人を信じることは難しい。
けれど心を閉ざして肩肘を張り続ける若さなんて、いつのまにか通り過ぎてしまった。
笑顔で優しい言葉を使っていれば周りはみんなそれとなく騙されてくれるし、そうやって取り繕うのが大人としての正しい生き方なんだと思っていた。
――彼に、出会うまでは。
『長谷部国重』という名前を見た時、ぱっと思い浮かんだのは、そういえばたしかそんな刀工がいたな、ということだった。
僕の名字である「長船」は備前、つまり現在の岡山県の地名由来の名字である。光忠というのはそこに住んでいた刀工の名前で、日本刀鑑賞を趣味にしていた祖父に僕は名付けられた。何故か周りにも日本刀由来の名前を持つ友人知人もちらほらいて、そんな環境もあったせいか、僕も例外なく日本刀が好きだ。時代が時代なら刀を持って戦場を駆け回ってみたかったと思うくらいに。
閑話休題。
最終面接に残った社員候補たちの履歴書やエントリーシート、面接官の印象等を一枚一枚目を通していったなかで彼、『長谷部国重』くんが目に留まったのは、それが理由である。
大学の成績も良く、筆記試験もトップクラスの結果を出している。適性検査や面接官からの印象としては「ややまじめすぎる」きらいがあるくらいが懸念点か。経理希望で簿記資格も既に持っている。
「ふうん、いいんじゃない」
そう呟いて、僕は彼と、その他十数名の書類一式を秘書に渡してにっこり笑って見せた。
「最終面接に進むのはこの子たちにしよう。手配よろしくね」
はい、と一礼して秘書が去って行く。うちの秘書たちは優秀だ。今週中には最終面接の手配が整えられるだろう。
一週間後の最終面接で、長谷部国重くんは緊張しているのかやや硬い表情で社長室に入ってきた。
「失礼します」
ビジネスマナー研修のお手本みたいな礼をした彼は、僕が勧めた椅子に腰かけ、ぴんと背筋を伸ばしてまっすぐに前を見ている。
それだけ見れば既に立派なサラリーマンのようなのに、まだリクルートスーツに着られている感があるのが初々しい。
(毎年思うけど、若いっていいなぁ)
そんなことを考えながら、あたりさわりのない質問や雑談をしてみて、特に人格や思想に問題がなさそうなことを確認すると、内心で採用を決める。不採用だったらここですぐ帰すのだが、せっかくだからと僕はすこし意地悪な質問をすることにした。
「直接話してみて、僕のことはどんな風に思ったかな?」
彼はすこし面食らったような顔をして、ええと、と考えるそぶりをみせた。
さあ、なんて言うかな。随分真面目そうだから、今まで聞き飽きてきたような通り一遍の褒め言葉を言うのか、それとも――、
「……意外と、普通の方だな、と」
鳩が豆鉄砲を食った時ってこんな心地だろうか。予想外の言葉に僕の笑顔が固まった。
「一代でこの規模の会社を築き上げた長船社長のことはずっと前から存じていました。どんな方なんだろうと、ずっと気になっていたんですが、こうやって話してみると、意外と普通の方で驚きました」
褒められているのかけなされているのか非常にギリギリのラインを攻めてくる解答に、僕は「……そうかい」としか返せなかった。予想外だ。
自慢ではないが、小さい頃からなんでもできたし、大抵のものは望んで努力すれば大体手に入った。容貌もスタイルも悪くないと思っている。そんな地位も名声もある年上の大人――しかも入社希望先の社長だ――を「普通」と言ってのけるとは、なかなかどうして将来大物になりそうな若者じゃあないか。
胸の奥からこみ上げてくる笑いを噛み殺しながら、僕はつとめて物わかりのいい大人の顔で頷いてみせた。
「……ありがとう。面接は以上だよ。結果は追って報告させてもらおう」
「こちらこそありがとうございました。失礼します」
そう言ってパタンとドアが閉められてからたっぷり十秒ほど経ってから、僕は肩を震わせて笑った。
「…………っふふ、面白い子だなぁ」
机の上の履歴書を見ると、Subという項目に丸がつけてあるのが目に入る。
(……ああ、Subなのか、あの子)
首輪をしていないということは、フリーのSubなのだろう。
ダイナミクスの有無や性質で職業制限をかけるのは法律で禁じられているので、特に選考にどうということはないが、それでも気の強い取引先とやりとりをすることの多い営業等の仕事はあまり向いていない、とされるのがSubである。入社後の所属については本人の希望を鑑みて調整が必要だろう。財務だからおそらく大丈夫だとは思うけれど。
その後、彼ときちんと言葉を交わしたのは、新人歓迎会のパーティの時だった。有志で二次会をするのだと連絡が入って、僕もすこしだけ顔を出してお金でも置いてこようと居酒屋に向かうと、その居酒屋のトイレで長谷部くんが吐いていた。
便器を掴んでげえげえと吐く背中を思わず擦ってやり、持っていたペットボトルの水を与えると、「……ありがとうございます……うっ」と言ってまた吐いた。
これは相当飲まされたな、と新入社員を飲ませそうな社員にあたりをつけて後で説教しなくてはと思っていると、長谷部くんはふらふらと立ち上がった。
「待って、どこ行くんだい」
「……先輩に、呼ばれてるので……」
「ならこっちは社長命令だよ。送ってあげるから帰りなさい」
「死ななきゃやすい……」
「馬鹿か君は! 死んだら元も子もないだろう。いいから、すぐに帰るんだ」
酔っ払い相手に何をムキになっているんだろうと我ながらおかしかったが、見捨てるわけにもいかない。第一、新入社員が急性アルコール中毒だなんて、会社の外聞が悪すぎる。
僕はぐずる彼を引きずるようにして一緒にタクシーに乗り込み、彼から自宅の住所を聞いてそこへ向かうよう運転手に指示した。
車が動きだしたあたりで、長谷部くんはきょろきょろと周りを見渡し、「あれ……ここは? 店は?」と言い出したので、ようやく正気が戻ってきたらしい。
「タクシーで君の家まで送るところだよ。おとなしくしてなさい」
「たくしー……」
前言撤回。彼の正気はまだ大気圏外を漂っているらしかった。
「あなたは……」
「僕は社長です」
「しゃちょー? またまたー」
けらけらと長谷部くんが笑う。出来の悪い日本語学習のテキストのような会話をしている自覚はあった。僕は溜め息をついて、長谷部くんの頭を掴んで自分の肩にもたらせかけた。
「いいから君はちょっと寝てなさい。着いたら起こしてあげるから」
「んー……」
長谷部くんはなにやら呻き声を上げながらもぞもぞしている。もしやまた吐くんじゃないだろうな、と不安になって鞄の中からビニール袋を取り出そうとしていたら、突然眼帯を捕まれた。
眼帯は僕の一種の鎧のようなもので、それに突然触れられてしまったものだったから、驚きのあまり反応が遅れた。僕がその手を叩き落とそうとするよりも早く、「なんでですか?」と声をかけられる。
「なんでそんなのつけてるんです? これ胡散臭いから外しましょうよ」
やめ、と声をかける前に眼帯を剥ぎ取られてしまう。
もう何年も人前で右目をさらしたことはなかった。生まれつき視力のないこの右目のことを評する言葉を僕は知っている。
――気味が悪い。
――気持ち悪い。
――こっち見るなよ。
今まで言われてきた言葉があとからあとから湧き上がり、ぐるぐると脳内を回る。嫌だ。なんで。せっかく忘れてたのに、どうして。
けれど、彼は不思議そうな顔で首を傾げた。
「きれーな目じゃないですか。なんで隠してるんですか? もったいない」
視力のない、焦点の合わない濁った右目のことをそんな風に言われたのは生まれて初めてで、僕はぽかんと隣の長谷部くんの顔を見つめた。
「檸檬色と蜂蜜色で、なんだか美味しそうですね」
くふふ、と長谷部くんが満足げに笑うのを、僕は信じられない思いで見る。多分、嘘ではない。嘘をつけるほど今の長谷部くんに理性は残ってないだろう。
思いがけない相手から思いがけないタイミングでかけねなしの賛辞を貰ってしまって、なんて言ったらいいのかわからない。僕は昔見た映画の幽霊みたいにただ「あ」「あ、う」と繰り返すことしかできなくて、そうこうしているうちにタクシーは長谷部くんの家の前に着いた。
「しゃちょー、ありがとうございました!」
そんなことを言って長谷部くんはぱっとタクシーを降りていく。タクシーのドアが閉まり、長谷部くんの姿が遠ざかるのを、僕は振り返ってずっと見ていた。
角を曲がってようやく長谷部くんが見えなくなると、僕は後部座席に残された眼帯を握りしめ、反対の手で顔を覆う。
「お客さん、災難でしたね」
ずっと無言だったタクシーの運転手が苦笑交じりの声をかけてくる。
「ええ、いや、まあ」
災難なものか。真っ赤な顔を押さえながらそう思う。驚いたけれど、それはもうとてもとても驚いたし、今も驚いているけれど。
だって、まさか。
二十も年下の子の言葉に、こんなに心を揺すぶられるなんて。
四十数年間拗らせに拗らせていたトラウマを払拭するほどの嬉しい言葉をもらうだなんて。
長谷部国重くんが、僕の中でとても特別な存在になった夜のことだった。
その後社長という身分をフルに活用して、新人研修ではこまめに顔を出したり、配属先を決める会議でやんわりと秘書室に男性がほしいという希望を出してそれとなく長谷部くんを推薦しておいたり、とにかく僕は水面下で必死になってどうにか長谷部くんに近づこうとした。
我ながら大人げないとは思う。でも、どんな手を使ってでもまた彼と言葉を交わしてみたかった。また笑いかけてほしかった。秘書室に配属になった彼と再会した時には嬉しくて声が弾みそうになるのを誤魔化すのが大変だった。残念なことに長谷部くんはあの夜のことを何も覚えてないようだったけれど、それでも良かった。
尊敬できる上司の顔をしながら、その実僕は彼の前ではただの恋する男だった。こんなに心がままならないものだなんて知らなかった。幸い形振り構わずに告白するようなことだけは避けられたが、長谷部くんが一人きりで残業している時にお菓子やコーヒーを差し入れたり、声をかけるのはやめられなかった。
長谷部くんのまっすぐに伸びた背中も、若さゆえのすこし向こう見ずな部分も、たまに見せる純粋さや優しいところも、全部がいとしかった。
僕の指示に素直に従って仕事をする長谷部くんにぞくぞくしたものを感じた時、僕は「まずいな」と思った。長谷部くんが入社して一年後、僕はDomとして、彼を支配してみたいと思い始めていた。彼に信頼されたい。甘えられたい。隷属させたい。
駄目だ、と思うのに、一度自覚した気持ちは日に日に大きくなっていった。時折「パートナーになってみない?」と冗談めかして誘う時だって、いつも僕は本気だった。それなのに、長谷部くんの手を取るのは怖い自分もたしかにいた。
要するに、僕は長谷部くんを自分の中で神聖視しすぎていたのだった。触れたいのに、触れたくない。そんなジレンマをずっと抱えて、このまま定年まで生きていくのだと、そう思っていたのに。
長谷部くんがタチの悪いDomに引っかかって倒れているのを見た時、僕の頭の中に浮かんだのは醜い思いだった。これは、チャンスだ。
怯えて混乱する長谷部くんをなだめ、「”Good boy”」と囁いてやりながら、心の中で濁った目をした僕が耳うちしてくる。
――欲しいなら、掴み取ればいいだろう。
「……ねえ、長谷部くん」
――今までだってそうしてきたじゃないか。
「僕とおためしでパートナーになってみない?」
僕の目の前には、うっとりとした顔で僕に撫でられている長谷部くんがいて、それを見ているとわずかな理性さえ粉々になってしまいそうだった。
もっともらしい理屈や建前を並べ立てながら、僕は「どうかな」と人の良さそうな顔で笑ってみせる。
「どうか、僕のパートナーになってください」
姫君からの許しを請う騎士のように、長谷部くんの手の甲に口づける。
許して欲しい。でも、許さないで欲しい。
相反する感情を抱えた僕を、長谷部くんは戸惑いの瞳で見つめている。涙で潤んだ瞳は雨上がりの紫陽花の色をしていた。この世の何より綺麗な色だと思う。
「……僕を、信じてくれ」
そんなことを言ってみせる。自分のことがこの世で一番信用ならないのに。
「……よろしくお願いします」
長谷部くんがわずかに手を握り返してくれた時、僕は信じられない思いで「やった」と口にした。嬉しい。嬉しくてたまらないのに、でも、苦しい。愛する人を仮にでも手に入れるという僥倖は、しかし心の奥にかすかな陰を落としたのだった。
それらを見ないふりをして、僕はもう一度長谷部くんの手にキスをする。
「これからよろしくね、長谷部くん」
パートナーとして関係を重ねていくと、長谷部くんはDomが嫌いだということがわかってきた。どうやら昔酷い目に遭わされたらしく、そのトラウマの根はかなり深いようだった。なるべくトラウマを刺激しないように、僕は細心の注意を払って長谷部くんとプレイをし、その甲斐あってか時折ではあるが自然な笑顔を見せてくれるようになった。
でも、長谷部くんが僕に心を許せば許すほど、僕は怖くなった。
僕にだって、あるのだ。長谷部くんを服従させたいという、Domとしての欲が。長谷部くんを跪かせて、泣かせて、ぐちゃぐちゃに踏みにじってやりたいという欲求が、たしかに僕の中には存在していた。
もっと近づきたいのに、近寄るわけにはいかない。だって僕のこの思いは長谷部くんにはきっと毒でしかない。
いっそきっぱり振られてしまおうかと告白して、返事を保留にされた時は、これで終わりだと思った。純粋で優しい長谷部に、きっと自分は似合わない。
――それなのに。
「もし信じるなら、俺は貴方がいい」
夕暮れの観覧車でそんなことを言われた時、僕は驚いた。
「今はまだやっぱり、Domのことは信じられません。でも、『俺』を好きと言ってくれた貴方のことを、俺は信じてみたい」
そこに込められたまっすぐで不器用な好意を見て取って、僕は胸をかきむしられるような思いがした。
どうしようもなく彼のことが好きだ。好きで好きでどうしようもなくて、だから、僕は彼が信じているであろう『長船光忠』として振舞わなければならない。
「君が僕を心から信じられるようになった時に、どうか君からキスをしてほしい」
そんな子供じみた約束をする。そんな日がずっと来なければいいのにと思う。だって僕は彼が信じるにはあまりにも醜い。僕が一生懸命組み立てた砂の城をこそ、長谷部くんは好きになってくれたのだから。
はにかみながら小指を差し出す長谷部くんがいとおしければいとおしいほど、自分が無性に惨めだった。
だから、長谷部くんが知らないDom――実際はSwitchだったようだが――の匂いを濃厚に纏わりつかせて現れて、意図せずにDefense状態になってしまった時、僕は心のどこかで「終わった」と思った。
Defense状態のDomは怒りで周りが見えなくなり、攻撃的になってしまう。
せっかく長谷部くんが僕を好意を向け始めていたのに、自分でぐちゃぐちゃにしてしまった。何より大事だと宝物のように思っていた子を、僕自身の手で傷つけてしまった。Domが嫌いだと、信じられないと言っていた子に対して、Domの一番嫌な面を見せてしまった。
自分を百回殺しても罪を償える気がしない。
それなのに、長谷部くんはSub dropに入る直前、僕にキスをくれた。「貴方が好きです」と、そう言ってくれた。
Sub dropで錯乱していたのかもしれないけれど、長谷部くんのあの言動は僕を正気に戻すには十分だった。
正気に戻った僕は急いで長谷部くんを介抱して着替えさせ、彼の部屋に運んだ。
気を失っている長谷部くんはどうやらうなされているようだった。そっと手を握ると、眉間に寄っていた皺がすこしだけゆるむ。
「……みつ、た、さん」
長谷部くんは僕の名前を呼ぶとふにゃりと顔を緩ませた。長谷部くんの寝顔がじわじわと滲んでいき、僕の眦から涙がぼろりと溢れだした。
「長谷部くん、ごめん、ごめんね」
ひどいことをしてごめん。情けないDomでごめん。駄目な大人でごめん。本当はもっと君にふさわしいDomを見つけて幸せになってもらうべきなのに、みっともなくしがみついて、こんな、こんな。
「…………君が好きだよ」
祈るような気持ちで口にする。好きだ。好きなんだ。僕より二回りも下の、純粋で優しい君のことを、こんなにもいとおしく思っている。
――だから、だから。
「もう君とはいられない」
彼の手を離してあげることだけが、今僕ができる彼に対する最大の愛情だと思った。
急いで荷物をまとめて本社に戻り、慌ただしく有休を取った。出張先で風邪を引いてしまったらしくて、と言えば周囲は特に疑いもせずに従った。次いで長谷部くんの有休の方も一緒に申請しておく。
自宅のマンションに戻り、僕は何をする気も起きなくてベッドの上に横になっていた。
(……とりあえず、経理の方にでも長谷部くんが異動できるように何か考えなくちゃなぁ)
きっと僕の顔を見るのも嫌になってるだろうから、秘書室にそのまま在籍するのはつらいだろう。
(あと、一度直接謝って、一発殴られておかないと)
ほとんど衝動的に逃げ出してしまったのだから、それくらいの責任は取らなければならない。そんなことを考えていると、ピンポン、とチャイムが鳴った。
のろのろと起き上がってインターホンの画像を見ると、そこに映った人物の顔に、ひゅっと喉が鳴った。
「…………はせ、」
『光忠さん、いるんでしょう。開けてください』
なんで。どうして。そんなことを考えていると、長谷部くんはチッと舌打ちして何度かインターホンを鳴らした。ピンポンピンポンピンポン。
『開けろ』
ドスの聞いた声だった。目が据わっている。
エントランスの開錠ボタンを押すと、長谷部くんの姿が画面から消える。そこから一分間はまるで死刑宣告を待つ囚人の気分だった。
ピンポン、と今度は入り口のチャイムが鳴る。おそるおそるチェーンロックを外し開錠すると、ドアががちゃりと開く。
「おはようございます、光忠さん」
次の瞬間、僕の腹に容赦のない拳が入った。
Trust my love and kiss me.・8
Trust my love and kiss me.
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