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『本日休診日』と札のかかった入口を抜け、アースカラーで統一された待合室を通り過ぎ、まっすぐに奥のドアへと向かう。
「長船先生、おはようございます」
そう言ってスライドタイプのドアをがらりと開けた。待合室より幾分か薄暗い照明に一瞬だけ目がくらむ。ぱちぱちと何度か瞬きをして焦点を合わせていると、窓側に置かれたソファの方から「おはよう、長谷部くん」と落ち着いた低い声が返ってくる。
声の方向に視線を向ければ、白衣を着たとんでもなく顔のいい男が本を読んでいるところだった。
艶のある黒髪に、象牙色の染みひとつない肌、蜂蜜色の瞳、すっと通った高い鼻梁、薄い唇。完璧なパーツが完璧な位置に配置された顔から下、服の上からでもわかる筋肉質な体と、冗談かと思うくらい長い脚が目を引く男だ。要するにスタイルのいいイケメンである。
軽く脚を組んで手元の本に物憂げに視線を落とす姿だけ見れば、まるでどこぞのカフェでくつろぐ常連客のようだが、ここは一応診療所であり、この男はその院長であり、ひいては俺、長谷部国重の雇い主でもある。
長船メンタルクリニック、というのがこの建物の名前で、長船光忠というのがこの男の名前だ。
「また催眠療法の勉強ですか?」
「うん、そう。やっぱりこういうのは研鑽を重ねないとだからね」
勉強熱心なのは立派なことだが、この長船という医師は催眠術師としてはへっぽこで、だからこそ俺を催眠療法の実験台としてアルバイトに雇っているのである。
メンタルクリニックの医師としてはそこそこ優秀なようだが(ネットの口コミはバイト応募前に確認済である)、それと催眠術の腕は比例しないものらしい。
「早く五円玉揺らして『あなたは健康になるー!』とかの催眠かけられるといいですね」
そう皮肉げに言ってみせると、先生はやや大袈裟に肩を竦め、深々と溜め息をついた。
「長谷部くん、何度も言うけどね、催眠誘導っていうのはそもそもそう簡単にできるものじゃないんだ」
また始まった。
先生はそこから凝視法と閉眼法がどうの、ラポールがどうのと長々と説明し始めたので、俺はいつものように適当に聞き流しながら、勝手知ったる給湯スペースで二人分の紅茶を淹れる。我ながら惚れ惚れする手際だ。しっかりと蒸らして香りを引き立てた紅茶を、いかにもお高そうなティーカップへと注いでいく。紅茶に詳しいわけではないので具体的に何がブレンドされたお茶なのだか未だにわからないが、いい香りだし美味しいのでこの銘柄は気に入っている。
「――だから、催眠誘導には条件付けというのも大事だね。同じような状況で軽い暗示を繰り返しかける。そうして被術者を何度もトランス状態へ導くことで、同じ状況下での催眠をかかりやすくしたり、より深い催眠をかけることができるんだ」
まだまだ続きそうな話の流れを掻い潜りながらティーカップを応接テーブルに置くと、俺はいつものように先生の向かいへ腰を下ろした。
「というわけで、普通初対面の相手にいきなり『あなたは猫になります』とか『嫌いな食べものが好物になります』なんて催眠はかけられないんだ。初めは眠気を誘ったり金縛りをかけたりとか、まあそのくらいだね」
はあ、と気のない相槌を打ってカップから紅茶を飲む。先生の長い講釈のせいで、せっかく淹れた紅茶はすっかりぬるくなっていた。ナントカいう有名な専門店の高い紅茶のはずなのに、勿体ない。
「説明してたら喉が渇いちゃったな。長谷部くん、その紅茶僕に飲ませてくれる?」
「はいはい」
俺は立ち上がって先生の隣に腰を下ろす。そうしてテーブルからカップを手に取って紅茶を口に含むと、先生の頬に手を添えてそっと口づけた。うっすらと開かれた唇に舌を差し込んで、口内の紅茶をゆっくりと注意深く先生の唇へと注ぎ込む。ちゅ、ちゅく、と微かな水音が鳴った。
ようやく一口分を注ぎ終えてから先生の顔を見ると、蜂蜜色の瞳がにっこりと弧を描く。
「……もう一口お願いしてもいいかな?」
頷いて同じ動作を繰り返す。先生の喉が上下するのをきちんと確認してから口を離そうとすると、急に体を引き寄せられて舌を吸われた。ちゅっ、じゅ、と音がするほど強く吸われ、ねっとりと舌を絡められて快感で背筋がびくりと震える。震えた背中を労るように撫で下ろされ、背中から腰、腰から尻へと撫で下ろされていった。
「っ……ン、ふ、ぅ」
酸欠と快感で頭がぼんやりとしてきたあたりで尻を揉んでいた手がようやく離れ、同時に唇も解放された。息を乱しつつふらつく俺の体を支え、先生はよしよしとこちらの頭を撫でてくる。
「ありがとう。やっぱり長谷部くんから飲ませてもらうお茶はおいしいね」
「……だったら冷めないうちに飲んでくださいよ」
紅茶を淹れるほうの気持ちにもなってほしい、と文句を言うと、苦笑と共に謝罪が返ってくる。毎回同じやり取りをしているのだから、そろそろ改善してほしいところだ。
「ところで長谷部くん、この業務について何か不満や疑問はあるかい?」
「別に。口移しで上司に紅茶を飲ませるなんて『アルバイトとして当たり前のこと』ですし、その時に唇や舌が触れるのも『当然のこと』で、感じてしまうのも『生理現象なので問題ありません』」
「そっか」
「ああ、強いて言うなら口移し中に腰や胸に触るのはやめてほしいです。飲ませづらいので」
「なるほどなるほど」
先生は顎に手を当ててうんうんと頷き、ぽんぽんと俺の頭を撫でる。
「それじゃあ、今日も実験といこうか。長谷部くん、僕の目を見て、ゆっくり息をしてくれるかい?」
先生のねっとりとして甘そうな蜂蜜色の瞳を見つめていると、底なし沼に吸い込まれていくような心地がして、いつもすこし怖い。それでも己を奮い立たせてじっと挑むように睨み返して深呼吸をする。先生がゆっくりと瞬きをする。瞼の裏に隠れてしまう瞳を覗き込むようにさらに焦点を絞っていくと、視界から先生以外のものが消えていく。遠くの方で先生が何かを言ったような気がしたが、おそらく気のせいだろう。
「はい、おしまい」
ぱちん、と手を叩く音ではっと我に返る。
「今日は下半身の感覚がなくなる催眠をかけてみたんだけど、どうかな?」
そう言われて俺は恐る恐る自分の脚に触れてみる。服越しではあるけれど、触れた感触も触れられた感触も、どちらもきちんとわかる。試しに立ち上がってみたけれど、こちらも問題なく両の脚で立てる。
「全然効いてないですよ。先生、本当に催眠術上達してるんですか?」
「おかしいなぁ。もしかしたら遅効性なのかもしれないね。残業代は出すから、家で確認してきてもらってもいいかい?」
「と、言いますと?」
「今日帰宅したら下半身の感度チェックをお願いしたいんだ。動画で君がオナニーして射精する姿を撮って、僕に送ってほしい。できるかな?」
悪戯っぽく笑いながら先生がこちらの顔を覗き込んでくる。まるで幼い子供に言い聞かせるようにそんなふざけたことをいうものだから、俺は思わず眉間に皺を寄せた。
「何馬鹿なことを言ってるんですか?」
ふんと鼻を鳴らし、先生の胸にびしりと人差し指を突きつける。
「俺は『優秀なアルバイト』なので、そのくらい朝飯前ですよ」
「良かった。じゃあ、今日はもう帰っていいよ。バイト代はいつもどおり口座に振り込んでおくね」
「ありがとうございます。では、お先に失礼します」
「うん。報告待ってるね。あ、オナニーの時は僕のことを考えて、イく時は僕の名前を呼ぶんだよ?」
「そんなの当たり前じゃないですか」
そんなやり取りをしてから、俺は病院を後にした。
長船先生はちょっとスキンシップが多くてへっぽこ催眠術師だけど、金払いはすこぶるいい。どうせ『俺は絶対に催眠にかからない』のだし、これからもこのバイトを続けていけたらと思う。
ああ、まったく。こんなに簡単に金を稼げていいんだろうか。
我ながらいいバイト先を見つけたものだ。
◆◆◆◆
『長谷部国重、二十一歳です。これから下半身の感度チェックをします』
そんな言葉とともに、液晶画面にすこしピントのずれた長谷部くんの姿が映る。上はTシャツ、下は何も来ていない状態でベッドの上に無造作に座っている。どこかうつろな藤色の瞳は、これからすることに興奮しているのかやや潤み、全体的にいつもよりとろんとした表情をしている。
『「下半身の感度チェックにはオナニーをするのが一番」なので、オナニーを、します』
そう言いながら長谷部くんは性器を取り出してやわやわと握り始めた。
『ん、ぁ……はぁ』
半開きになった口から桃色の舌が覗く。はぁはぁと息をしながら、長谷部くんの手つきが段々と大胆なものになっていく。陰茎が膨らみ始めたあたりで、全体を握る動きから揉み込む動きへ、陰茎が上を向き始めると、根元から上下へ擦る動きへと。
『ァ、はっ、おさふね、せんせ……っ』
しゅっしゅっと性器を扱きながら、長谷部くんはきゅっと目を瞑り、妄想と快感に浸っているようだった。
『や……そこ、だめです、きもちぃ、やっ、ぁあ……』
右手で先端と雁首を弄り、左手で竿を扱いて、時折陰嚢をくすぐるように揉む。なるほど、あれが長谷部くんが好きな触り方らしい。いや、だめ、と首を左右に振りながらも、両手の動きはどんどん激しくなっていく。
『せんせ、せんせぇ、やらっ、たすけて、きもちぃ、きもちぃです、やぁ、せんせぇっ』
助けを求めるように僕の名前を呼び、かくかくと腰を揺らしながら自慰をする長谷部くん。助けを求められてはいるが、やらせているのは僕なので若干胸が痛む。けれど、この魅惑的な光景の前には良識も倫理観も吹き飛んでしまうのだから仕方ない。
『あ、出るっ、イく、イきます、みつただせんせぇ……!』
びくん、と大きく体を震わせた長谷部くん、その中心からびゅくりと白い体液が吐き出された。
『ん、ぁ、ああ、あっ』
二度、三度と体を震わせ、すべてを吐き出してから長谷部くんは深呼吸をした。何度か繰り返して息を整えると、のろのろと横に置いてあったティッシュで股間と手のひらを乱雑に拭う。
『……以上、無事にオナニーして射精できたので、下半身の感度に異常はないようです。報告終わります』
先程まで乱れていたのが嘘のように、そんな事務的な口調と共に動画が終了する。
僕は再生したばかりの動画データをHDDの保護フォルダに入れてパスワードをかけ暗号化し、厳重にロックした。あらゆる意味でこの映像を他人に見られるわけにはいかなかった。
長谷部くんの次のシフトを確認しながら、僕は勤務表に書かれた『長谷部国重』の文字をそっと指でなぞる。
「次はどんな催眠を試そうかなぁ」
ああ、まったく、かわいくって楽しくって仕方ない。
長谷部くんは実に優秀なアルバイトである。
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