人を信じることは難しい。
裏切られるのは嫌だ。見捨てられるのも、置いて行かれるのも。
もう二度とあんな痛みを負うのは御免だと心を閉ざして生きてはきたものの、誰にも心を預けまいと肩肘を張り続けるのはどうにも窮屈だ。胸の奥底にぽっかりと穴が空き、そこから絶えずぴゅうぴゅうと隙間風が吹いているような心持ちがする。
寂しい、と思う。
でも、これ以上傷つきたくないとも、思う。
相反する感情を胸の中で持て余しながら、今日も生きている。
◆ ◆ ◆ ◆
定時のチャイムが社内放送で響き渡った瞬間、室内の同僚たちが一斉に立ち上がり、ばたばたと机の上を片付け始める。
「おつかれさまです」
「おつかれさまでーす。長谷部さんは残るんですか?」
「はい。来週の会議で使う資料作成、もうすこし詰めたくて」
「先週もそうやって残ってませんでした? あんまり根詰めすぎると体壊しますよ?」
「これだけやったら帰ります」
「無理しないでくださいね。あ、戸締りよろしくお願いします」
荷物をまとめ終わった同僚たちが次々に部屋を出ていく。最後のひとりの背中を見送ってから、ようやく長谷部はうーんと伸びをした。長時間のデスクワークで固まっていた体がばきばきと悲鳴をあげる。
長谷部の勤務する長船商事は、このご時世で幸いにしてホワイト企業として名高い。全国各地に支店を持ち、それを取りまとめる社長の補佐として秘書室が設けられ、長谷部は秘書室唯一の男性秘書としてそこに所属している。
秘書の業務といえば社長への電話やメールの対応・来客応対・社長のスケジュール管理等がメイン業務だが、会議や商談に使う資料をまとめたりするのも仕事のひとつだ。長谷部は主にそちらの対応を任されていた。
静まり返った秘書室でカタカタとキーボードを打つ。各部署から上がってきた情報を整理し、まとめる。この作業が長谷部は比較的好きだった。パソコンのディスプレイ画面右下の時間を確認して、ふうと息を吐く。十八時までには帰れそうだ。首を曲げるとこきんと音がする。
「おつかれさま。頑張ってるみたいだね」
声と同時にその曲げた首にひやりとした感触が走った。
「っひ……!」
慌てて後ろを振り向くと、長谷部の上司、長船光忠社長その人が立っていた。にっこりと笑いながら「残業はあんまり感心できないなぁ」と手に持っていた缶コーヒーを差し出してくる。冷感の正体はこれだったらしい。渋々缶を受け取りながら、長谷部は唇をへの字に曲げた。
「……ありがとうございます。ですが、からかうのはやめてください。困ります」
「次からは気をつけるよ」
「この間もそう言ってました」
「そうだったかな」
しれっとそんなことを言ってのける光忠に、大げさなくらい深い溜め息をついてみせてから、長谷部はパソコンに向き直った。
「あとこれだけやったら帰りますから。邪魔しないでください」
缶コーヒーのプルタブを持ち上げ、缶を開ける。ぐびりと口をつけると、缶コーヒー特有の香りと甘さが疲れた体に染み入るようだった。
「それ、今度の商談の資料?」
「そうです」
言外に邪魔をするなと含みを持たせたが、長船が立ち去る気配はない。
「なら来週でも間に合うだろう。せっかくの金曜日なんだし、さっさと切り上げて友達と飲みにでも行けばいいのに」
「俺、友達いないので」
「じゃあ恋人やパートナーとか。長谷部くん、Subだったよね? 今パートナーいないの?」
「それ、セクハラですよ、社長」
溜め息をつきながらもキーボードを打つ手は止めない。カタカタと正確なキータイプで書類を作成していると、たしなめられた相手は長谷部のデスクに置いてある卓上サボテンに「叱られちゃったよ、サボくん」と見た目だけはしおらしく報告をしている。
「俺のサボテンに勝手に変な名前をつけないでください」
右手で眉間の皺をぐりぐりと揉み解してから、長谷部は再びキーボードを叩き始める。時折押されるエンターキーの音が苛立たし気に「ッターン!」と響いた。
「昨今はハラスメントだのコンプライアンスだのうるさい世の中なんですから、くれぐれも外でそういう発言は控えてくださいね」
「長谷部くんだから言ってるんだよ。そうだ。ねえ、僕のパートナーにならない?」
そこでようやく指先の動きを止め、長谷部は片眉を跳ね上げて長船をじろりと睨みつけた。
「何度も言ってますけど、社長のことは尊敬していますが、そういう対象として見ることはありません」
「僕のパートナーになってくれたら、うんと甘やかしてあげるんだけどなぁ」
「残念でしたね、俺はオフィスラブをする気はありません。この話は終わりです。これ以上しつこくするようなら人事に異動の希望を出しますからね」
「あーあ、残念」
そう言って長船はよいしょと立ち上がって秘書室を出ていく。
「社長、どちらへ?」
「ナイショ」
パタリとドアが閉められてから、はあっと息を吐いて長谷部は机に突っ伏した。意図せずにキーボードに触れてしまって画面に「はうkfjんdlm」と意味のない文字が羅列され、まるで長谷部の心のうちを表すようだった。
(……今日もまた口説かれてしまった)
長船は普段は申し分のない気さくでできた上司なのだが、長谷部が一人で残業している時に限ってこういう冗談を言ってくるのである。
あれさえなければいい人なんだが、と指で眉間の皺をごりごりと揉み解す。
(社長、せめてDomでさえなければなぁ……)
長谷部はSubだ。SubとはDomに命令されることで精神的・肉体的充足を得る性である。Normalのサドやマゾとは違い、定期的に命令したりされないと飢餓感を覚えるというのがこの性の厄介なところだった。だから、DomとSubとは欲求を満たすために互いにパートナー関係を結ぶのが一般的だ。そのためのマッチングサイトだって普及している。しかし、長谷部はパートナーを持たないままこの年まで来てしまった。
――Subのくせに選り好みしてんじゃねえよ。
今では顔も覚えていない相手からの言葉が脳裏を過ぎる。まだ思春期だった頃に言われた心無い言葉は、Domへの不信感として未だに棘のように心に深く突き刺さっている。Subとしての飢餓感はずっと抑制剤で胡麻化し続けてなんとかなっているものの、もし長船からそういう欲求不満を見抜かれて口説かれているのなら、いい加減に身を固めるべきなのかもしれない。お互いの為にも。
Domだって悪い奴ばかりではないことは頭ではわかっているのだ。長谷部もいい年だし、そろそろ幼い頃のトラウマを払拭するいいチャンスかもしれない。
「…………よし」
長谷部は書類を保存してパソコンの電源を切ると、ポケットからスマホを取り出して、こっそりとダイナミクス用のマッチングアプリを立ち上げた。
結論から言えば、マッチングは失敗だった。
相手のDomの男と会い、ホテルの一室でおためしとして軽くコマンドを出してもらおうと思ったら、いきなり「”Strip”してみろよ」とベッドに押し倒されたので、セーフワードを叫んで股間を蹴り飛ばして逃げてきた。
(やっぱりDomなんて信用できない)
は、は、と短く息を吐きながらビルの壁に手をつく。今日はマッチングをするからと薬を飲んで来なかった。命令されたい、支配されたいという欲求にぐらぐらと視界が揺れて吐き気がする。
「……ぐ、あ、」
口元を抑えてしゃがみ込む。なんで、どうして自分はSubなのだろう。もしもNormalだったら、いや、せめてDomだったら。こんな苦しい思いはせずに済んだのだろうか。
「長谷部くん?」
その時頭上から降ってきたのは、耳に馴染んだ心地よい低音だった。
「………………しゃちょう」
息も絶え絶えに見上げると、心配そうな顔をした長船が長谷部を見つめていた。
「大丈夫かい?」
「だい、じょぶ、」
「じゃ、ないね。顔が真っ青だよ」
そこで長船は屈みこんで長谷部の耳元に顔を近づけた。
「……もしかして、Subの発作?」
囁かれた質問にこくりと小さく頷きを返すと、長船は長谷部の体をひょいと抱き上げた。
「っ……社長!?」
「つらいかもしれないけど、少し我慢しててね」
そう言って長船が長谷部を運んだのは長船の自宅のマンションだった。「ここが一番近かったから、ごめんね」と謝り、広いリビングの真ん中に鎮座しているソファに長谷部を座らせ、自分もその横に腰を下ろす。
「水はいる?」
首を左右に振る。
「そう……今から少しコマンド出すけど、嫌だったら”NO”って言って」
「…………しゃちょ、」
「”Kneel”」
ぐわんと脳が揺さぶられる感覚がした。全身が命令に従おうとゆるゆると動き始める。自分の意思ではないのに体が動き出すことが、それに多幸感を覚え始めていることが、
「ぁ、やめ……!」
怖い。
言い知れぬ恐怖感で頭がいっぱいになる。
「っ…… “NO” !」
悲鳴のような声でそう叫ぶと、ふっと体が軽くなった。長谷部の肉体を支配していたコマンドの効力が切れたのだ。
――Subのくせに。
――おまえはおとなしく命令に従ってればいいんだよ。
かつて投げつけられた言葉が頭の中に泡のように浮かんでは消える。目の前が狭く暗くなっていき、息が苦しい。
悔しい。悲しい。怖い。苦しい。情けない。つらい。怖い。嫌われるのは、置いて行かれるのはもう嫌だ――!
「長谷部くん、落ち着いて」
あたたかいものに包まれて、耳元で囁かれる。
「ゆっくり息を吸って、吐いて。そう、いい子だね。”Good boy”」
背中をゆっくりとしたリズムでとんとんと叩かれ、指示通りに呼吸をすると、段々と暗闇から意識が覚醒してくる。
「…………ぁ、」
「気がついた?」
自分を包んでいたあたたかいものは、長船の体だった。上司に抱きしめられているという状況に気づいて慌てて体を離そうとしたが、腕に力が入らない。
「Sub dropしかけてたんだよ。無理しないで」
「……サブ、ドロップ」
DomとのプレイでSubが陥るバッドトリップのことだ。今のがそうなのか、と呆然とする頭で思う。
「そう。混乱している君にコマンドを出すだなんて、僕が軽率だった。驚かせてごめんね」
そう言って長船から頭を撫でられると、なんだか体の力が抜けてくる。冷え切った体に段々とぬくもりが戻ってくる心地がした。そんな長谷部の様子を見て、長船がくすりと笑う。
「頭撫でられるの、好き?」
「…………嫌いじゃ、ないです」
「そっか。じゃあいっぱい撫でてあげる」
長船の大きな手が、長谷部の丸い頭を包むように撫でる。
「さっきはよくセーフワードを言えたね。”Good boy”。長谷部くんはいい子だよ」
そうしていい子、いい子と褒められながら頭を撫でられる。自分より年上の男性、しかも上司から小さな子供をあやすようにされて、恥ずかしくていたたまれない。それなのに、どうしようもなく気持ちがいい。
「あ、社長……」
頬に触れた手に思わずすり、と顔を寄せる。
「……ねえ、長谷部くん」
こつん、と額を当てて瞳を覗き込まれる。若い頃の事故でひとつきりになったという、蜜色のうつくしい瞳が、長谷部の視界いっぱいに広がる。そこにはうっとりと顔を紅潮させた自分が映っていて、恥ずかしいのに目が逸らせない。
「僕とおためしでパートナーになってみない?」
「それ、は」
「もちろん、君が嫌だったらいつでも関係を解消してくれて構わない。関係を解消しても、仕事上で君に不当な圧力を加えたりは一切しないって約束する。どうかな」
「…………それは、上司命令ですか」
尋ねると、長船は顔を離し眉を下げ、唇を緩めた。
「まさか。一人のDomとして、君を口説いてるんだ」
長谷部の手を取り、長船はそこにそっと唇を寄せた。
「どうか、僕のパートナーになってください」
懇願するような響きに、長谷部の心臓がとくんと弾む。
長船は信頼できる上司だ。それは今までの仕事上の付き合いでわかっている。ここで断っても業務で長谷部に圧力を加えたりしないということも、きっと本当だろう。
だけど、Domは信用できない。表面はどんなにおとなしそうな顔をしていたって、本性はSubを虐げ支配したいだけのケダモノだ。
信じたい。信じ切れない。
ふたつの想いの狭間で揺れる長谷部の心を駄目押したのは、長船の眼差しだった。まっすぐで力強く、あたたかい色の眼差しが、長谷部をじっと見つめている。
「……僕を、信じてくれ」
低く艶のある声が鼓膜を揺らす。その声に込められたどこか必死な様子に、長谷部の心は決まった。
(…………もう一度、誰かを信じてみたい)
取られた手をゆっくりと、しかしたしかな力で握り返す。
「……よろしくお願いします」
やった、と小さく声をあげ、長船が子供のように笑う。目尻に小さく皺が寄るのを見て、そういえば長船は自分より二十近く年上だったことを思い出す。そんな長船が自分のような若造の一挙手一投足に振り回されているのを見るのは、なんだかとても愉快だった。
「会社では、ただの上司と部下でお願いしますよ」
「わかってるよ。プレイをするのはプライベートな時間のみ。これでいいだろう?」
「はい」
長船はもう一度長谷部の手に口づけた。
「これからよろしくね、長谷部くん」
心から嬉しそうに告げられた言葉に、長谷部は小さく頷きを返したのだった。
Trust my love and kiss me.・1
Trust my love and kiss me.
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