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「それじゃあ、行ってくるからな。後は頼んだぞ」
「ええ、主命とあらば」
にこやかに微笑みながら長谷部くんが胸に手を当てて礼をする。
主から特別に留守番を頼まれて張り切ってるんだな、なんてみんなは訳知り顔で頷いてるけど、僕だけは知っている。長谷部くんがここ数日傍目からでもわかるくらい機嫌がいいのは、この後に壮絶に変態的なプレイが待っているという、その一点に尽きるのである。
「光坊、あんまり無茶するんじゃないぞ」
「みっちゃんも、この際だから長谷部クンの事、ちゃあんと休ませてやれよ」
「……達者でな」
次々に馴染みの顔から肩やら腕やらをばしばし叩かれ、僕はひとりハハハと乾いた笑い声を上げた。
この本丸における長谷部くんのみんなからの印象と言えば、いわゆる「鬼の近侍」である。現世の本業の方で不在がちな主に代わり、普段からこの本丸の一切を取り仕切る辣腕のハイパー近侍様が僕の恋人、へし切長谷部なのだ。昼間はそんなびしっと隙のない彼が時折見せるやわらかな部分にも僕は惚れているのだが、まあそれは置いておいて。
そんな彼だから、この本丸のみんなからはかなりの信頼を置かれている。まさか長谷部くんが僕と二人きりで昼間から思いきり堂々とアブノーマルなプレイに興じたいがために留守番役を買って出たなんてこと、誰もが想像だにしていないのだろう。
「まあ、燭台切もな、長谷部はとにかく抱え込むタイプだから。この機会に適当に羽を伸ばさせてやってくれよ。頼むな」
主からもぽんと肩を叩かれて笑顔を向けられる。僕達の仲は主公認ではあるが、一体僕達は彼からどう思われているのだろう。
でもまあ、たしかにこのところ長谷部くんはなんだかいつもより忙しそうではあったし、羽を伸ばさせてあげるという点において異議はない。
「オーケー、任せてくれ」
ゲートまでみんなを見送り、長谷部くんと二人並んで母屋へと戻る。
いつもは非番の誰かしらがいて賑やかな声が響く大広間も、囲碁や将棋を指す人影の絶えない日当たりのいい縁側も、今はしんと静まりかえっている。
「………………さて、」
長谷部くんがいきなりそう口を開いたので思わずびくりとした。
「とりあえず茶でも飲むか」
「え? あ、そう、だね」
「この間仕入れてきたいい菓子があるんだ。見つかるとやかましいのがいるから普段はなかなか食べられなくてな」
そう言って長谷部くんは通りかかった近侍部屋にするりと入り、戸棚の中から細長い木箱を出して戻ってきた。桐の箱に金字で印刷されていた文字は、たしかに名の通った老舗の高級和菓子店の名前だった。
「この間鶯丸に貰った茶葉もあったな。ちょうどいい。このまま近侍部屋で飲むか」
「…………いいの?」
普段近侍部屋は情報漏えい防止のため、原則主と長谷部くん、それから博多くんを始めとした近侍補佐達しか入ることを許されていない。僕だって報告の為に数える程しか入ったことがなかった。
「今日くらい構わんだろ。おまえはもし仮に機密書類が机の上に広げてあっても目をそらす男だ」
そこまで信頼されているというのもなんだか面映い。
長谷部くんは近侍部屋の入り口に仕掛けてあるセキュリティロックを解除すると、僕を手招きして呼び込んだ。
「……お邪魔します」
小声でそう断りを入れてから敷居をまたぐ。長谷部くんは休憩用の卓袱台を広げてそこに桐箱を置くと、壁際に置いてある電気ケトルに電源を入れた。
「適当に座れ」
そう言って慣れた手つきで手際よくお茶を淹れていく長谷部くんの言葉に従い、僕は心持ちいつもより姿勢を正して座った。
しばらくして目の前にことりと緑茶の入った湯呑みが置かれる。そうして次に長谷部くんが桐箱の中から取り出したのは、目にも鮮やかな黄金色の――、
「……カステラ?」
「和三盆と高級地鶏の産みたて卵をたっぷり使った自慢の一品だそうだ」
長谷部くんがこちらにフォークを差し出しながら告げた。
「生憎ナイフがなくてな。このまま食べよう」
たしかに、これは誰かの目に留まったらうるさそうだ。
「……いただきます」
僕は若干行儀が悪いと知りつつも、ふわりとした焦げ茶色の表面に贅沢な厚みでもってフォークを差し込み、そのまま敷き紙のザラメまでこそげ取るようにして一口分を取った。長谷部くんも同じように反対側から一口分を取り、僕達はほぼ同時にカステラを口の中へと運んだ。
「「…………」」
口内に広がる至福の味に二人して思わず唸る。こんな日の高いうちから普段入ってはいけない部屋で二人してつつきあうカステラは、罪の味がした。
一口、あともう一口とフォークを運んでいる間にあっという間にカステラはなくなり、とうとうザラメ一粒残らなくなった頃、ようやく長谷部くんが口を開く。
「……内緒だぞ」
「わかってるよ」
近侍部屋を片付けて自室に戻るのかと思えば、今度は長谷部くんは自室とは違う方向に腕を引いてきた。
「長谷部くん、そっちは大浴場……」
「風呂に入ろう」
こんな真っ昼間に、と言いかけてカステラの事を思い出す。今更だ。
ふうと息を吐いて「やらしい事はなしだよ」と釘を刺しておくと、わかってると返された。
がらんとした脱衣場で服を脱いで扉を開ければ、これまたがらんとした大浴場が広がっている。長谷部くんは脱衣場に備え付けの棚から何やら箱を取り出してくると、その中身を躊躇いもなく湯船に全てぶち込んだ。
あっという間に湯船の色が変わり、湯気に混ざって嗅いだことのない香りが立ち上る。
「…………入浴剤?」
しかも、時々うちで使用している業務用の物の香りではない。ローズやカモミール、数種類の複雑なハーブの香りが混じったそれは、紛れもなく高級品の香りで。
「一回やってみたかったんだ」
そう言ってにやりと笑うと、長谷部くんは僕があっと声をあげる間もなくどぼんとお湯の中に飛び込んだ。
「っはは! おまえも入れ」
「……仕方ないなあ」
それでも、たしかにこれは僕もやってみたかった。苦笑しつつも、僕はばちゃばちゃと楽しげに水音を立ててお湯をかき混ぜる長谷部くんの隣に身を沈めた。
そのまま互いにお湯をかけあったり、だだっ広い湯船の中を泳いだりと、まるで短刀くん達のようにはしゃぎあい、背中を流しあい、風呂から上がる。
バスタオルでわしゃわしゃと髪を拭く長谷部くんの手を取って半ば無理矢理鏡の前に連れていきドライヤーの風を当ててやると、長谷部くんが鏡越しに僕に言う。
「………内緒だからな」
「わかってるよ」
二人とも身支度を整え終わり、ようやく自室まで戻ると、長谷部くんは「支度してくる」と、最近建ててもらった部屋の奥のシャワーブースへと消えた。その意味がわからない程僕も野暮ではない。
本当に例のプレイをやるつもりなのだろうか。いや、今日のこの準備の良さを見る限り、もう彼の中ではきっと確定事項なのだろう。どうやら僕も腹を括らねばならない時が来たようだ。
僕が布団とシーツを敷き終わるくらいの頃に長谷部くんが戻ってきて、あの鍵付きの戸棚から何やら袋を取ってきた。そのまま中身がシーツの上へと広げられ、僕は想像通りの光景に思わず右手で顔を覆った。
長谷部くんの髪色に似た色の犬耳つきカチューシャと、同色の尻尾付きのアナルバイブ。それから真っ赤な首輪とリード。
長谷部くんは僕を熱く潤む目で見つめてこう言った。
「さあ、『本丸お散歩わんわんプレイ』を始めよう」
「ねえせめてそのプレイ名どうにかならないかな?」
実は僕達は一般的なアナルバイブは何度か使った事がある。犬耳つきカチューシャだってイメージプレイのようなものだと思えば、この間の延長線上の一種で、まあ許容できなくもない。でも、まだこんな太陽が中天を過ぎたばかりの時間、自室の外でそれらを一緒にするというのは、何というかこう、いけない事をしているような――事実そうなのだけれど――そんな気分にさせられる。
だけど、今回のは僕が自分から申し出てしまった事でもあるし、口に出してしまった以上責任は取らねば。
ふう、と息を吐いて、僕は犬耳のついたカチューシャを長谷部くんにつけてやった。
「……………………」
どうしよう。これだけで既に可愛い。えっ待って可愛い。意味がわからない。天使かな? 可愛すぎるだろう!
「……光忠?」
どことなく不安げにこちらを見上げて小首を傾げる様子なんか最高にキュートだ。ありがとう世界。ありがとう刀匠・長谷部国重さん。貴方の息子さんは立派な国宝です。
「光忠、おい、やっぱりやめるか?」
ああーすごい可愛い。ヤバイと待ってと可愛いしか言えない。今僕のIQはどんどん低下している。それくらい可愛い。国宝すごい。
「光忠、なあ、駄目そうなら俺諦めるから、」
「…………くん、」
「ん?」
「長谷部くん、」
こちらに伸ばされた手をがしりと掴んで、僕の口から飛び出してきたのは次のような言葉だった。
「長谷部くん、犬が人間の言葉喋っちゃ駄目だろう?」
「っ……ん、んん、ぁ、」
誰もいない静まりかえった廊下に、ぺたり、ずず、ぺたり、ずず、と何かを引きずるような音と、低いモーター音、それからくぐもった小さな喘ぎ声が響き渡る。
「もっと速く歩けそう?」
リードを軽く引くと、ふるふると首を横に振られる。仕方のない子だね、と持っていたリモコンのスイッチを入れると、モーター音が一層激しさを増し、全裸で四つん這いになっていた長谷部くんの体がびくびくと震えた。
「あ、ぁああああっっ!!」
お尻に入ったアナルバイブの振動に耐えきれなくなったらしく、長谷部くんの手足から力が抜け、べしゃりとその場に崩れ落ちる。
「またイっちゃったの? これで何回目だっけ? やっぱり蓋してあげてて正解だったね」
そう言って長谷部くんの脚の間に手を伸ばし、リングのついた尿道ブジーをくいくいと引っ張ると、ひんっとまるで本物の犬のような鳴き声が上がる。
「……かぁわいい。ね、わんって言ってごらん」
「…………わんっ」
「よくできました」
にっこり笑ってもう一段回振動を上げてやる。ブイイイインと激しい音が造り物の尻尾の根元から鳴り響き、長谷部くんの喉から細い悲鳴が発せられる。
「っっっ~~~~ッ、あ、ぅ、ふううっっ」
全身を大きく震わせて長谷部くんの体から完全に力が抜けた。ぺちぺちと頬を軽く叩くと、何度か瞼を痙攣させて、虚ろな藤色の瞳が僕を見つめる。
「ん、」
「ほら、もうちょっとで本丸一周だよ? 頑張ろうね?」
頭を撫でて耳元でそう囁いてあげると、長谷部くんはのろのろと震える手足に力を入れて立ち始める。
「うん、いい子だね」
どうにか元の四つん這いの状態に立ち戻り、長谷部くんが再び歩き出す。あと十メートル程で僕達の自室の前に着く。あと九、八、七…………。
どうにか部屋の前まで辿り着くと、長谷部くんは何か言いたげな瞳で僕を見上げてきた。
「長谷部くん、ちゃんと本丸一周できたね。えらいえらい」
「……ゎん」
「気持ちよかった?」
こくり、と真っ赤な顔で小さく頷かれる。
「ご褒美欲しい?」
もう一度頷かれる。
「そう。ならもう少し頑張ろうね」
ぎょっとしたように長谷部くんが目を見開いた。
僕はひょいと長谷部くんを抱え、縁側から庭に降りる為の沓脱石の所にある共用スリッパを履くと、そのまま近場の木の根元まで長谷部くんを運んだ。
訳がわからない、という顔をしている長谷部くんを優しく草むらの上に下ろし、きちんと四つん這いで立った事を確認すると、再び尿道ブジーに手をかけて引き抜いていく。
「ッ、んん、ふっ、」
先程より萎えた陰茎が再び立ち上がっていくのを、ぺちんと薄いお尻を叩いて嗜める。
「こら。勃たせたらちゃんとできないだろう?」
「…………?」
不思議そうな目で僕を見上げてくる可愛い長谷部くんに、僕はきっちり目を合わせて微笑んであげた。
「これから、君はここでおしっこするんだから」
ひ、と声が上がったのを無視して、ずるりと引き抜くと、長谷部くんがぶるっと震えた。
「ああ、さっきお茶も飲んだところだしね。そろそろ出るんじゃない? ワンちゃんなら散歩中にマーキングするだろう? 僕の目の前でして見せてご覧」
ぶんぶんと首を激しく横に振られる。無理、と小さな声が聞こえた気がしたが聞かなかった事にする。
「ほら、長谷部くん」
促すようにリードを引けば、長谷部くんは顔を真っ赤にしながら唇を噛み締め、のろのろと動き始める。
流石に片足を上げてするのは大変そうだから勘弁してあげる事にして見守っていると、長谷部くんは右手を脚の間に伸ばして性器を掴んで支え、どうにかいきんでるようだったが、緊張の為かどうにもうまく出ないようだった。そろそろ夕方になって空気も冷え込んできた頃だ。僕は溜息をついて、長谷部くんの横に回ってしゃがみ込んだ。
「ちょっとごめんね」
「っ………!?」
腹筋のついた綺麗な下腹に手を当て、ぐっと力を込めてやる。
「ぁ、みつ、だめっ、」
決壊は一瞬だった。
ちょろ、と長谷部くんのおちんちんから水音がしたかと思うと、そのままじょろじょろと淡黄色の液体が流れ出ていく。桃色に染まった肌は羞恥の為か夕焼けの為かわからなかった。
「……ぅううう、」
ぐす、ひっく、ととうとう泣き出した長谷部くんの頭からカチューシャを外してやり、頭を抱え込むように撫でてあげると、長谷部くんが両の目からぼろぼろと大粒の涙を零した。
「お、おれ、がんばった」
「そうだね、よくできたね。えらかったね」
いい子、と再度頭を撫でると、僕の手にぐいぐいと頭を押しつけてくる。
「み、みつただ、」
「なあに?」
挿れて、と小さく囁かれたので、僕は尻尾を掴んで長谷部くんから一気にバイブを引き抜き、リクエストに応えてあげる事にした。
「……………………正直やりすぎました」
「いや、元々言い出したのは俺だし……」
あれから庭で一ラウンド、部屋に戻って二ラウンド、シャワーブースで後始末をしながら一ラウンドやっていたらとっくのとうに陽は沈み、僕達は時計を見て慌ててレトルトのカレーを食べ、本丸のあちこちの後始末をして回った。その結果の自室でのいつもの賢者モードによる反省タイムである。
「……おまえのその理性が飛ぶとドSに振り切れる所、好きだぞ」
「…………それはどうも」
おまえは、と長谷部くんが言いにくそうに口を開く。
「こんな俺は嫌いか?」
「ああもう、大好きだよ!」
僕は力の限り答えた。
「君の性癖を知った今でも、好きで好きでたまらない。昼間の真面目だけどちょっと茶目っ気のある君も、夜の淫蕩な君も、戦場での苛烈な君も、どれも等しく愛してるし、毎日惚れ直してるよ。絶対に離してなんかやるもんか」
両目と口を真ん丸に開いた長谷部くんの顔が、一拍置いて朱の色に染まった。そのまま何かを振り払うように首を振ると、長谷部くんは枕に突っ伏して僕から遠ざかるように背を向けた。
「……長谷部くん、もしかして照れてる?」
「うるさい」
枕越しのくぐもった声は不機嫌そうに低かったが、髪の隙間から見え隠れする耳はやっぱり赤い。
ああ、好きだなぁ。そう思う。
もっと口に憚るようないやらしい言葉だって何回も言ったり言われたりしているのに、他ならぬ僕の他愛ない告白でこんなにも心乱されてしまう彼の事が、どうしようもなく。
長谷部くんは自分を落ち着ける為にか大きく深呼吸をした。すう、はあ。こちら側に向けている背中が息に合わせて隆起する。そうして、うん、と何かを納得したように頷いた。
「……今ので決心が着いた」
「何の?」
そこで長谷部くんはようやく顔を起こし、体をこちらに向けた。
「俺は修行に出ようと思う」
シュギョウ。しゅぎょう。修行。
変換を脳内で何度か繰り返してようやく答えに行き着くと、僕は思わず叫んでいた。
「はあ!? いつ!」
「明日」
「明日!!?」
「政府からは数日前に報せが来ていてな、既に主から許可は貰っている。他の本丸のへし切長谷部に遅れは取ったが、皆が帰って来たらすぐに出立する予定だ」
「…………もしかして、急に二人きりになりたいだなんて言い出したのも、」
修行に発つ前に、僕とゆっくり二人きりで過ごしたかったからとか、そんな可愛い理由だったり、してたのだろうか。
――長谷部はとにかく抱え込むタイプだから。この機会に適当に羽を伸ばさせてやってくれ。
主が旅行に出かける前に言った言葉が頭を過ぎる。彼は、この事を全部知っていたのだろう。
なんて事だ。誰よりも長谷部くんの近くにいて、長谷部くんを一番知っているのも僕だと思っていたのに、何よりその僕が一番肝心な所に気づけなかっただなんて!!
ぱくぱくと口を開いて閉じてを繰り返す僕に、長谷部くんはふっとやわらかい微笑みを向けてくる。
「なあ、光忠」
そう、名前を呼ばれる。
「俺達は主の刀だ。この髪の先から、爪の一片に至るまで、主に仕え、その敵を斬る為に在る」
「ああ、そうだね」
「けれど……いや、だからこそ、この心は未来永劫おまえだけのものだ」
そろりと僕の頬に長谷部くんの手が伸ばされ、感触をたしかめるようにそのままそっと撫でられる。
「なあ。おまえに、この真心ひとつ、捧げさせてはくれないか?」
思わず息を呑んだ。
それが長谷部くんにとって、いや、僕達にとってどれ程重い意味を持つ問いなのか。
この体を構成する細胞、玉鋼の一欠片まで主の所有物である自分達が差し出せる唯一のものを、長谷部くんは他ならぬ僕にくれるのだという。その事の意味が痛い程わかって、僕は一度唇を引き結び、そうして笑顔のかたちになるように緩めた。
「…………ああ」
今、僕はきちんと笑えているだろうか。
長谷部くんの空いている手をそうっと握り、僕の胸へと押し当てる。
「でも君ばかりなのは嫌だな。僕の心もどうか受け取って」
「……心得た」
「大事なものだからね。無事に持ち帰ってくれなきゃ嫌だよ?」
「わかっている」
「いってらっしゃい、長谷部くん」
そう言うと、長谷部くんはふっと微笑んだ。澄んだ湖面のような、透明な笑みだった。
「うん、行ってきます」
翌日の昼過ぎにみんなが帰ってくると、長谷部くんはしれっと「修行に行ってくる」と言い放ち、本丸中に驚きを振りまいた。既に修行に行ってきた子達は心得たように頷き、「そろそろだと思ってました!」「今度の極は長谷部さんかー」「頑張ってくださいね」と口々に応援し、まだ修行を済ませていない面子は少しだけ不安そうな顔をしつつも「気張れよ」「まあ精々頑張ってくるといいですよ」とそれぞれ応援の言葉をかけた。
出発の時も、湿っぽいのは嫌だからと、修行の見送りに来ようとする不動くんや博多くん達を説得し、長谷部くんは僕と主の二人に見守られながら修行出発へのゲートの前に立っていた。
「では、主。行って参ります」
「無事帰って来いよ」
「……主命とあらば」
そう言って悪戯っぽく笑うと、長谷部くんはちらりと僕の方に視線を寄越した。「行ってくる」と視線だけで告げる長谷部くんに、僕はいってらっしゃいと笑みを向ける。今の僕達には、それで充分だった。
長谷部くんはそうしてくるりとこちらに背を向けると、一度も後ろを振り返る事なく政府の役人の待つゲートに向かっていった。
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