気づけばどろどろと暗くねばついた液体の中でゆらゆらと揺蕩っていた。周りを見渡しても長谷部の他には誰もいない。生温い水中には魚や海藻の影さえない。
なんとなく心細さが先に立ったが、しかしここにいれば誰のことも気にしなくていいのだと思い当たって、長谷部はふっと安堵した。そのまま胎児のように手足を丸めて小さく小さくなろうとする。雑音も他者の姿もないこの液体は、さながら羊水のようだった。安らかな気持ちでうとうととまどろんでいると、水底から濁った虹色の被膜に包まれた泡がゆらゆらと浮かび上がってきて、目の前でぱちんと弾けた。
――Subのくせに生意気なんだよ。
弾けた泡の中からいつか言われたあの言葉が聞こえて、長谷部の唇がきゅっと真横に引き結ばれる。そんなことはない、Subにも人権や意思があって、それを尊重できないDomがクズなだけなのだ――そう心の中で反論していると、そんな長谷部を嘲笑うようにいくつもいくつも泡が立ち上る。
――Domの言うことだけ聞いてりゃいいのに。
――できそこないのSubが生意気に。
――Subのくせに選り好みしてんじゃねえよ。
ぱちんぱちんと泡が弾けては、長谷部を次々に傷つける。
違う。長谷部はぎりりと歯を食いしばる。泡の勢いは止まらない。澱んだ色の不気味な泡が長谷部を包んで離さない。ぼこぼこと立ち上る泡の中で長谷部は叫ぶ。
「違う!!」
そこで、目が覚めた。
全身が汗でべっとりと濡れていて気持ち悪い。まるでまだ夢の海に浸かっているようだった。
部屋の壁にかかっている時計に視線を遣ると、まだ朝の七時だった。カーテンの隙間から零れる朝日が眩しい。
は、と息を吐いて、前髪をかきあげる。馬鹿な夢を、と思う。馬鹿な夢だ、本当に。
自分で選べる筈もない夢に心中で悪態をついていると、枕元のスマートフォンが起床のアラームを鳴らした。液晶にポップアップ画面が開き、今日の予定を告げる。
『社長と会う』
我ながら簡素な文面に思わず苦笑が漏れる。
うーん、と伸びをしてベッドから起き上がる。カーテンを開いて、顔を洗って着替えて、朝食を食べたら出かけよう。着る服は昨夜一時間かけて選んである。今日の予定のことを考えると、悪夢で沈んでいた心がすこしだけ浮上するのを感じる。半ば無理矢理に頭を切り替えることにして、長谷部はカーテンを左右に開いた。白い朝陽がぱっと部屋中に散らばる。
今日は長船とパートナーとして初めて会う日だ。
「おはよう、長谷部くん。こっちこっち」
長谷部が待ち合わせの駅に着くと、改札前に黒のツイードのコートを着た長船が立っていた。会社では見たことのない服装だ。長身で整った顔の長船は周囲から注目の的だった。特に女性陣からの視線がうるさい。ちらちらとこちらに視線をやっては、きゃあきゃあと小声ではしゃいでいる。これだけ顔もファッションもスタイルもいいのだから当然だろう。いつも会社に着ていくのと同じベージュのコート姿の長谷部は内心服装のチョイスを間違ったかと冷や汗をかいた。コートの中身は一応こだわってはみたものの、出合頭でいきなりコートを脱いでファッションアピールをするわけにもいかない。どうしよう。
しかし何はともあれ、挨拶が先だ。
「おはようございます、社長。お待たせしてすみません」
日頃の癖でぴしりと礼をすると、長船は「固いなぁ」と苦笑した。
「一応仮にもパートナーなんだから、せめてプライベートでは社長はやめない?」
「……でも」
「じゃあ、命令。プライベートの時は社長呼びは禁止」
「…………長船さん」
「うーん、もう一声」
「……光忠さん。年上の方を呼び捨てはちょっと抵抗が」
「オーケー、それでいこう」
今日はよろしくね、と光忠が微笑む。それだけできゃあっと周囲から黄色い悲鳴が上がる。今日はこの悲鳴を何度聞くことになるんだろう、と思いながら、長谷部はどうにか口を開いた。
「…………よろしくお願いします」
映画館で映画を見て、ランチをして、そのまま近場の水族館へ。
ベタと言えばベタすぎるデートコースを巡りながら、長谷部は「俺は何をしているんだろう」と思う。
水槽越しにイワシの群れがぎらぎらと鱗を光らせて泳いでいる。旨そうだな、と思う。いやそうじゃなくて。隣をちらりと見れば、光忠は冊子タイプのパンフレットを熱心に眺めていた。
「長谷部くん、二時からイルカショーだって。そろそろ席を取りに行くかい?」
「あ、はい、いえ、」
「どっち?」
くすくすと笑われて、長谷部はなんだか面白くない。すこし唇を曲げながら自分より少し高いところにある長船の顔を見返す。
「あの、しゃ……じゃなかった、光忠さん」
「なんだい」
光忠はゆったりと口に笑みを浮かべている。片手には先ほど売店で買った土産の紙袋が下がっていて、それがスマートな長船をなんだか所帯じみた空気にさせていた。実際人好きのする性格ではあるのは長谷部も重々承知ではあるのだが。
「……あの、これ、必要なんですか。普通にホテルかお互いの家にでも行って、プレイして帰れば、それで済む話なのでは」
「バレたか」
「バレたかじゃないです」
ふふ、と愉快そうに揺らされた肩越しに、大きなマンボウが横切った。
「まあ、必要ないって言えばそうなんだけどね。でも、どうせならお互いのプライベートな顔を見せ合いたいじゃないか。プレイの為にも必要なプロセスだよ」
「……俺、別に普段と変わらないと思うんですが」
「いいや? 今日は貴重な長谷部くんが見られて良かったよ。映画館で泣いたり、手に汗握ったり」
「あれは……!」
反論しようとして、途中でなんだか馬鹿らしくなる。肩をがくりと落として溜め息をつく。
「……光忠さんは、いつもより意地悪です」
「そうかな」
「そうです」
力強く頷くと、光忠はそれすらも可笑しそうに笑ってみせた。真顔が怖いことを気にしていつも笑顔を心掛けるようにしているという光忠は、今日は特に上機嫌なようだ。ずっと楽しそうに笑っている気がする。
「君が望むなら、じゃあ、プレイに移ろうか。知ってると思うけど、僕の家、この近くなんだ。来るかい?」
自分からプレイを望むような発言をしておいて、いきなりそんなことを言われて固まる長谷部を、光忠は安心させるように顔を覗き込んでくる。
「簡単なコマンドからにするし、君が嫌がることは絶対にしない。約束する」
「…………この間のDomにも、同じことを言われました」
それを聞いて光忠は初めて笑みを消した。その瞬間に失言だったと悟った長谷部は慌てて頭を下げる。
「すみません。今の発言は忘れてください」
「…………長谷部くん」
「せっかくご厚意で俺に付き合ってくれてるのに、あまりにも考えなしな発言でした。申し訳ありません」
「長谷部くん」
すこしだけ固い声が長谷部の語尾に発言を被せて来た。静かな低い声が頭上から降ってくる。
「Domのことは嫌いかい」
「…………はい」
「……僕のことは?」
「……………………わかりません」
そっか、とやわらかい声がした。恐る恐る視線を上げると、光忠はいつもの笑みを浮かべている。
「今はそれでいいよ。あと、そうだな、僕に何か嫌なことをされたら、すぐにでも会社のコンプライアンス部門に『社長からセクハラとパワハラを受けました』って報告しておいで。すぐに問題になって、僕は職を失うだろうから」
「……そんな、」
「もちろんそんなことにならないよう気は遣うけど、君はいつでもその選択肢を取れるってこと、覚えておいて」
強くあたたかな眼差しが長谷部に注がれる。胸の奥が、頬が、こころなしか熱い気がする。いたたまれない。
「光忠さん、」
「さて、今日はこのまま帰ろうか。駅まで送るよ」
「光忠さん」
今度は長谷部が光忠を呼ぶ番だった。振り返って不思議そうに首を傾げる光忠に、長谷部は視線を彷徨わせながら口を開いた。
「……あの、ええと」
光忠は辛抱強く長谷部の言葉の続きを待っている。恥ずかしい。居心地が悪い。けれど言わなくては。自分の舌はこんなに重かっただろうか、と思いながらきゅうと胸のあたりを掴む。
「あの。……プレイ、したいです。家に行ってもいいでしょうか」
◆ ◆ ◆ ◆
通されたのはマンションの一室の、広いリビングルームだった。この間はいっぱいいっぱいで全く周りを見る余裕などなかったが、今はあの時よりすこしだけ余裕がある。ソファとテレビと観葉植物の置いてあるシンプルな部屋だった。ほとんどのダイナミクス性を持っている人間の例に違わず、リビングの床はふかふかのラグが敷かれていて、座っても痛くなさそうだった。長船は「とりあえずお茶でも飲むかい」と長谷部にソファを勧めたが、長谷部は首を横に振った。
「……決心が揺らがないうちに、プレイ、しましょう」
光忠はそれを聞いてなんとも言えない顔をしたが、ひとつ息をついた。
「…………嫌だったらすぐにセーフワードを言うんだよ」
“Kneel”、とコマンドが形のいい唇から発せられる。少し抵抗を感じたものの、前回に比べればスムーズな動きで、長谷部は光忠の足下のラグにぺたんと座り込む。
「……大丈夫?」
心配そうな顔をした光忠が長谷部の顔を覗き込んでくる。前に長谷部がSub dropした時のことを思い出しているのだろう。
「大丈夫、です」
「そう、よくできたね、”Good boy”」
革の手袋に包まれた大きな手が長谷部の頭をゆっくりと撫でる。そうされると、体がぽかぽかとあたたかく、頭にもやがかかったような多幸感に包まれる。
「褒められるのは、平気?」
「はい」
こくんと頷く。命令に従ってしまう体には未だ抵抗があるが、こうして褒められるのは素直に気持ちがいい。
長谷部のリラックスした様子に安堵したように息を吐くと、光忠がじゃあ、と口を開いた。
「もうひとつくらいコマンド出そうか。嫌だったらすぐセーフワードを言ってね」
何をされるのだろう。不安で思わず瞳が揺れる。
光忠はそんな長谷部に安心させるように微笑み、両腕を広げてみせた。
「”Hug”」
困惑するよりも前に、体はすっと動いて長船の腕の中に収まった。たくましい背中に腕を回し、厚みのあるあたたかな胸に顔を埋めると、かすかな香水の香りがする。
「……どう? 嫌?」
「嫌、じゃないですけど、」
「けど?」
「…………社長」
「『光忠さん』」
「……光忠さん、なんか、恥ずかしいです」
ふは、と光忠が噴き出し、くつくつと肩を揺らす。
「なんで笑うんですか」
「ふ、いや、ごめんごめん」
ぽんぽんと頭を撫でられて謝罪されたがなんとなく面白くない。
「”Good boy”。ちゃんとコマンド通りにできて、いい子だね。えらいえらい」
「……うー」
面白くないと思うのに、”Good boy”と褒められて頭を撫でられれば強張った心がするすると解けていくような心地がする。
このままだとどこまでも蕩けていきそうな自分が怖くて、長谷部はそっと光忠の胸を押した。
「長谷部くん?」
「”NO”。……今日は、もう嫌です」
「了解」
光忠はそれを聞いてぱっと長谷部から身を離した。温もりが消え、さっと二人の間に冷たい空気が入る。それを寂しいと思ってしまうのだから、どうしようもないと心の中で自嘲する。
そんな長谷部を知ってか知らずか、光忠は長谷部の体を横に避けてソファから立ち上がり、振り返った。
「せっかくだし珈琲でも飲んでいったら? それともこのまま帰るかい?」
「あ、ええと、帰り、ます」
正直、光忠と素面でどんな話をしていいかわからない。なにか口を滑らせて余計なことを言ってしまう前に早く帰りたかった。滞在時間は十五分程度なのは何か申し訳ない気がするけども、それでも。
「駅まで送るよ。そうだ、次はいつにする?」
ハンガーから上着を取って長谷部に手渡しながら光忠が尋ねる。
「ありがとうございます。あの、来週の日曜なら」
「そんなにすぐでいいの? もう少し間を置かなくて大丈夫?」
プレイに不慣れなこちらを気遣ってくれているのだろう。その心遣いが嬉しくて、長谷部は唇を緩めた。
「今日は、その、おかげさまでちょっと調子を掴めたので、この感覚を忘れないうちにと思って」
一瞬目を丸くした長船は、次の瞬間その蜜色の瞳を眩しいものを見るかのように細めた。
「そっか。少しでも君の力になれたなら嬉しいよ」
「そんな、御礼を言うのは俺の方です……!」
Subとしての欲求が満たされているのが自分でもわかる。きちんと節度を守ったプレイをしてくれた光忠には感謝してもしたりない。
慌てて顔の前で両手を振ると、光忠は少しだけ屈んで、内緒話をするように長谷部の耳元に顔を近づけた。
「……ねえ、長谷部くん」
「は、い」
「僕もね、すごく気持ちよかったよ。ありがとう」
低く艶のある声でそう囁かれて、思わず顔が赤くなる。
「え、あ、えと、そう、ですか」
「やっぱり君とは相性がいいみたいだ。次もよろしくね」
「……あの、こちら、こそ」
よろしくお願いします、と頭を下げる。ビジネスマナー研修のお手本のようにきっちり六十度のお辞儀をする長谷部に、光忠は声をあげて笑った。
「あははっ! うん、よろしく」
子供のように朗らかに笑う光忠は、先程までの色気のある雰囲気とは一変している。二年ほど秘書を務めてきたけれど、今朝から会社では見せない光忠の表情ばかり見ている気がする。
(……もっと、この人のことを知りたいだなんて)
そう思うのは贅沢なんだろうか。
唯一答えを知っていそうな光忠は、既にこちらに背を向けて外出の準備をしていた。
Trust my love and kiss me.・2
Trust my love and kiss me.
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