Trust my love and kiss me.・3

Trust my love and kiss me.
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「最近の長谷部さん、いい感じですね」

 突然同僚からそんなことを言われて、長谷部は電気ポットに伸ばした手を止めた。
「いい感じってなんだ」
「そのままの意味ですよ。前は秘書課なんて不服だーって顔で働いてたのに、最近は楽しそう」
「……そう、か?」

 首を傾げながらそのまま給湯ボタンを押す。じゃあっとお湯がマグカップに注がれ、緑茶の香ばしい匂いが部屋に広がっていく。
 長谷部は元々経理志望だった。研修時の面談でもそう答えて、でも実際配属されたのは秘書課だった。不服な気持ちは切り替えて真面目に職務を全うしていたつもりはあったのだけれど、傍から見れば不満が漏れていたらしい。

「そうですよー。大抜擢なのに、なんで俺がこんなところにって顔で働いてて。ちょっと嫌味でしたもん」
「それは……すまなかった」
「長谷部さんそういうところー」

 真面目に答えたのに、何故だかけらけらと笑われてしまう。
「長谷部さんって社長にあんまり遠慮しないし、社長も同性だからか話しやすいみたいだし、私は長谷部さんがいてくれて助かってるですよ。ほら、社長、顔が良すぎてちょっと話しかけづらいじゃないですか」
「……別に、顔はいいけど普通の人だろ」
 マグカップの中でティーバッグを何度か上下させていると、同僚は隣で「くそー、長谷部さんも何気に美形だからなー!」と口を尖らせていた。意味がわからない。顔の美醜なんて仕事には関係ないと思うのだが、と自分のマグカップに口をつけた瞬間、

「なになに? 僕の悪口かい?」

 後ろから聞こえてきた声に息が止まる。室内の同僚たちが次々に立ち上がり、「社長、おかえりなさい」と挨拶をしていく。驚いた拍子にお茶が気管の変なところに入って涙目で噎せていると、驚きの張本人が何食わぬ顔で「大丈夫?」と背中をぽんぽんと叩いてくる。

「っ……い、いきなり驚かせないでください!」
「ごめんね、こんなにびっくりされると思ってなくて」

 殊勝な態度でそんなことを言われるとそれ以上文句も言えない。長谷部は「……次から気をつけてください」と言って、けほ、と咳をした。光忠はそれを見て苦笑すると、「そういえば」と手に持っていた紙袋を渡してきた。
「外出ついでに、秘書室のみんなにお土産があるんだ。良かったら食べてくれ」
 わあ、と途端に部屋中が色めき立つ。

「社長、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
「こちらこそいつもありがとう。助かってるよ」

 にっこり笑ってそう言うと、光忠は社長室に消えていった。手の中に残された紙袋と社長室の扉を見比べていると、同僚達が集まってきた。
「それ、〇〇のクッキーじゃないですか!」
「あのいっつも並んでるところだよね」
「美味しそう!」
「長谷部さん、私配りますねー」
 あっという間に長谷部の手から紙袋は消え、代わりに長谷部の分のクッキーが机の上に乗せられる。驚くべき手際の良さだ。
「社長、毎回こういう個包装のお土産配ってくれるの、ありがたいよね」
「この間の水族館のマドレーヌとかね」
 水族館、と聞いて一瞬どきりとした。動揺をなるべく顔に出さないようにしてクッキーの包みをぴりっと開ける。

「誰と行ったんだろう。彼女かな」
「社長、Domでしょ? ダイナミクスのパートナーかもよ」
「えーじゃあ、男性って可能性もあるのか」
「若い頃は結構遊んでたって噂だしね」
「ほらみんな、そろそろ仕事に戻ってー」
 一番の古株秘書の注意に皆が渋々と自席に戻っていく中、長谷部は内心ほっとしてもう一口クッキーを齧る。

(…………パートナー、か)

 あれから何度かプライベートでパートナーとして顔を合わせているけれど、特に何か変わったことはない。光忠は節度を守って”Kneel”や”Hug”等の簡単なコマンドを出してはよくできましたと長谷部を誉めた。誉めるだけで、強引に手を出すことはしない。長谷部のSubとしての欲求はそれで大分収まっていたし、特段不満はないのだけれど。

(社長は、満足なんだろうか)

 光忠が若い頃はそれなりに浮名を流していたというのは聞いたことがある。本人に直接確かめたことはないが、まあモテて当然だろうな、とは思う。細かい気配りが上手だと社内でも評判だし、スタイルも顔も整っている。今でこそ落ち着いて品のある、ダンディな大人の男という感じではあるが、若い頃はそれはもう華やかな、いわゆるイケメンだったことは想像に難くない。だからこそわからない。

(どうして俺なんだろう)

 “Hug”と”Kneel”で満足してるなんて、きっと痩せ我慢に違いないのに。こんな面倒なSubのことなど、放っておけばいいのに。
 ざくざくと奥歯でクッキーを噛みしめる。バターの豊かな香りと、キャラメルの甘味が口の中に広がっていくのを、苦い緑茶で喉の奥にぐびりと流し込んだ。


「どうしたの? 食事、口に合わなかったかな」
 声をかけられてはっと我に返る。
 今は会社から帰宅後、光忠と待ち合わせて光忠の自宅で手料理をご馳走になるという、数か月前の自分が聞いたら卒倒しそうなおもてなしフルコースを味わっているところである。
「いえ、その、全部美味しいです……!」
 その言葉に嘘はなかった。いかにもという小洒落た横文字の料理を好みそうな光忠は、蓋を開けてみれば案外一般的な和食を出してきたので、長谷部は驚いたのだ。

 イカと里芋の煮物に、鯖の塩焼き、青梗菜の辛子和え。「この年になるとこういうのが恋しくなるんだよねぇ」と笑いながら手早く調理し、「せっかくだから飲むかい?」と日本酒も出してきた。
 一応今はプライベートとはいえ曲がりなりにも上司の前でいつものペースで飲むわけにもいかず、ちびちびと辛口の日本酒に口をつけながら煮物に箸を伸ばす。

「あの、この煮物もすごく美味しくて、」
「……僕には、話せないことかな」

 悲し気に長い睫毛を伏せる光忠に、長谷部は慌ててぶんぶんと顔を横に振る。
「いえ! あの! 社長!」
「光忠さん、だよ」
「光忠さん、俺、あの、そんなつもりじゃなくて」

 なにしろ悩みといえば目の前の光忠本人のことなのだ。自分とのプレイに満足してるのか、どうして自分を選んだのか、だなんて。どう話したものか必死に考えあぐねていると、光忠がまっすぐな眼差しで長谷部を見つめてくる。
「……パートナーを解消したいというなら、遠慮せずに言ってほしい。君に無理強いをしたくはないんだ」
「違います!!」

 思っていたよりも大きな声が出てしまい、長谷部も光忠も目を丸くした。気まずくて視線を泳がせながら、どうにか続きを口にする。
「あの、違うんです。光忠さんに不満があるとかではなく……」
「ではなく?」
「…………その、光忠さんが不満なんじゃないかと」
「僕?」
 こくりと頷いてから箸を置き、空いた両手を膝の上でぐっと握りしめる。

「Domって、その、おしおきとか、そういうのも好きでしょう。”Kneel”とか”Hug”とか、簡単なコマンドを出すだけで、光忠さんが満足できてるとは思えなくて」
「……簡単じゃないコマンドって、たとえば?」
「………… “Strip”とか、”Present”とか」

 次第に声が小さくなるのが自分でもわかる。”Strip”も”Present”も、長谷部の苦手なコマンドだ。無理矢理に命じられて押さえつけらた記憶が蘇り、息苦しくなる。自分を苦しめてきたDom達と、光忠は違う。そう思いたいのに、嫌な記憶というのは不規則に泡のように浮き上がっては長谷部を苦しめる。光忠もDomで、いつか手のひらを返して自分を苛むのではないかと、疑う自分がたしかにいるのだ。こんなに親切にしてもらっていても、尚。

「長谷部くんは、そういうコマンド出されるのは嫌?」
「…………光忠さんが望むなら、応えたいとは思います。でも、」
「怖い?」
 顔を縦に動かすと、光忠もかちゃりと箸を置いた。ダイニングチェアを後ろに下げて光忠が立ち上がる。
「長谷部くん、」
 思わずびくりと震えた長谷部を安心させるように、光忠は長谷部の横に跪いて、握りしめられた長谷部の拳に手を重ねた。
「君が嫌がることはしないよ」
 力を入れすぎて青い静脈の浮く長谷部の手を、労わるように光忠が撫でる。
「……Domが、ごめんね」
「みつ、」
「僕が謝ってもどうにもならないだろうけど、でも、ごめん。僕と同じDomが君を傷つけたこと、とても心苦しく思っている」

 光忠の瞳はどこまでも真摯な色を宿していて、見つめていると何故だかきゅうと胸が締め付けられる。
「僕は君の傷に寄り添いたい。君の側にいたい。許されるなら、ずっと。長谷部くん、僕はね」
 そこで、光忠は苦し気に微笑んだ。
「君のことが好きなんだ」
「えっ」
 予想だにしていなかった言葉に、思わず声が裏返ってしまう。
「えっ、て、君今まで僕のことなんだと思ってたんだい? いくら僕でも、好きでもない子にここまでしないよ」
「いやだって、え、えええ」

 髪をぐしゃりとかき混ぜる。顔が熱い。今までのあれもこれもそれも、恋情を孕んでいたものだったなんて考えもしていなかったから、今更そんなことを言われても困る。とても困る。
「答えは今すぐにとは言わない。でも、覚えていてほしい。僕は君を、とてもいとおしく思っている」
 重ねられた手を引かれ、懇願するように手の甲に口づけをされる。その気になればすぐにでも長谷部を跪かせることのできる男が、まるで許しを請うように長谷部の前で膝をついている。

「あ、の、光忠さん」
「うん」
「……今日は、一旦持ち戻ってもいいでしょうか……?」

 重くなる舌をどうにかこうにか動かして告げる。我ながら情けなくて涙が出そうだ。しかし光忠は「いいよ」と鷹揚に笑って見せた。
「こんな雰囲気じゃプレイに移るのも難しいだろうしね。君が苦でないなら、今日はこれでおしまいにしよう」
「……ありがとう、ございます」

 そこからばたばたと慌ただしく後片付けをして、光忠のマンションを後にする頃には、既に二十一時近くなっていた。もう何度か通った道だったので、送迎は遠慮して、長谷部は白い息を吐きながら街灯がまばらに光る夜道をとぼとぼと歩いた。駅から帰宅する人影とすれ違い歩きながら、考える。

 ――君のことが好きなんだ。

 今まで自分に向けられてきた光忠の行為の数々を思い出す。残業中に缶コーヒーを差し入れられたことなどの些細な出来事や、Sub dropに陥った時に介抱してくれたこと、今まで自分のプレイに付き合ってくれたこと。どれもそれも、言われてみれば好意が籠っているものとしか思えなくて。

「うわ…………」

 頭を抱えてその場にしゃがみ込む長谷部を、仕事帰りと思しきサラリーマン達が迷惑そうに避けていく。申し訳ないと頭の片隅で思いつつも、今の長谷部には自分のことで手一杯だった。
「……どうしよう……」
 困る。非常に困る。

 あああああ、と頭をがしがしとかき回す。犬の散歩中らしきご婦人がこちらを怪訝そうに見ているが知ったこっちゃない。
 光忠に好かれて、嫌じゃないと思ってしまった。
 その意味を考えれば考えるほど泥沼に嵌まっていくようで、居ても立っても居られない。長谷部はのろのろとスマートフォンを取り出して、真っ先に思いついた相手に電話をかけた。

「…………おい、今から飲むぞ。付き合え」

 文句を言う相手を黙殺して通話を切り、一方的に待ち合わせ場所を送る。
 飲もう。飲むしかない。いっそもう何も考えられないほど、浴びるほど飲もう。
 ネクタイを緩めながら立ち上がり、よろよろと目的地へ歩き出す。
 好きだよ、と祈るような声が再び脳裏を過りかけたが、ぶるぶると頭を左右に振って霧散させる。

 それが逃避だと内心気づいてはいたが、長谷部にはもうその選択肢しか選べなかった。

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