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僕が長谷部国重くんの家庭教師になったのは、まだゴールデンウィークが明けたばかりの事だった。
大学生活の片手間に始めた塾講師のアルバイトは僕の性に合っていたらしく、生徒からもそこそこ人気を博していたところ、ある日塾長から直々に声をかけられたのだ。
「とある高校生の家庭教師をやる気はないか?」
なんでも、塾長が昔お世話になった人の息子さんが少しばかり訳ありな子らしく、現在高校二年生という大事な時期だというのに、学校に行っていないのだという。俗にいう不登校児という奴だ。
おまけにひどく人見知りをするタイプのようで、今まで何人も面接段階で拒否反応を示されて追い出されてきたのだという。
実は塾長や他の講師陣は既にその面接で追い出されているらしく、困り果てた挙げ句にとうとうこんな学生バイトにまで声をかける羽目になってしまったらしい。
まあ面接だけでも、という言葉に従って、僕は軽い気持ちでOKを出した。サークルには入っていないのでどうせ夏休み中はバイトと課題以外にやることがないし、そもそもそんな繊細な男子高校生の心を、人当たりがいいと自負してるいるとはいえ一介の大学生が掴めるとも思ってはいなかったのである。
紹介されたお宅はそれなりに名の知れた高級住宅地にそびえ立つタワーマンションの中にあった。共通玄関のインターホンで用件を伝え、床に白い大理石の貼られたホールを突っ切って高層棟用のエレベーターに乗る。上昇時間は長い。気圧の変化で耳が痛くなってきた頃、軽やかな音を立ててドアが開いた。
目的のお宅はエレベーターから少し歩いた所にあった。表札と部屋番号を指定されたものと見比べ間違いがない事を確認する。一度だけ深呼吸して僕は玄関のインターホンを押した。
「すみません、お約束した長船です」
共通玄関で一度名乗ってはいるが、もう一度同じ文言を繰り返す。はい、と声がしてカチャリと鍵の外される音がした。
「今日はありがとうございます。どうぞあがってください」
綺麗だけれどどこか陰のある美人だった。視線がなかなか合わないので、どこかおどおどとした印象を受ける。僕は靴を脱いで揃え、勧められたスリッパに足を通す。
「……あの子のことはなんと聞いていますか?」
「その、すこし気難しいところのある子だと」
「それだけではないんです。あの子、ずっと様子がおかしくて……」
言い淀み、奥さんは首を横に振った。
「……いえ、学生さんにこんなことを言っても仕方ありませんね。ご案内します」
奥さんに特に目立った外傷はないようだったが、もし暴れたりするような子だったらちょっと厄介だなぁ、と思った。趣味で体はそこそこ鍛えているけれど、大柄な子だったら怪我をさせずに抑えこむのは難しいかもしれない。僕だって怪我をしかねない。痛いのは嫌だ。
まあそんな杞憂もこの顔合わせがうまく行ってから考えればいいことだ。うまくいかないだろうけど。
スリッパでぺたぺたと廊下の奥まで歩くと、奥さんの細い手がドアを控えめにノックした。
「国重さん、新しい先生がいらしたわよ」
「……いらないと言っただろう」
「そんなこと言わないで頂戴。また学校に行けるようになった時のために、いえ、将来のためにもお勉強は必要なのよ」
言葉の端々から過保護ぶりが見て取れた。子供に興味のない父親に、過保護で過干渉な母親。問題児の家庭環境としては非常によくありふれたモデルだった。
はっきり言って面倒そうなので、とっとと顔を合わせて帰りたい。紹介してくれた塾長には申し訳ないけれど、終わったらやっぱり駄目でしたと伝えて、夏休み中は夏期講習の講師としてフルで働こう。僕はバイト代の振込口座の残高を思い出す。そろそろ目的のバイクも買える筈だ。
言い合いがしばらく続いた後、とうとう向こうも根負けしたのかドアの鍵が開く音がした。慌てて我に返る。
「長船先生、どうぞ」
「あ、はい」
ガチャ、と開かれたドアの向こうの部屋に足を踏み入れて、僕は息を飲んだ。
部屋の中にいたのは、一人の不機嫌そうな少年だった。まだまだ成長途中らしい華奢な手足が清潔そうな部屋着からひょろりと伸びている。想像していたよりずっと細くて、綺麗な子だった。瞳は意志の強さを思わせる強い光を宿していて、唇は負けん気の強さを表すようにきゅっと結ばれている。
「国重くん、だね。僕は長船光忠」
できるだけにこやかにそう言うと、国重くんは僕の顔をまじまじと見つめて動きを止めた。その視線が右目の辺りで止められ動く様子がないものだから僕は苦笑した。身体的特徴を穴が開くほど見られて、あまりいい気分はしない。
僕の右目は生まれつき光に弱く、普段は医療用の眼帯をつけて生活していた。
「……長船、光忠」
「ああ。長船先生でも光忠先生でも、好きに呼んでくれ」
そうして、国重くんは確かに少しだけ口の端を上げて、こう言ったのだった。
「母さん、この人にする」
その一言からの奥さんの喜びようったらなかった。息子が家庭教師を承諾したことがよほど嬉しかったらしい。
二人でゆっくり話してみたい、との国重くんの要望に応え、僕は今国重くんと二人きりで部屋の中で紅茶を飲んでいた。
「光忠」
「…………なんだい」
どうやら彼の中で僕のことは呼び捨てすることに決まったらしい。生徒からみっちゃんやらミッチーやらアダ名で呼ばれるのは慣れていたが、初対面から呼び捨てで呼ばれるのはいくら僕でも初めての経験だった。
「俺のことは、どれだけ知っている?」
「名前と学年くらいかな。今は休学中だって聞いてるよ」
「不登校で頭のおかしい子供だと?」
ほんの一瞬だけ表情を固まらせたのを彼は見逃さなかったらしい。
「っはは」
愉快でたまらないという風に小さく肩を震わせ、くつくつと笑い声をあげる。片手で顔を覆い、僕と反対側に体を捻ってうずくまった。何がそれほどまでに彼の笑いのツボに入ったのだろうか。
いつまでも笑い続けている彼にさすがの僕も少しばかり気味が悪くなってきた。
「……国重くん?」
呼びかけると、彼はぴたりと動きを止め、人形めいた動きできちきちとこちらを振り返った。
ぎこちない動きに反して瞳だけが強い光を宿していて、僕は不覚にも一瞬その瞳に見惚れてしまう。
「長谷部だ」
何の事、と聞き返す前に、彼は聞き分けのない子供に道理を説くみたいにゆっくりと繰り返して言った。
「長谷部と呼べ」
それが、長谷部くんと僕の出会いだった。
教えてみれば長谷部くんは基本的にどの教科も平均より高い点数を叩き出し、家庭教師など本当に必要なのかと思うほどだった。
それでも、きっと親御さんにしてみれば息子がやっと家庭教師を受け入れて勉強している姿というのは安心させられるものなのだろう。僕は行く度にこちらが恐縮するほどの歓待を受けた。差し入れの飲み物や甘い物、時には夕飯まで。お土産のケーキを持たされそうになった時はさすがに断ったけれど、一人暮らしの学生の身分で食事代が浮くのは非常にありがたかった。
基本的にどの教科もそつなくこなす長谷部くんだったが、苦手な教科が一つだけあった。日本史である。
「長谷部くん、ほら目を背けないで。一五八二年、本能寺の変」
「……どうしてこんなものを覚えないといけないんだ」
「必要だからだよ」
ほら、と表を示したが、長谷部くんは顔を顰めて年号表を机の奥に追いやった。
「嫌だ。見たくもない」
「ならこうしよう。次の模試、日本史で八割以上の点を取ったら、なんでも一つ言うことを聞いてあげる」
記憶力が悪いわけではないのは他の教科の出来でわかっているので、これはもう、単純に興味がないのだろう。それに興味を持たせるためには、やはり飴だ。本当はいけないのかもしれないけど、僕に思いつくのはこれくらいだった。
なんでも、と呟いて長谷部くんが僅かに目を光らせたので、僕は慌てて付け足す。
「勿論、僕の叶えられる範囲で」
「そうか」
少しだけ残念そうな響きがあるのは僕の気のせいだろうか。
しばらく考え込んでいた様子の長谷部くんが再びシャープペンシルを手にとったので、僕はほっと胸を撫で下ろした。そんな僕の様子を横目でちらりと見て、長谷部くんが溜め息をつく。
「……あるはずの物がないというのは、やはり落ち着かないな」
「何、僕の右目のこと?」
長谷部くんは僕の問いには答えずに、こちらの顔をまじまじと覗きこんだ。何も後ろめたい事はない筈なのに、こうまでじっと見つめられると居心地が悪い。穴が開きそうだ。
「どうしたんだい?」
「……お前の目は、黒いんだな」
話の繋がりがわからず、僕はぱちぱちと目を瞬かせた。確かに生粋の日本人である僕の瞳は、大多数の国民と同じく黒い虹彩を有している。いったいそれの何が問題なんだろう。
「ええと……」
「満月のような瞳だったのに」
それきり長谷部くんは黙って僕が作ってきた問題を解き始めた。カリカリとシャーペンの芯がノートに擦れる音が部屋の中に響く。
僕は訳がわからなかったけれど、とりあえずスルーすることに決めた。長谷部くんの奇妙な言動にいちいち付き合っていたら身がもたないということを、僕はこの一週間で学んでいたのである。
そうして次の模試で、長谷部くんは見事に全教科八割以上の成績を収めてきた。勿論日本史も。
「おめでとう、長谷部くん。それで、お願いは決まったかな?」
「ああ」
「お前とふたりきりで花火を見に行きたい」
なんだそんな事か、と思いかけてはたと気づく。彼の母親は過保護だ。夜間の外出なんて、はたして認めてくれるだろうか。
「なんでも言うこと聞いてくれるんだろ? センセイ」
こんな時ばかり先生よばわりしてにやりと笑う長谷部くんはどこか楽しげだ。
僕は痛む頭を押さえながら、彼の母親にどう言い訳したものか算段を巡らした。
花火大会当日、ご両親から外出許可が下りたことに対して一番驚いていたのは当の長谷部くんだった。
「……どんな手品を使ったんだ」
「僕の誠実な人柄と、日頃のたゆまぬ努力の成果かな」
「……言ってろ、この人たらしめ」
そう言って、長谷部くんは口の端を上げた。
実のところ僕が彼の母親の信頼を勝ち得たのは、ひとえに長谷部くんが僕に懐いているからという一点に尽きた。けして彼の母親に色目を使ったりだとか騙したりだとか、そういう事では断じてない。ただ、長谷部くんが僕を気に入ってくれたという点で考えれば、僕はたしかに人たらしなのかもしれなかった。
「どこに行くんだ?」
「着いてからのお楽しみ」
「……随分と勿体ぶるんだな」
「相手の油断をついて大暴れ、とかそういうのってかっこいいだろう?」
そう言って笑ってみせると、長谷部くんは一瞬だけ泣きそうな顔をしてから「……そうだな」と寂しげに笑ってみせた。なんだか痛々しげなその様子に思わず頭を撫でようとしたら、「やめろ、子供じゃないんだ」と手を振り払われた。子供のくせに。
でも本当に嫌がっているわけではないことは、大人しく並んで歩いていることからわかる。長谷部くんの好意はわかりにくい。
長谷部くんに対しても、僕はやはり特になにかした覚えはないのだけれど、こうしてわずかばかりにでも懐いてくれているのなら、まあいいだろう。
そうして僕たちがマンションを出て向かったのは、長谷部くんの在籍する高校で、そこは僕の母校でもあった。人混みが嫌いだという長谷部くんにはうってつけの場所を、OBの僕は知っているのだ。
「ふん、なるほどな」
もしかしたら逃げられるかもしれないと覚悟していたが、意外なほど長谷部くんは冷静だった。不登校なのが信じられない。
裏口から塀を上って忍び込み、外付けの非常階段の鍵が昔と変わっていないことを確認して、僕は得意気に振り返る。
「在学中はここからよく忍び込んでたんだ」
「不良め」
「君に言われたくないなあ。……これ、番号が変わってなければいいんだけど……っと」
そう言いながら記憶の中の数字にダイヤル錠を合わせると、音を立てて鍵が開く。
僕はわざと恭しく長谷部くんの手を取って笑ってみせた。
「眺めは保証するよ」
長谷部くんは一瞬驚いたように目を見開くと、少しだけはにかんだように笑って、その笑顔に僕の胸がことりと音を立てた。
ここに来る途中で買ってきたお菓子やラムネの入った袋をガサガサと鳴らしながら、屋上へと繋がる非常階段を一段ずつ上っていく。
「見つかったらどうするんだ」
「どうしようね。屋上から飛び降りて逃げようか?」
「死ぬぞ」
「下に飛び込み練習用のプールがあるから、運が良ければ助かるかも」
「とんだ博打だな」
軽口を叩いているうちに屋上につく。誰もいない屋上は僕達VIPの到着を待ちわびていたかのようにひっそりとしていた。
「長谷部くん、何食べたい? ポテチ? 焼き鳥やスルメもあるよ」
「酒が欲しくなるな」
「未成年が何言ってるんだい」
そんなことを言い合っていると、不意に夜空がぱっと明るくなった。夜空に光の花が咲き誇る。ひとつ、ふたつ、みっつ。
数秒遅れて同じ数だけ重い破裂音が響く。
ふと隣の長谷部くんを見ると、まあるい瞳には金の華が映っていた。
「光忠、綺麗だな」
「……ああ」
夜空に浮かぶ花火よりも、長谷部くんの瞳に映った花火の方が綺麗だなんて言ったら引かれるだろうか。
僕という奴は光の花園と化した夜空を前にしてそんなことばかり考えてしまっていた。
どおん、どおん、と腹に響く破裂音に紛れるくらい小さな声で、長谷部くんが「光忠」とぽつりと僕の名前を呼んだ。
「おまえは生まれ変わりというものを信じるか?」
「……また、随分と唐突なはなしだね」
まあ長谷部くんの話が突拍子もないことは承知の上だったので、僕は気にせずにその話に乗る。
「あったら面白いと思うよ。僕の前世がなんだったのかは少し気になるね」
たしか仏教の教えでは、自分の行い次第で来世何に生まれるのかが決まるらしい。輪廻転生というのだったか。
こうして平和な時代の平和な国の人間に生まれて、特に不自由なく生活していることを考えれば、前世の僕は――それがあるとするならば――そこそこ善行を積んだのではないだろうか。
「おまえは刀だった」
長谷部くんはやけに自信たっぷりにそう言った。
「刀?」
「そう。うつくしい日本刀の付喪神だ」
ははあ、と僕は納得した。これはつまり彼なりのごっこ遊びのようなものなのだろう。もしも宝くじが当たったら、とか、もしも明日地球が滅びるなら、といった話題と一緒だ。長谷部くんは時々ひどく真面目な顔で冗談を口にすることがあったから、今回もきっとその類のものに違いない。
「日本刀の付喪神か、なんだかかっこいいね。僕が日本刀なら君はなんだったんだい?」
「俺も日本刀の付喪神で、お前と同じ主に仕えていた」
「へえ」
僕は日本刀の付喪神だという長谷部くんや僕の前世を想像してみようとしたけどうまくいかなかった。
そもそも付喪神って人型なんだろうか。日本刀に手足が生えたようなゆるキャラもどきを想像してしまって、なんともいえない気分になる。そんなのだったら、ちょっとばかりかっこわるい。
「それって人型?」
「姿は今のおまえとそう変わらない」
「長谷部くんも?」
「そうだ」
それを聞いて僕は安心した。
「きっと綺麗な刀だったんだろうね」
「ああ。お前は力強く、それでいて優美で華麗な刀だった」
僕は長谷部くんの前世の方を言ったつもりだったのに、長谷部くんには僕の前世の方だと取り違えられてしまったらしい。
話の腰を折るのもどうかと思い、僕はとりあえずその勘違いを正さないでおいた。訂正するのは何か問題が起こってからでも構わないだろう。
「切れ味もさることながらその太刀筋も見事だった。刃の鋭さと迷いない太刀筋でもって、防御ごと敵を叩き切るさまは見ていて爽快だった」
長谷部くんの目が懐かしそうに細められる。
「手先が器用で料理が得意だった。気配り上手で人当たりがいいものだから、誰からも好かれる奴だった。恰好にこだわりがあるらしく、髪型が気に入らないといつまでも鏡の前でああでもないこうでもないと試行錯誤していた。そんなこと気にせずとも、伊達男には変わりがなかったのにな」
僕は吹き出すのを堪えるのが大変だった。それは全部今の僕の特徴に当てはまっていたのだ。いくらもしもの話とはいえ、もう少し設定を練ってくれてもいいのに。
それでも、長谷部くんが変化球で僕を褒めてくれている事だけは伝わってきたので、少しばかり面映ゆい気持ちになる。彼がこうして好意を示してくれるのは珍しい。
にやけそうになる口元をごく自然な笑顔になるよう調整して、僕は冗談の通じる大人の男のような顔をしてみせた。
「僕は刀のくせに随分と人間くさい奴だったんだな」
長谷部くんがきらめく夜空からふっと視線を外して僕を見る。
「……そう、とても人間らしい奴だった」
そう言ってどこか寂しげに微笑む彼の顔は、なぜか僕よりもずっと大人びて見えた。
いつの間にか花火は終わっていて、再び辺りは静けさを取り戻していた。
「……ねえ、線香花火しない? 実はさっき買ってきたんだ」
「子供か」
「君よりは大人だよ」
コンビニのビニール袋から花火を取り出して、長谷部くんに手渡す。僕は持っていた百円ライターで彼と自分の分の花火に一本ずつ火をつけた。
「どっちの方が長く残るかな?」
そう言っておどけたように笑ってみせると、長谷部くんはむっとしたように唇を尖らせた。
「待て。話しかけるな。手が揺れる」
「そうだね。じゃあ静かにしてようか」
じじ、と小さな音を立てて丸くなった火の玉が、光の花びらを散らして少しずつ弾けていく。
ぱ、ぱぱ、ぱっ、ぱち。
互いの息遣いと火花の弾ける音だけが僕らの間を満たす。
「あっ」
先にはっきりと声を上げたのは長谷部くんの方だった。ぽとりと落ちた小さな火の玉を、長谷部くんが悔しげに見つめている。
「僕の勝ちだね」
「まだ残り本数があるだろう。次は俺のほうが長く続ける」
ムキになる長谷部くんは年相応の子供のようで、僕はなんだかほっとしたような毒気を抜かれたような、奇妙な心地になった。
「いいよ。何度でも付き合ってあげる」
「言ったな」
そうして僕達は線香花火がなくなるまで、どちらが長く保たせられるかの勝負を続けた。
結果は引き分けだった。
◆ ◆ ◆ ◆
あの日以来、長谷部くんは時々思い出したようにその前世の話を持ち出すようになった。
どうやら彼は前世が日本刀の付喪神であるという設定をいたくお気に召したらしい。
「俺達は刀剣男士として政府から遣わされた審神者に仕え、歴史修正主義者達から歴史を守るために戦ってきたんだ」
曰く、歴史のターニングポイントと言われた合戦や事件の裏には、その刀剣男士と歴史修正主義者とやらの熾烈な戦いがあったそうだ。語られる設定は日々エピソードが増え、具体性が増していく。その中にはごく自然に僕の前世とやらも組み込まれていた。
しかし悲しいかな、長谷部くんは日本史が苦手だ。彼の語る設定は所々穴や間違いがあって、その度に僕はこっそりと嘆息する。想像力に知識が追いついてないよ、長谷部くん。
勿論そこでわざわざ間違いを指摘して彼に恥をかかせるほど僕は無粋な男ではない。夢見る青少年の空想の翼を手折るだなんて、そんな無慈悲なことはできやしない。たとえいつか現実という名の太陽に撃墜されることが決まっているイカロスの翼であろうと、あたたかく見守って軟着陸できるよう導いてやるのが大人というものだ。
だからそんな時、僕は決まっていつもより多めの日本史の課題を出すことにしていた。成果はいまだに出ていない。長谷部くんの歴史嫌いは折り紙つきだった。
歴史嫌いのくせに、前世は歴史のために戦ったのだと熱弁するのは、もしかしたらいつまでも日本史の点数が上がらない彼の劣等感の裏返しなのかもしれない。
僕はふとそんなことを考えながら、徳川幕府と書かれた彼の答案に大きくバツをつけた。
「長谷部くん、僕もう少しでバイクが買えるんだよね」
「それが?」
「どこか行きたい場所はある? 二人乗りできるから、好きなところまで連れて行ってあげる」
「……別にいい」
長谷部くんは興味なさそうにふいと窓の外を眺めた。高層階のこの部屋の窓は嵌め殺しになっていて、夏の茹だるような外の風は入ってこない。エアコンが奏でる低い駆動音が響く。
「海でも山でも、君が行きたい所ならどこだっていいよ」
「どこだって同じだ。だからいい」
「そんなこと言わずに。本当に行きたい場所はないの?」
「あの世」
ぽかんと口を開けた僕に、長谷部くんは目を細めて笑った。
「……って言ったらどうする?」
「……笑えない冗談はやめてくれ」
溜め息をついて、汗のかいたグラスを傾けて麦茶を煽る。
「あんまり大人をからかうものじゃないよ」
そう言って長谷部くんの形のいい頭を軽く指で弾くと、長谷部くんはバツの悪そうな顔で突かれたところをさすった。
「……お前と一緒なら、どこだってさして変わらない。だからいい」
そう視線を外して早口で呟かれて、胸がぎゅうと締め付けられる。そんな気持ちを誤魔化すように、僕はいささか早口で、以前から気になっていた事を聞いてみた。
「……例の前世の話だけど」
「ああ」
「僕は忘れていて、どうして長谷部くんは覚えているのかな」
「俺は近侍だったから、主の力の影響を強く受けたんだろう」
だからこうして何もかも覚えている、と長谷部くんは呟いて手の中のグラスをゆっくりと回した。氷と硝子がぶつかって、カラカラと涼やかな音を奏でた。
聞いておいてなんだけど、どうやって返すべきなのかがわからない。
気まずい沈黙が僕らの間に横たわり場を満たす。そんな静寂を破ったのはノックの音だった。
「先生、少しお聞きしたい事が……」
「はい! 何でしょう!」
僕はこれ幸いとばかりに素早く立ち上がり、長谷部くんのお母さんの元へと向かった。部屋を出る時ちらりと振り返ると、長谷部くんはつまらなそうな顔をしてちびりちびりと麦茶を飲んでいた。
「どうぞ、かけてください」
リビングに通されて革張りのソファを勧められる。僕は「失礼します」と声をかけ、ありがたく腰を下ろさせてもらう。長谷部くんのお母さんも同じくテーブルを挟んで向かいのソファに腰を下ろし、やがておずおずと口を開いた。
「先生、最近国重さんはどうですか?」
「どう、とは……?」
「あの子、ちょうど半年前くらいから調子を崩して、様子がおかしくなってしまって……でも最近は落ち着いてきて、会話もしてくれて。私、先生には感謝してるんです」
そう言って長谷部くんのお母さんはぎゅっと服の裾を握りながら僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「先生の目から見て、あの子、学校に戻っても無事にやっていけると思いますか?」
真剣な表情だった。きっとずっとそれが不安だったのだろう。僕は親になった事はないけれど、彼女が息子を心配しているのだけは十分伝わってきた。
「……学力的には、全く問題ないと思います」
僕は正直にそう答えた。
「確かに、はせ……国重くんは少し変わった所のある子ですけど、とてもいい子ですし、彼の良さをわかってくれる教師や友人に恵まれれば大丈夫なのではないかと」
できるだけ率直に意見を述べると、長谷部くんのお母さんはふーっと長い息を吐いた。
「……すいません。まだお若い方にこんな事、」
「……いえ、」
「あの子、昔は素直で泣き虫で、でも反面よく笑う子だったんです。それなのに、私、今あの子が何を考えているのか全然わからない。……単なる反抗期、ならいいんですけど」
彼女はそう言って、縋るような目で僕を見つめた。
「先生、国重さんの事、よろしく頼みます」
僕は頷く事しかできなかった。
部屋に戻ると、長谷部くんは解き終わったらしい問題のプリントを僕に無言で差し出してきた。僕は苦笑してそれを受け取りながら、ざっと紙面に目を走らせる。特に間違いらしい間違いは、ない。
「プール」
「うん?」
「プールに行きたい」
「海じゃなくていいの?」
「海は錆びそうだから嫌だ」
また前世とやらの話らしい。僕は溜め息をついて長谷部くんの向かいに腰を下ろした。
「君がいいならいいけど。どこのプールがいいの?」
近場のプールの場所をいくつか上げると、長谷部くんはそのどれにも首を縦に振らなかった。
「学校のプールがいい。できれば夜の」
呆気に取られる僕の顔を見て、長谷部くんはにんまりと笑ってみせた。
「どうせお前、プールの鍵の番号も知ってるんだろう? また夜に忍び込みに行こう」
不良はどっちだよ、と僕は心の中で毒づいた。
◆ ◆ ◆ ◆
ぴかぴかの大型バイクの後ろに初めて乗せるのが、大学の友人でも、今はいない彼女でもなく、家庭教師先の教え子になるとは思いもしなかった。しかも、行く先は夜の学校かつ僕の母校。
長谷部くんがしっかりとヘルメットを被って後ろに座ったことを確認すると、僕はぶるるんと新品のエンジンをふかせた。
「ちゃんと掴まっててね」
おずおずと僕の腹に腕が回される。その様子がなんだかぎこちなくて少し可愛い。思わず笑い声を上げると、ゴツリとヘルメットをぶつけられた。
「こら、痛いってば」
「うるさい。とっとと進め」
「はいはい」
僕はアクセルを入れて、夜の街へと長谷部くんと共に繰り出した。
十数分たらずのドライブはあっという間に終わり、僕はできるだけ目立たない場所にバイクを停めてキーを抜いた。先に降りた長谷部くんからヘルメットを受け取ってホルダーにかける。蒸し暑い夜だったけれど、それでもヘルメットを外すとほんの少しだけ涼しく感じる。オケラだろうか、じいーっと低い唸り声のような音が近くの地面から聞こえてきた。
青緑色の、所々錆びたフェンスに囲まれたプールは月明かりの下静かに凪いでいた。折しも今夜は満月で、これならプールサイドはなんとか見えそうだ。
手元を懐中電灯で照らしながら鍵を開け、そのまま中の更衣室へ向かおうとすると、背後でざぶりと音がしたので慌てて振り返った。
「長谷部くん!?」
「っはは! お前も来い!」
長谷部くんがあんまり楽しそうに笑うものだから、僕も観念してシャツを脱ぎ、どぼんとプールに飛び込んだ。念のため替えの服を持ってきておいて本当に良かった。
ハーフパンツの長谷部くんと違って、僕のビンテージのジーンズはずっしりと水を吸い込んで動きにくい。しかも手前は飛び込み練習用に深くなっているプールで、僕はどうにか苦心しながら長谷部くんの隣まで泳ぎ着いた。
「遅いぞ鈍間」
「……あのねぇ」
長谷部くんはぷかぷかと水面に漂って、ふうと息を吐いた。
「……いつか、足を滑らせて本丸の池に二人で落ちたことがあったな」
「……君もその話好きだねぇ」
苦笑して長谷部くんの隣に並ぶと、長谷部くんは僕を見て少しだけ寂しげに笑った。
「お前はかっこ悪いと嘆いていたが、俺は存外楽しかった。ここは鯉がいないだけマシだな。泥臭くもないし」
あの時は鯉に食われるかと思った、とぼやく長谷部くんを横目で見ながら、濡れた医療用眼帯の感触が気持ち悪くて、僕はおもむろにそれを毟り取ってプールサイドに投げた。
どうせ夜だし、目に影響するという事もあるまい。
すると長谷部くんが僕の右目を見て、ひゅっと息を呑んだ。
「お前、それ」
「ああ、うん。生まれつき色素が薄くて光に弱いんだ。だから……えっ」
はっと息を飲む。なんと、長谷部くんが今にも泣きそうな顔で僕を見つめていた。
「……触れても、いいか」
「…………うん」
ほとんど金色に近い茶色の瞳の周りを、長谷部くんの白い指がぺたぺたと確かめるように触れる。不思議と嫌じゃなかった。
「……光忠、」
「なあに」
「みつただ、みつただ……っ」
迷子の子供のような声で何度も何度も名前を呼ぶと、長谷部くんは僕の肩にぐりぐりと顔を埋めた。
「長谷部くん?」
思わずそっと顔を上げさせて顔を覗き込む。気づけば吐息がかかるくらいの距離に、まだどこか幼さの残る輪郭の整った顔があった。
「……光忠」
どうしてそんなことをしようと思ったのかわからない。けれど、僕はそうすることが自然であるかのように、彼の唇に己のそれをそっと重ねていた。
どれくらいそうしていただろう。遠くにチカリと懐中電灯の光が見えて、僕は慌てて身を離した。
「ヤバイ! 警備員だ。そろそろ帰らないと」
「……ああ」
慌てて持参したタオルで簡単に体を拭き、大急ぎで着替えると、僕らは這々の体でバイクを停めた場所まで走った。
「こらっ! お前ら! どこの子供だ!」
後ろから警備員らしき男の怒声が聞こえる。
「長谷部くん、掴まって」
今度は躊躇いなく長谷部くんの腕が僕の腰に回った。
濡れた着替えを持って長谷部くんの家に戻ると、長谷部くんのお母さんは少し驚いたような顔をしたが、それでも何も聞かず僕に頭を下げた。
「……ご迷惑をおかけしてすみません」
「いえ、こちらこそ……またね、長谷部くん」
「ああ」
手を振ってその場を離れ、一人エレベーターに乗り込む。
はあっと息を吐いて、手で顔を覆う。顔が熱い。
「……何なんだよ、一体……」
教え子と、それもまだ十代の子供と、キスをしてしまった。
◆ ◆ ◆ ◆
僕は彼が好きなんだろうか。
いつも不遜な態度の長谷部くん。時折奇妙な言動をとる長谷部くん。僕が部屋に入ると、少しだけ目元から険が消える長谷部くん。
嫌いではないと思う。
しかし純粋に好きだと言い切るには、僕から長谷部くんへの感情は憐憫と優越感とを含みすぎていた。
◆ ◆ ◆ ◆
夜風にも徐々に秋の気配が感じられるようになってきた。
長谷部くんは相変わらず日本史が苦手だったけれど、それでもそれ以外の教科は大分点数が上がってきていた。もう少し日本史を集中的に伸ばせれば、志望校には間違いなく受かるだろう。……長谷部くんが夏休み後無事に学校に通えるようになれば。
あのプールの一件以来も、僕と長谷部くんの関係は特に何も変わらず、ただの家庭教師と生徒のままだ。
「長谷部くん、夏が終わったらどうする?」
「どうする、とは」
「学校、行ってみない?」
ぱちぱちと長谷部くんが何度か目を瞬かせた。
「学校」
長谷部くんがぼんやり呟く。
「秋には文化祭や体育祭だってあるだろう。僕、長谷部くんに会いに行くよ。だから、」
「いらない」
きっぱりと長谷部くんはそう言った。
「そんな事言わずにさ。秋祭りだって修学旅行だって、楽しいことはこれからも沢山、」
「俺はもう充分だ」
そう言ってゆっくりと首を横に振る。
「もう、充分楽しんだ。だからいい」
「……長谷部くん、」
長谷部くんがぐいと僕の襟を引っ張って引き寄せた。
「なあ、光忠。お前、お前は本当に平気なのか。気が狂いそうなのは俺だけなのか。こんな、こんなの絶対に間違っているのに、」
あの夜プールで見せたのと同じ、泣きそうな顔で長谷部くんが言葉を重ねる。
「どうしてなんだ。どうして俺一人忘れることもできずに、こんな……!」
ギリ、と噛みしめられた唇から血が滲む。僕は吸い寄せられるようにそこに口をつけ、舌を這わせる。長谷部くんは少しだけその細い肩をぴくりと跳ねさせたけれど、大きな抵抗はしなかった。ゆっくりと顔を離し、濡れた唇を指で拭う。
「……ねえ、怒らないで聞いてほしい」
可哀想で可愛い長谷部くん。
歪つだろうがなんだろうが、この気持ちは、きっと恋だ。
「僕、君のことが好きみたいだ」
そう告げると、長谷部くんは一瞬だけくしゃりと顔を歪めて僕の服を離し、テーブルに突っ伏した。
「長谷部く、」
「もういい。今日は帰ってくれ」
もう充分だ。
そう言って長谷部くんはぴくりとも動かなくなった。
僕は無言で荷物を纏め、静かに部屋を出て行く。
「……またね、長谷部くん」
返事はなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
長谷部くんが家出したという報せを受けたのは、その夜の事だった。
『国重さんがいないんです! 先生、心当たりはありませんか?』
切羽詰まった長谷部くんのお母さんの声を思い出しながら、僕はバイクで夜の街をひた走った。
長谷部くんが行きそうな所なんて、僕には一つしか思い当たらなかった。
目的地へ着くと、僕は乗り捨てるようにバイクを道端に置いた。校門の塀をよじ登り、もう何度目になるかわからない校内への侵入を果たす。まるで纏わりつくような生温い風をかき分けながら非常階段に駆け寄ると、案の定鍵は外れていた。きっと以前僕が外していた時に見ていたのだろう。彼は記憶力がいいから。
「長谷部くん!」
僕が屋上に駆け上がった時、長谷部くんは既にフェンスの向こうに立っていた。ひゅ、と僕の喉が鳴る。
「長谷部くん!!」
「光忠」
長谷部くんはいつもと変わらない調子で僕に向かってゆっくり振り向いた。
「何やってるんだ。早くこっちに……」
「光忠、一五八二年はなにが起きた年だ?」
「本能寺の変だろう」
僕は怪訝に思いながらそう答える。
「明智光秀が織田信長に謀反を起こそうと企み、豊臣秀吉によって間一髪未然に防がれた事件だ」
その後織田信長は天下統一を果たし、安土幕府を成立させたのだ。
チッと音がした。長谷部くんが舌打ちしたのだ。
「忌々しい歴史修正主義者どもめ」
苛立たしげに顔を歪め、長谷部くんが続ける。
「俺達は負けて、歴史のことごとくが改変された。俺もお前も依代である刀はいまや失われ、肉の器に閉じ込められて狂った世界に生きるのを強いられた哀れな虜囚だ」
僕は以前長谷部くんのお母さんから聞いたことを思い出す。
『家族で福岡に旅行に行った時以来です。……国重さん、博物館のガラスケースの中を見て、ひどく狼狽えて』
そうして長谷部くんはその場に倒れ、病院に運び込まれたのだそうだ。
『病院で目覚めてからは、どうして俺がいないんだ、こんな世の中は狂ってる、ってひどく暴れて。国重さんの様子がおかしくなったのはその事件がきっかけです』
長谷部くんの自嘲する声を思い出す。
――あるはずのものがないというのは、やはり落ち着かないな――。
長谷部くんは日本史が苦手だ。
彼の語る『へし切長谷部』や『燭台切光忠』という刀は文献のどこにも存在しなかった。本能寺の変で織田信長は死んでいないし、京都で池田屋事件なんてものは起こっていない。江戸時代なんて時代はないし、徳川幕府なんてものはなかった。
長谷部くんが話してくれる歴史はどこかちぐはぐで、でたらめだった。存在しない刀が存在しない歴史を守る話は滑稽だった。
それでもそれを話している時の長谷部くんの顔は穏やかで、でもどこか寂しげで。僕はそんな彼の側にいるのが好きだった。
びゅう、と屋上に強い風が吹く。
「長谷部くん!」
僕の呼び声に応える様子もなく、長谷部くんはふっと諦めたように唇を歪め、静かに首を横に振った。疲れ果てた老人のような笑みだった。
「まあ、今更何を言ったところで負け犬の遠吠えだがな」
「待ってて! 今僕もそっちに、」
嫌な予感がして僕は急いでフェンスに手と足をかけ、ガシャガシャと上っていく。
はやく、はやく。鈍間な腕と足を叱咤しながらフェンスを乗り越える。
「本当はもっと早く死のうと思っていたんだが。思いがけずお前に会えたものだから、今日まで不様に生き永らえてしまった」
「駄目だよ! 長谷部くん、駄目だ!」
「お前と過ごした日々は楽しかった。だからもう充分だ。俺はここで降りる。この先の未来なんてもういらない」
ははっと長谷部くんがからっぽの笑い声をあげた。白い頬を伝い、透明な雫がコンクリートの屋上にぽたぽたと流れ落ちていく。
届け、届け、届け!
僕は必死に手を伸ばす。彼を一人にさせるわけにはいかない。そんな想いが僕を突き動かす。どうしてなんか、自分でもわからない。祈りにも似た切実さで、ただひたすらに彼の名を叫ぶ。
「長谷部くん!」
なあ光忠、と長谷部くんが僕の名を呼んだ。栗色の瞳が僕を捉え、懐かしいものを見るように細められる。
「お前にそう呼ばれるのが、俺はずっとすきだったよ」
ぐらり、と細い体が後ろに倒れていく。
僕は手を限界まで伸ばしてその華奢な体躯を引き寄せる。空中へと身を倒す長谷部くんの体を無我夢中で抱きしめながら、僕は屋上の縁を思い切り蹴った。
風になびく煤色の髪に顔を埋める。背中に触れた感触は彼の指だろうか。確かめている余裕はないけれど、どうかそうであってほしいと思った。
あと数秒後には地面に叩きつけられて死ぬかもしれない。運良くプールに落ちて助かるかもしれない。どちらでもかまわなかった。
彼と一緒ならなんだって。
――――こいにおちる(恋に落ちる / 故意に墜ちる)
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