初恋すてっぷ

短編
     

9943文字

「生まれ変わってもかならず君を見つけに行くから。だから、待ってて」

 そんな約束を交わして、実際に来世で巡り会える強運な恋人同士というのは一体この世で何組いるのだろう。
 まず互いにどの時代、どの国に生まれるかというので大きく明暗が分かたれる。国も時代も無数にあって、同じ国・同じ時代に生まれるなんてことは奇跡に近い。また仮にその奇跡を勝ち取ったとしても、今度は生きているうちに出会えるかの賭けに勝たなくてはならない。気の遠くなるような確率だ。

 そういった天文学的な確率をくぐり抜けて、僕は前世の恋人と再び、そして初めて巡りあい、互いの想いを確認しあうという僥倖を掴みとった。もうこれだけで一生分の運は使い果たしたんじゃないかって思うくらいだ。だから、そう、このくらいの誤差は許容範囲だと思わなくてはならない。

 僕が小学生で、長谷部くんが高校生だなんて、そのくらい。

初恋すてっぷ

 洗面台に置いてある僕専用のステップに上り、顔を洗い、身だしなみを整える。寝ぐせのつきやすい髪質は今生も健在で、すこし髪を濡らしてドライヤーとブラシで念入りに直していく。
 今日はいつもより綺麗に手早くまとまった。こんな朝は、なんだかいいことがありそうな気がする。
 鼻歌を歌いながら、朝早い両親が残してくれた朝食を平らげて日課の牛乳を飲み、歯を磨いてもう一度だけ鏡で身だしなみを確認したら、昨日の夜に中身を準備したランドセルを背負ってマンションの玄関を開ける。
 同時に、隣の家のドアもガチャリと開いた。

「長谷部くん、おはよう!」
「おはよう、光忠」

 僕が呼びに行くよりも早く、しかも僕と同時に長谷部くんが出てくるなんて、今日は本当にいい日だ。僕は長谷部くんに駆け寄り、学ランの袖を引く。
 僕の意図を察して長谷部くんは用心深く辺りを見渡した。誰もいないことを確認すると、僕の手を引いて非常階段のある物陰までやって来て、さっとかがむ。僕はすこしだけ背伸びをして、そのほっぺたに唇を触れさせる。

「長谷部くんは今日も綺麗だね」
「……それはどうも」

 長谷部くんがほんのり顔を赤くして、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわす。いくら照れ隠しとは言え、せっかく綺麗に整えた髪をぐしゃぐしゃにするなんて! 長谷部くんは生まれつきのサラサラストレートだから僕のような癖のある髪質の人間の気持ちなどわからないに違いない。
 僕は手櫛で一生懸命髪を直しながら、抗議の意を込めて長谷部くんを見上げる。

「ひどいよ長谷部くん!」
「うるさい。さっさと行くぞ」

 赤くなっている顔を隠すようにして長谷部くんはずんずんと非常階段を降りていく。僕がもうすこし大きかったら余裕で追い越せるのに、今の僕では悲しいかな、小走りでないとついていけない速度だった。
 このマンションは部屋数に対してエレベーターの数が少ないので、朝のこの時間はなかなか僕らのいる階までエレベーターが回ってこない。幸い、階段でもギリギリ行き来できる階に住んでいたので、運動も兼ねて僕と長谷部くんは非常階段を使って学校に通っている。
 先に降りていく長谷部くんとの距離に注意しながら、ふふ、と僕は思わず笑いをこぼした。
 僕は結構この非常階段通学が気に入っている。なぜなら、僕が長谷部くんのつむじを見られる数少ない機会だからだ。
 前世で本丸にいた頃は僕の方が身長が高かったから自然と見下ろす形になっていたのだけど、今生ではご覧のありさまだ。こういう段差でもないと僕は長谷部くんのことを見下ろす機会は少ない。
 どこか懐かしいつむじを見下ろしながら、僕は階段を降りていく。


 長谷部くんと僕が再会したのは、今年の春のことだった。

 両親の仕事の都合でこのマンションに引っ越してきた僕は、お隣の表札に「長谷部」と名前があったのを見て飛び上がりそうなくらい喜んだ。
 物心ついた頃から本丸での記憶があった僕は、今生で長谷部くんと再び出会うことを渇望していた。とは言っても小学生の行動範囲なんてたかが知れているので、家族旅行先や外出先で長谷部くんが好きそうなところを回る、とかその程度だったけれど、それでも僕は必死だった。

 そんな時に引越し先のお隣の苗字が「長谷部」とは。そんなうまい話があるわけないと思いつつも、もしかしたらその長谷部さんの遠縁なんかに僕の探している長谷部くんがいる可能性だってあるかもしれない。僕は引越しの挨拶の品を持っていく母に無理矢理ついていって、うきうきとした気分でお隣のインターホンを鳴らした。

「はい」

 そう言って彼が出てきた時のことを僕は生涯忘れないだろう。
 玄関の照明に照らされた煤色の髪に、僕を見てまあるく開かれたうつくしい藤色の双眸。意志の強さを感じさせるきりりとした眉に、しゃんと伸びた背中。俊敏そうに引き締まった脚。
 ああ、長谷部くんだ。言葉を交わさずともわかった。僕の長谷部くんだ。
 もっと見ていたいのに、視界がぐんにゃりと歪んで世界がきらきらと輝き出す。僕はぐいっと袖口で目もとを拭った。
 胸がいっぱいで顔が熱い。どうしよう。きっと今の僕、全然かっこよくない。もう一度会うときは、かっこよく決めてみせるって、そう思っていたのに。
 それでも僕は無理矢理笑顔を作り、震える声で告げる。

「はじめ、まして。長船、光忠だよ」

 長谷部くんの顔がくしゃりと泣きそうに歪み、唇を噛み締めながらゆっくりと僕に近づいてしゃがみこむ。揺れる視界の向こうで、藤の瞳がやさしく、そしてまっすぐに僕を見つめている。

「……長谷部国重だ。よろしくな」

 差し出された手を握り、僕はとうとうこらえきれなくなってわんわんと大泣きしてしまった。光忠、泣くな。馬鹿だな。そんな言葉がかけられる。
 馬鹿でいいよ。僕は泣きじゃくりながらそう返す。長谷部くんに会えてこんなにも嬉しくて幸せだから泣けてくるんだ。嬉しい気持ちが勝手に目から溢れ出してきちゃうんだ。だから僕は馬鹿でいい。君と巡りあえて嬉しくない僕なんてきっと僕じゃない。
 長谷部くんは困ったように笑って、そうしてその瞳から宝石のような涙をぽろりと一粒流した。

 そんな風にして僕たちは奇跡のような再会を果たしたのだった。

◆ ◆ ◆ ◆

 学校から帰り僕が明日の宿題を終わらせた頃、部活動を終えた長谷部くんが帰ってくる。今日も僕は長谷部くんに懐いている近所の子供として長谷部くん宅にお邪魔していた。

「鈍い鈍いとは思っていたが、生まれてくるのまで遅いとは思わなかった。この鈍間」

 3LDKの一室、長谷部くんの私室でせっかくの逢瀬だというのに、長谷部くんがそんなひどいことを言うものだから、僕は口をとがらせる。

「僕だってもっと早く生まれたかったよ」

 僕だって叶うことならば長谷部くんと同じかそれより早く生まれて、これ以上ないくらいかっこいい姿で出会いたかった。でも、出会えなかった可能性の方が何百倍、ううん何億倍も大きかったのだと思うと、そう贅沢も言ってられないのかなという気分になる。

「これでも遠足や家族旅行先で、長谷部くんのことずっと探してたんだ。僕だって一生懸命だったんだよ」
「俺はそのプラス六年分探してた」

 それを言われてしまうと僕に返す言葉はない。しかし、その言葉にはたしかに若干拗ねているような響きがあって、思わず笑みがこぼれる。僕の恋人が意地っ張りで寂しがり屋なのは今生でも変わらないらしい。僕は胸にあたたかいものを覚えながら、クッションに座る長谷部くんに膝立ちでにじりよった。
「ね、僕のいない間、寂しかった?」
 首に腕を回すと、抵抗するようにふいとそっぽを向かれる。けれど耳の赤さまでは隠しようがなく、そんな彼がとてもいとおしいと思う。

「…………わかりきったことを、聞くな」
「いっぱい待たせてごめんね。これからはずっと一緒だから」

 そう言って頬にキスをすると、長谷部くんが「おまえは小さくても気障なやつだな」と溜息をついた。

「気障な僕は嫌い?」
「……だから、わかりきったことを聞くなと」
「僕子供だからちゃんと言ってくれないとわかんないなあ」

 おもいきり舌打ちされた。

「…………き、だ」
「んー?」
「っ……すきだ! これでいいだろう!」

 そう言ってこちらを向いた長谷部くんの唇を僕はそっと塞いだ。
「んっ……」
 下唇を食むようにしてちろちろと舐めていると、焦れたように長谷部くんの口から舌が覗く。それに応えるように舌を差し込むと、長谷部くんの肩がぴくりと震えた。
 僕はまだ小さい舌で長谷部くんの口の中を丹念に愛していく。歯の根元、顎の上、舌の付け根。口をすぼめて舌をじゅうと吸うのも忘れない。
「っふ、……ぅんっ」
「ちゅ、ん……はせべくん」
 互いの顎から唾液が落ちるのも構わずに、僕らは夢中になって口を吸い合う。僕が長谷部くんの肩に力を入れ、そっと後ろに倒そうとすると、とろんとした瞳をしていた長谷部くんがはっと我に返って僕の体を押し返してきた。

「駄目だ。光忠、これ以上はまずい」
「……バレなきゃ大丈夫だと思うけどなあ」
「バレたら終わりだ。俺は末永く幸せに暮らしたいんだ。この年から人生棒に振ってたまるか」

 その人生設計のなかにはちゃんと僕とのことが含まれていることを知っていたので、僕は渋々と引き下がった。

 そう、せっかく再会出来た運命の恋人と、僕はまだキスまでしか済ませていなかった。

 小学生男児に悪戯する男子高校生、だなんて噂になれば長谷部くんが狙っている推薦がダメになるどころか、退学の可能性もある。互いの親から僕たちは引き離され、二度と会えなくなってしまうかもしれない。それは嫌だというのが長谷部くんの主張だ。悔しいが僕もそこについては同意見だった。おかげで僕は僕が高校を卒業するまで最後の一線は越えないということを長谷部くんと約束させられてしまっていた。

 つらい。はっきり言って本当につらい。僕はまだ精通を迎えたばかりだったけどそれなりに性欲はあるのだ。しかも、手の届くところには前世で散々抱いてきた長谷部くんがいるのに、キスまでしか許してもらえない。いやまあ、この小学生の姿でナニをどうするのかって、そういう問題はあるんだけどそれはそれ。愛さえあればきっとどうにかなると思いたい。一度した約束を破るのはかっこわるいのでしないけど。

「……あのな、我慢してるのがおまえだけだと思うなよ」

 長谷部くんが半目になって僕に訴えてくる。僕の顔色から何を考えているのか察したらしい。
 口調こそ高圧的だけど、これは翻訳するなら「本当なら俺だって今すぐ光忠に抱かれたいんだ」ってところだろうか。僕の運命の恋人は意地っ張りだけどわかりやすい。
 ふふふ、と抑えきれずに笑みを浮かべていると、くそ、と長谷部くんがベッドの上に転がり、僕に背を向けてふて寝する。

「長谷部くん? はーせーべーくーん」
「…………」

 こうなると長谷部くんは長い。タオルケットに頭までくるまって芋虫のようになった長谷部くんもかわいいけれど、僕としては相手をしてもらえなくて寂しい。
「長谷部くん、笑ったりしてごめんって」
 そう何度も謝ったけど、それでも返事は返ってこない。
 僕が諦めて今日はもう帰ろうかと思い始めた頃、ベッドの上の芋虫はようやく言葉を発した。

「…………待つのは、得意だ」
「うん」
「得意なんだが、」
「うん」

 しばしの沈黙。

「………………………はやく、大きくなれ」
「……うん、待ってて」

 僕は健気なことを言う意地っ張りな恋人のまるい後頭部をタオルケット越しに撫でた。
「長谷部くん、好きだよ」

 だから僕は毎朝の牛乳を欠かしたことがない。


 長谷部くんの両親もうちの両親も朝早く帰りが遅いので、僕達がこうして交流を持つようになってから、夕飯は自然とどちらかの家で一緒に済ませることが多くなった。もちろん親公認である。忙しくてなかなか構ってやれない一人息子がお隣さんと「兄弟のように」仲睦まじく交流しているのを、どちらの両親も微笑ましく思っているようだった。

 長谷部くん特製のオムライスを食べ終え、再び長谷部くんの部屋でいちゃいちゃと雑談していると、煤色の頭がぐらぐらと揺れて船を漕ぎだした。最近部活の大会もあったようだから疲れているのだろう。
 僕が大きかったらベッドに運んであげるところなんだけど、この体ではそうもいかない。僕は長谷部くんに上掛けをかけ、大きめのクッションの上にそっと横たえてやる。
 ふうと息をつきながら立ち上がった拍子に、僕は床においてあった長谷部くんの鞄に脚をひっかけてしまい、中に入っていた教科書や筆箱をその場にぶちまけてしまった。
「あちゃー……」
 長谷部くんごめん、と心の中で謝りながら床に散らばったプリントや教科書を拾い集めていると、その中にかわいらしいピンクの封筒が入っているのに気が付き、何気なくそれを手にとった。
 表にはこれまた可愛らしい丸文字で『長谷部国重くんへ』と書かれ、ご丁寧にハートのシールまで貼ってある。古式ゆかしい、というかもはや絶滅したのだと思っていた様式のその手紙に僕は盛大に嫌な予感がして、長谷部くんをちらりと見る。穏やかな顔でくうくうと寝息を立てているのを確認し、僕はもう一度長谷部くんに心の中で謝り、その封筒を開いた。

 中身は、やはりラブレターだった。

 高校入試の時にたまたま隣の席になって一目惚れしたこと、入学して同じクラスになって運命だと思ったこと、まだ出会って数ヶ月だけどいつも真面目で一生懸命なところが好きで、叶うなら自分と付き合って欲しいというようなことが、女の子らしいやわらかな文章で書かれていた。
「……ん……」
 長谷部くんが寝返りを打ったので、僕は慌てて手紙を封筒に戻し、他の教科書類と一緒に元のように鞄にしまい込む。
「長谷部くん、ごめん。僕、そろそろ帰るね」
 眠たげな瞳を擦りながら長谷部くんが起き上がる。そのままごく自然な様子で瞳を閉じ、ん、と唇を差し出してくる。まだ寝ぼけているらしい。
 僕はきゅうっと締め付けられるような胸の痛みを無視して、その唇に僕のものを重ねあわせる。

「……おやすみ、長谷部くん。また明日」

 前世でよくやっていたようにそのまま瞼にもひとつずつキスを落としてやると、くすぐったそうに首をすくめた長谷部くんがへにゃりと笑顔を浮かべる。僕だけが知っている、本当に幸せそうな力の抜けた笑み。これを見るたびに、僕は長谷部くんのそばにいなきゃって、強くそう思う。

「おやすみ、光忠」

◆ ◆ ◆ ◆

 僕は長谷部くんが好きだ。彼を心の底から愛している。彼の側にいたい。
 僕と長谷部くんは前世からの恋人同士で、奇跡のような確率を乗り越えてようやく巡り会えた運命の相手だと思っている。僕と彼が結ばれることこそ正しいことで、それが当たり前なんだってずっと思っていた。

 でも、あのラブレターを読んで、僕のその確信はすこしだけ揺らいだ。僕と結ばれることは、はたして長谷部くんにとって本当に幸せなことなんだろうか。
 こうして刀から人の子に生まれ変わったこの世界で、たとえば子をなすことなんかは僕と長谷部くんの間では絶対にできない。今はまだ両親も兄弟の距離感だと思って微笑ましく見守ってくれているけど、あと十年もすればそうもいかなくなるだろう。僕や長谷部くんをここまで慈しみ育ててくれた互いの両親を悲しませ困惑させることは目に見えている。僕らの恋は確実に周囲を傷つける。

 たとえば、そう、長谷部くんにはあのラブレターの子のような、ごく普通の女の子のほうが――――

 そんなことを考えながら、僕はベッドの中で眠りについた。

◆ ◆ ◆ ◆

 土日は長谷部くんとずっと一緒にいられる貴重な日だ。特に今日は長谷部くんと映画を見に行く約束をしていた。いわゆるデートである。楽しみすぎて金曜日の夜はなかなか寝付けなかったほどだ。

「光忠、ハンカチとティッシュは持った?」
「全部持ってるよ。心配しないで」

 両親とは最近習い事の件でちょっと喧嘩が多くて、長谷部くんとの二人きりのおでかけもすこしばかり渋い顔をされたけど、この間のテストでクラスで一番だったのが功を奏し、なんとか許可をもぎ取ることができた。
「国重くんに迷惑かけないようにね」
 母からそんな念を押され、僕は家を出る。僕としては恋人同士のデートのつもりなのだけど、他人から見れば「小学生とその引率者のおでかけ」だ。わかってはいるけど納得いかない。

 渋る長谷部くんをどうにか説き伏せて手を繋いで街中を歩く。ぴかぴかのショーウィンドウに映る姿はどこからどう見ても兄弟のようでちょっと落ち込んでしまうけれど、それでも長谷部くんとこうして一緒にいられるのは嬉しいのだから男心は複雑だ。
「長谷部くん、映画終わったらお昼どうする?」
「施設内のフードコートでいいだろ」
「ええ……かっこよくない」

 そんなことを話しながら歩いていると、後ろから声をかけられた。
「長谷部君?」
 振り返ると、そこには私服を着た高校生くらいの女の子がいた。その隣にはもうひとり僕と同じくらいの年の女の子がいて、視線が合うとぺこりと頭を下げられた。綺麗に切りそろえられた髪がさらりと揺れる。
「やっぱり長谷部君だ。買い物?」
 あの手紙の子だ、となんとなく思ったのは、その子の視線に長谷部くんへの好意が滲み出ていたからだった。ノースリーブのニットから出た白い腕が目に眩しい。細身だけれど柔らかな丸みを帯びた体は、すごく「女の子」という感じがした。
 長谷部くんは親しげにかけられた言葉に特に表情も変えずに口を開く。
「いや、映画を見に来た」
「うちも妹とおでかけなんだ。何の映画? よかったらみんなで一緒に見ない?」

「駄目!」

 はっと気づいた時には六つの瞳が驚いたように僕を見つめていて、僕は恥ずかしさで消えたくなった。
「ふふっお兄ちゃん取ったりしないよ、大丈夫」
 ラブレターの子から吹き出すように笑われ、僕はいっそういたたまれなくなる。かあっと顔が熱くなって唇を噛み締めてじっと床を見つめていると、手のひらがきゅっとやわく握りしめられた。

「……おい、光忠」
「ごめんね。僕、ちょっとお手洗い行ってくる!」

 気づけば僕は長谷部くんの手をふりほどき、人混みの中へと駈け出していた。


 最低だ。最低だ最低だ最低だ。
 あんなの、本当に子供みたいじゃないか。

 僕は人気のない非常階段の踊り場までくると、その場にしゃがみこんだ。
 たとえ今は子供の姿でただの長船光忠でも、僕の魂は誇りある長船派の祖・光忠が一振り、伊達政宗公に名を授かり水戸徳川家と共に在った燭台切光忠だ。あんなかっこわるい真似、よりにもよって長谷部くんの目の前でしてしまうなんて。
「なんたる、無様な……」
 声変わり前の高い声が誰もいない階段にがらんどうに響いた。

 僕がもうすこし大きかったら。せめて長谷部くんと肩を並べられるくらいだったら、こんなことはなかっただろう。余裕のある笑みで受け流し、「今日は二人で見る約束なんだ、悪いね」なんて言って、長谷部くんの肩を抱いてあの場を去れていたはずなのに。
 握りしめた手のひらを見下ろす。小さくてまるい子供の手だ。剣を握ったこともない、苦労知らずの傷のない真っ白な手指。

 僕の魂は燭台切光忠だ。でも、肉体の方はどうしようもなくただの小学生の長船光忠で、そこに宿る感情だってきっと前世に比べれば幼い。幼いから、こんな風に胸の中が嫉妬と不安で荒れ狂ってどうしようもないのだ。小さな体にちぐはぐで歪つな心。僕は僕が嫌いだ。

 やっぱりこんな僕は長谷部くんにはふさわしくないんじゃないだろうか。先日浮かんだ疑念が再び僕の中で頭をもたげた。
 僕がどうしたって燭台切光忠ではないように、長谷部くんだってへし切長谷部じゃない。なにも、前世通りに結ばれる必要なんて本当はないはずなのだ。長谷部くんには普通の子と普通に恋愛をして、普通に幸せになる権利がある。僕みたいな小学生男児との恋愛なんて、茨が覆い茂っているとわかっている道を歩かせるのは、本当に彼を愛していると言えるのだろうか。

「光忠、こんなところにいたのか」

 聞き慣れた声がしてばっと振り返ると、そこには長谷部くんが立っていた。
「……はせべくん、さっきの子は……?」
「別れたよ。おまえを探すほうが大事だ」

 ああ、長谷部くんはすぐそうやって無自覚に僕を喜ばせる。僕は潤んだ目もとを慌てて拭った。
 長谷部くんがしゃがみこんで僕の顔を覗き込む。

「光忠。おまえ、ラブレター見ただろ」
「…………なんで、」
「教科書の順が変わってた。……昔から変なところが抜けてるんだ、おまえは」

 馬鹿だな、と言って長谷部くんが笑う。
「俺にはおまえだけだ」
 僕がねだった時はけして口にしてくれないくせに、肝心な時は長谷部くんは言葉を惜しまない。ずっと昔からそうで、僕は彼のそういうところが好きだった。
 ぼろり、と大粒の涙が僕の頬を流れる。一度堰を切ってしまってはもう止める術がない。僕ははらはらと涙を流しながら長谷部くんの服の裾を掴んだ。

「…………僕、こんな姿だからっ」
「うん」
「君より小さくて、弱くて……それが情けなくて」

 ひく、と勝手に喉が震える。

「君が好きなんだ。どうしようもないくらい好きなんだ。でも、僕はこんなんだから、君はさっきみたいな女の子の方が、幸せになれるんじゃないかって」

 長谷部くんが僕の髪を優しく梳いた。その感触が嬉しくて切なくて、眼の奥から涙が溢れて止まらない。
 みつただ。長谷部くんが僕の名前を呼ぶ。
「長船、光忠」
 そうして、僕の瞼にひどくやわらかいものが触れる。長谷部くんの唇だった。目尻から流れ落ちる雫を吸うように、両の瞼に唇が落とされる。

「俺もおまえが好きだ」

 目の前に長谷部くんの笑顔がいっぱいに広がる。涙のせいで長谷部くんはきらきらして、光を纏っている。

「毎朝頑張って嫌いな牛乳を飲んでることも、最近剣道に通おうとして親と交渉してることも……その体でいつだって一生懸命に努力してることを、俺は知ってる。そういう、努力をし続けるおまえを、俺はかっこいいと思う」

 長谷部くんが僕の秘密の努力を知っていたことに、思わず頬が熱くなる。知られていたなんて、恥ずかしい。
 目を泳がせようとする前に、長谷部くんが僕の後頭部を引き寄せて、こつんと額を当てる。

「前世のおまえは俺にほとんど弱みを見せなかっただろう。だから、今生ではおまえのそういう可愛らしいところが沢山見られて、俺は嬉しいんだ」

 幸せだ、と長谷部くんが笑う。

「俺はおまえとこうして会って話せて触れ合えて、すごく幸せだ。おまえは違うのか?」

 ああ、もう。
 長谷部くんには敵わない。

「僕も、幸せだよっ……」
 そう言って抱きつくと、長谷部くんが満足気によしよしと僕の頭を撫でる。今しがた告白されたことを信じるなら、きっとこの様子だって可愛らしいと思われているんだろう。悔しい。
 でもこうして長谷部くんに熱い告白をされてしまえば、さっきまでのつまらない煩悶なんてどこかに吹っ飛んでしまうんだから、僕って結構単純なのかもしれない。
「…………ほら、映画見に行くぞ」
 長谷部くんが僕の手を引いて立ち上がる。

「待って、長谷部くん」
「なんだ」

 僕は長谷部くんのいた段を抜かし、数段ほど上に上がる。そうして僕が振り返れば、ちょうど僕と同じくらいの高さのところに長谷部くんの瞳があった。

 階段二段分。僕と長谷部くんの間には、まだそれくらいの差がある。けれど、きっともう僕はその距離を恐れない。

 僕は長谷部くんの肩に手を伸ばして置き、前に体を倒す。
 ちゅ、と唇が触れ合う。角度を変えて唇を食めば、白皙の肌がほんのりと上気した。

「……愛してるよ」

 唇を離して吐息だけでそう囁くと、こいつ、と髪をぐしゃぐしゃにかき乱された。

「さっきまで泣いてたくせに」
「さっきはさっきだよ。……忘れてくれると嬉しいんだけど」
「嫌だ」

 長谷部くんは顔を赤くして唇を尖らせたけれど、それでも僕に手を伸ばしてくる。

「……ほら、さっさと行くぞ。もう予告が始まってる」
「うん」

 そうして僕たちは手を繋いで階段を上っていく。


 天文学的な確率をくぐりぬけてようやく巡りあった僕たちには、年齢という大きな壁がある。
 だけど僕たちはこうして会って話せて触れ合えている。思いを交わすことができる。この先に何が待ち構えていても、この繋いだ先の手のひらがあれば、きっと大丈夫だと信じられる。

 だから僕たちは今、とても幸福だ。

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