部くん?』
「……いや、ちょっと緊張が解れてきたところだ」
『それはよかった』
「……なあ、俺に扱かれてると思って、自分でシてみてくれ」
すこしの間を置いてから、イヤホンから『オーケー』と聞こえてきた。
『……ん、この間の、口でシてくれた長谷部くん、かわいかったな』
ローションでも使っているのだろうか。話し声に混じってかすかな水音が聞こえる。
くち、ぐちゅ、という音と共に、熱のこもった声が素直に快感を告げる。
『君の小さいお口が僕のを飲み込んでいく様子はヨかったし、ひらひらした舌で僕の裏筋や血管を沿うように舐めてくる様子が一生懸命で、んっ……、すごく、興奮した』
「……俺も、興奮した」
下着から逸物を取り出し、太く硬く主張するそこをゆるゆると扱き始める。先走りを絡めて扱いた為にやはりかすかな水音が響く。この音は向こうにも聞こえているのだろうか。
「雁首の辺りを、強く刺激されると、ぁ、たまら、なくて」
思い出す。光忠の熱いくらいの口内の温度。柔らかく湿った感触。舌の動き。
は、は、と短く吐かれる呼気がどちらのものなのか既にわからない。イヤホンの向こうからもこちらからもひっきりなしに水音が聞こえる。
簡単にイきたくなくて、時折達しそうになるのを根本を強く掴んで堪える。しかし光忠から『……ごめ、僕、もう、イきそう……!』と声が聞こえたので少々面白くない気持ちが起こる。面白くない、と思った瞬間に口は勝手にコマンドを出していた。
「”Stay”」
『っっ……!! 』
ぐぅ、と獣のような低い唸り声が鼓膜を震わせた。どうやら電話越しでもコマンドは正確に機能したらしい。
『は、長谷部、くん、なんで』
「……俺より先にイくな」
『っ、それは、命令かな』
応と答えたらどうなるだろう。この命令は、光忠の気に入るものだろうか。自分は間違っていないだろうか。
失敗したっていいじゃないか。先程の光忠の言葉がふと頭を過った。
――失敗したっていいじゃないか。
――そうやって、いつか「あんなこともあったね」って笑い話ができるような関係を、僕は君と築きたい。
この状況に至っても未だ自信を持てずにいる長谷部に、真摯に向き合ってくれる光忠。そんな光忠にふさわしいパートナーでありたいと、長谷部はその時初めて思った。
光忠の好意に飛び込んでいく形で、長谷部は口を開く。
「そうだ」
どう出るか、と構えたところに返ってきたのは、熱い吐息の音だった。
『……オーケー。我慢する』
「”Good boy”」
『…………んん、』
「光忠?」
くぐもった呻き声が上がったので、慌てて名前を呼ぶ。何かまずかっただろうかと焦った長谷部の耳に吹き込まれたのは、笑い混じりの優しい声だった。
『大丈夫。ちょっとSub spaceに入りかけただけ』
「入りかけ」
『うん。まだ完全に入ったわけじゃないけど、すこしふわふわするかな』
気持ちいい、とほとんど独り言のように呟かれて、顔が熱くなる。完全に入ったわけではないとのことだが、それでもパートナーを満足させられているという事実に確かな手応えと満足感を得た。
精神の高揚に、それまで掴んでいた逸物がどくりと脈打つ。そしてそれと同時に疼く場所があって、長谷部は深く息を吸った。舌で唇を湿らせながら言葉を告げる。
「光忠」
『なあに』
「俺に挿れたつもりで、出してみろ」
『……え、』
「今から慣らすから、その後で、俺に、その……挿れてくれ」
『いいの?』
「おまえにされて嫌なことなんてない」
あらかじめ出しておいた潤滑剤のチューブを掴んで、中身を絞って手の上にぶちまける。てのひらにまんべんなく伸ばすように塗りつけて、性急な動きで後ろに手を伸ばした。
シャワーを浴びた時に多少慣らしておいたので、縁をすこしなぞって押し込むだけで指はぬるんと内側に吸い込まれた。
「っ、あ」
『指、もう挿れてる?』
「ん、ああ」
『中、どんな感じ?』
「さっき慣らした、から、ぁ、やわらかい、けど、まだ、んん、きつ、い……」
『焦らないで。ゆっくりでいいから。ほら、長谷部くんの好きなところぐっと押してあげて』
「ふ、あ、んんっ」
『届いた? 押したり離したりして、ちょっとずつ気持ちよくなろうね』
言われた通り、何度か押したり離したりを繰り返すと、じんわりとした快感が下腹部から上ってくる。それと同時にせり上がってくる射精欲に居ても立ってもいられなくなってきた。四つん這いの姿勢から頭をぐりりとシーツに擦りつける。人には我慢を命じておいて、このざまだった。
「だめ、だ」
『長谷部くん?』
「はやく、ほしい」
ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
『……バイブとか、あるのかな』
普段よりは幾分か低い声で問われる。応と答えると、『じゃあ、それを僕だと思って挿れてよ』と返された。予想を超えた返答に長谷部は固まった。
『目を瞑って。僕の声と体の感覚に集中して』
「わかっ、た」
ゆっくりとディルドに手を伸ばし、先程と同じように潤滑剤を塗りたくり、ひたりと後ろの穴に押し当てて目を瞑る。これが、光忠のだったら。はあ、と熱い吐息が口から漏れた。
「ぁう、みつ、ただ」
『傷つけないようにゆっくり挿れていこうね』
誘導されるままにずず、と体内にすこし押し入れていく。潤滑剤の力でそれほどの抵抗はなく、体内がみちみちと埋められていく。
「っは、ぁ、入ってきてる……っ」
『ん、ゆっくり、ゆっくり。そう、上手』
真っ暗な視界の中、光忠の声がまるで見ているかのように長谷部を褒める。そうしていると、まるで今自分の体を押し開いているのが光忠のような気がして胸がいっぱいになる。幸福感でじんと頭の奥が痺れるような心地がする。
「あ、んっ、おく、キた……っ」
『奥まで届いた? じゃあ、すこし動かしてみようか。ちょっと揺らすよ。どうかな』
「あ、ぁあ、っひ、光忠、みつた、」
『大丈夫。僕はここにいるからね。ほら、もうすこし頑張ろうね。一緒に気持ちよくなろうね』
「んっ、あ、や、っふあ、激しいっ」
『長谷部くん激しいの好きなの? じゃあ、もっと激しくしようか』
「うああっ、あっ、や、ぁ、んんっ」
『長谷部くん、かわいい。すき。すきだよ』
耳元に聞こえる声は低く掠れていて、向こうもそれほど余裕がないことがわかる。
『はあ、ね、そろそろ出していい? 熱くて狭い君の中に、僕の精液注いでもいい?』
それでも健気に許可を求める発言に、支配欲がじわじわと満たされる。
「”Stay”、だめ、だっ……! まだ、もっと、突いてくれ……っ」
長谷部の雄芯からはとろとろと生ぬるい液体がひっきりなしに溢れ、会陰を通って結合部で潤滑剤と混ざってぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てている。
『っ……はせべく、』
「あっ、きもちぃ、はぁ、んっみつただ、みつただ、ぁ、もっと、”Keep”」
喘ぎながらもコマンドを出すと、光忠はその都度苦しそうな呻き声を上げて耐えているようだった。お互いの喘ぎ声と水音が鳴り続ける。
程なくして、長谷部の眼裏に白い星がちかちかと明滅し始める。絶頂が近い。後ろの手の動きは止めないまま、前にも手を伸ばして上下に扱き始める。
「ぁ、あ、ああ、みつ、だめ、イく、出るッ」
『ぅ、あ、僕も、でそうっ』
「だせ、だして、みつただ、ぁ、なか、だして、ふああああっ」
絶頂の寸前、”Come”と口走ったのが届いたらしく、体をびくびくと震わせて射精の快感に酔いしれる長谷部の鼓膜を、一段と低く艶のある呻き声が震わせた。
射精後の余韻も冷めやらぬうちに、長谷部は苦心してずるりとディルドを引き抜き、手早くウェットティッシュで汚れた手と下半身を拭く。
お互い荒い息をつきながらの無言の中、先に口火を切ったのは長谷部だった。
「……なあ、イけたか?」
『……うん……気持ちよかった』
「許可するまでちゃんと我慢できたな。偉いぞ。”Good boy”」
数秒間の沈黙が返ってきた。焦れて「おい」と言葉をかける前に光忠がどこか夢見心地な声で『長谷部くん』と名前を呼んでくる。
『長谷部くん、あのね。僕、今Sub space入ってる……』
「は」
『あー……すごくふわふわして、きもちいい……頭撫でてほしい……』
甘えるような声音で陶然と零された言葉に、長谷部はなんと言っていいかわからず「あ」「う」と意味もなく口を開けては閉じた。
「よ、よかった、な……?」
『君のおかげだよ』
「光忠、」
『直接見せられないのが残念だけど、ほら。これで自信持ってくれるかな。君は駄目なDomなんかじゃないよ』
そう言われて、今までの様々な出来事が渦を巻いて脳裏に甦った。不満を言わずに噛みしめられた唇。諦念と失望を浮かべた表情。去っていく背中。伸ばせないままの手。「長谷部さんの支配は安心できないんです」。色と音を中心にしたそれらが、光忠との思い出にゆっくりと押し流されていくようだった。
気づけば長谷部の瞳からはぼろりと大粒の涙が流れ落ちていた。
「っ……みつただ、」
『うん』
「………………ありがとう」
震える声でどうにか礼を言うと、優しい声が『どういたしまして』と応えた。
『……ねえ、次いつ空いてる? 早く君に会いたい。会って、ちゃんと直接プレイがしたい』
それは、長谷部も同じ気持ちだった。慌ててスマートフォンからスケジュールを確認する。
「……来週の土日はフリーだ」
『今までみたいにラブホテル……っていうのはムードがないかな。僕の部屋と君の部屋、どっちが好み?』
「何が」
『初体験の場所』
かあ、と顔が熱くなった。たしかに、そういうことになるだろう。もうやっていないことといえばそれくらいだ。ここまで心身を明け渡してきたのだから、あとは最後の一線を越えるだけというのはわかりきっている。今日だってもう擬似的に挿入を果たしたようなものなのだ。何を恥ずかしがるようなことがあるのだ。そう自分に言い聞かせ、長谷部は縮こまりそうになる舌を無理矢理に動かした。
「…………俺の、部屋で」
『オーケー』
そうしてあとは慣れた風に待ち合わせ場所を決めて、おやすみと言葉を交わして電話を切った。
イヤホンを耳から外し、どさりとベッドに横になる。
挿入の時に紛れるように言われた「すきだよ」という言葉が脳内でぷかりと泡のように浮かび上がり、ぱちんと弾けて消えた。
長谷部の中で光忠の存在は間違いなく大きな、かけがえのないものになっている。今回のプレイでそれを思い知った。
『君は駄目なDomなんかじゃないよ』
『長谷部くん』
『かわいい』
『すきだよ』
光忠から貰った言葉達がぽこぽこと脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。その度に長谷部の胸はきゅうきゅうと切なく締めつけられた。
もう、認めてすべて明け渡しても構わないだろうか。光忠を信じて、その手綱をしっかりと握ってもいいのだろうか。
明け渡したい、と思う。光忠を信じたいとも、その手綱を握って支配して、命令して。うまくできたら甘やかしてやりたいとも思う。
これが恋かはわからない。同じ温度の気持ちで応えなければ不誠実なのかもしれない。でも、そんな自分ごと受け入れてほしいと、我が儘にもそんなことを願ってしまう時点でもう駄目だった。恋と言うには少々重すぎる執着と情を、長谷部はここにきてようやっと認めることにした。
スマートフォンを手に取り、通話履歴に映る四文字を眺める。長船光忠。長谷部のパートナー。そうしてじっと文字を眺めた後、その隣にある星のマークをそっと指で押す。
『この連絡先をお気に入りに登録しますか?』
ポンと液晶に浮かんだポップアップに、長谷部は迷わず『はい』のボタンをタップした。
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