Trust my love and kiss me.・4

Trust my love and kiss me.
      3896文字

「…………あ゛ー、」

 声を出すとひび割れた声が喉から漏れた。完全に酒で喉が焼けている。頭の中で銅鑼が鳴り響いているようにガンガンと痛む。胃が重い。
 完全に二日酔いの症状の体を引きずりながら冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、ぐびぐびと一気に飲み干した。ぷは、と口元を拭い、空いたペットボトル容器をゴミ箱に捨てる。

 ぼんやりと重い頭の中に、『君のことが好きなんだ』の言葉と共に光忠の笑顔が浮かぶ。それと共に連鎖的に昨日のことを思い出してしまい、長谷部は乱れた髪をさらにぐしゃぐしゃとかき回した。

「……あああああ」

 全然忘れられていない。それどころか”Hug”を命じられて抱きついた時の光忠の体温や香水の香りまで思い出してしまって、状況はさらに悪くなっている気がする。
 思わず皺の寄る眉間をぐりぐりと揉み解し、昨夜の無精髭の従兄との会話を思い出す。


「嫌じゃないなら付き合っちまえばいいじゃねえか」
「それができたら苦労はしない」
「お前さんのDom嫌いも筋金入りだよなぁ」
 難儀だねぇ、とぼやきながらお猪口を傾ける従兄の手から徳利を奪い、自分のグラスにどぼどぼと注ぐ。お猪口で飲むペースなど生温い。そのままぐびりと水のように飲み干し、追加の酒を頼む。

「あーあーあー、せっかくの純米大吟醸が」
「酒は飲むためにあるんだ」
「飲まれてる奴の台詞じゃあねえなあ……おい、その辺にしとけって」
「うるさい」


 結局あの後居酒屋で従兄相手にひたすら酒を飲みクダを巻き、帰り際にタクシーに放り込まれたところまでは覚えている。

(……あの醜態を社長が見たら百年の恋も一発で冷めるだろうな)

 そんなことを自嘲しながら、長谷部はもう一本水のペットボトルを出し、半分まで飲み干した。
「…………とりあえずシャワー浴びるか」
 ううん、と伸びをすると体のあちこちがバキバキと音を立てた。これはひどい。今日が休日で良かった。くしゃくしゃになったスーツはクリーニングに出すことにして、すっかり充電の切れていたスマートフォンを充電器に繋ぐ。そのまま電源を入れると液晶画面がパッと明るくなり、そこに並んだ通知を見て、長谷部は「うわ」と声を上げた。光忠から何件か着信が入っていた。
 慌ててトーク画面を開いて、届いていたメッセージを見て愕然とする。

『社員証家に忘れてるけど、大丈夫かい?』

 大丈夫ではない。
 長谷部の所属する秘書室は社員証がなければ入室できないし、出退勤を社員証で管理しているのだ。しかも、これは秘書の長谷部だから知っているのだが、月曜から長船は地方の会議に出るためしばらく出張だ。長谷部は居残り組で、そうなると社員証を受け取れるのは今日か明日しかない。それを知っているからこそ、光忠もわざわざ電話をかけて来たのだろう。

「やばい」
 反射的に『すぐ取りに伺います』と連絡してしまってから、昨日のやりとりを思い出し再び口から呻き声が漏れる。昨日の今日でどんな顔をして会えばいいのだ。こうなったらメッセージを取り消そうか、いやでも、と液晶画面の上で指を彷徨わせている間に既読のマークがついてしまった。
『良かったら僕がそっちに行くよ。○○駅まででいいかい?』
 後戻りはもうできない。


 急いで身支度を調えて家を出る頃には正午になっていた。太陽の光が目に痛い。
 長身の光忠の姿はすぐに見つかった。駅前広場の時計台の近くに立っている上司の姿に急いで駆け寄る。
「しゃ……光忠さん、」
「ああ、長谷部くん。こんにちは」
「こんにちは!! あの、ご足労おかけしてすみません!」
 深々と礼をすると、苦笑が返ってくる。
「いやいや、ないと困るものだしね。……長谷部くん、もしかして具合悪い?」
 枯れ気味の喉のことを言われているのだと気づいて、内心びくりとする。一応来る前に歯を磨いてミントタブレットを噛んでは来たものの、昨日別れた後に飲んだくれて二日酔いで倒れていたなどと、まかり間違ってもこの優しい光忠に知られるわけにはいかない。

「……ちょっと、今朝から風邪気味で」
「大丈夫かい? ひどくなるようならきちんと病院に行くんだよ」
「はい」
 とりあえずは誤魔化せたらしい。光忠は「約束だからね」と念を押してから青いネックストラップのついた社員証を握らせてきた。
「はい、社員証。今日渡せて良かったよ。じゃあ僕はこれで」
 そのまま踵を返して帰ろうとする背中に長谷部は慌てた声をかける。

「あの!」
「なんだい?」
 不思議そうに振り返る光忠に、泳ぎそうになる視線をどうにか定めながら口を開いた。
「……その、せめてもの御礼に食事でも一緒に、どう、でしょう、か」
 後半につれて尻すぼみになっていく言葉にふっと微笑まれて、長谷部の頭にやわらかく手が置かれる。
「ありがとう。でも、昨日の今日だし、君も心の整理がついてないだろう。デートはまた今度にしよう」
 そのままぽんぽんとあやすように撫でられ、手袋に包まれた右手が離れていく。

「月曜からは出張だから、また来週の土曜にでも会えるかな」
「……はい」
「良かった。じゃあまたね」
 そう言い残して光忠は今度は振り返らずにまっすぐ帰っていく。遠ざかる背中から何故だか目が離せなくて、長谷部は社員証を握りしめたまましばらくその場に立ち竦んでいた。


 それから一週間は散々だった。書類の記入ミスは連発するし、電話応対で噛みまくるし、来客の名前も間違えた。金曜日にはとうとう周りから「早く帰って休んだ方がいい」と心配され、定時ぴったりに帰らされることとなった。
「はあ……」
 退勤中の人の波の中をとぼとぼと歩く。どことなく皆が浮かれた雰囲気を漂わせているのは、土日休みの社会人達だろうか。華の金曜日、という言葉が頭に浮かび、今の自分の状況を振り返り、もう一度深い深い溜め息をつく。

(…………あの人が、あんなことを言うから)

 だから自分は動揺してしまって、それで。――それで?
 ぴた、と足が止まる。急に立ち止まった長谷部に、後ろにいたサラリーマンが舌打ちしながら追い抜いて行った。
 自分がどうしたいのか、どうするべきなのか。自分自身のことだというのに長谷部にはちっともわからない。

 光忠のことを好きかと聞かれると、嫌いじゃないと思う。それくらいの情は沸いている。上司として尊敬もしている。でも、光忠はDomだ。Domに心を委ねるのは、怖い。また裏切られたら、捨てられたらと思うと足が竦む。その恐れは長谷部の心の深いところに根を張っていて、もはや長谷部の一部ですらあった。

(せめて、俺がSubでなければ)

 けれど、きっと長谷部がSubでなければ、光忠は長谷部に興味を持たなかっただろう。光忠がDomでなければ、とも考える。それでも結論は同じだった。光忠がDomで、長谷部がSubでなければ、光忠はきっと長谷部に見向きもしなかっただろう。自分自身にそれ以上の価値や意味があるとは思えない。

 光忠は、優しい。見た目も整っていて、気遣いもできる。地位や名声だって持っている。そんな光忠が自分に惚れている、なんて、実は全部自分に都合のいい夢なのじゃあないだろうか。未だに信じられない。本当の長谷部はまだ自宅のベッドで寝ていて、起きると全部夢で、光忠はただの上司だったりしないだろうか。会社で挨拶して、たまにお土産を貰って、それで光忠は別のパートナーと、
 ずきん、と胸が痛む。

 ――長谷部くん、”Kneel”。
 ――よくできたね、”Good boy”。

 光忠がその低くて甘い声でコマンドを出し、大きくて優しい手で他の誰かの頭を撫でるのを想像したら胸がしくしくと痛んだ。

(……それは、嫌だ)

 そんな自分を浅ましいとも思う。Domを嫌っているくせに、信じ切ることができないくせに、一人前に独占欲が沸くだなんて。
 唇を噛みしめる。じわ、と口の中に鉄錆の味が広がっていく。鼻の奥がつんとして、視界がじわじわと滲んだ。あ、駄目だ。泣く。
 そんな時、ポケットの中でスマートフォンがぶるぶると震えた。のろのろとした動きで取り出して画面を開くと、光忠からメッセージが届いていた。

『ただいま』
『さっき出張から戻りました。これは出張先で見かけた猫ちゃんです』

 そんなメッセージと共に猫の写真が送られてくる。三毛猫がポストの上で目を細めて丸くなっている写真で、そんな写真が角度を変えて何ショットか届く。急にどうしたんだろう、と思っているとメッセージが続いた。

『僕はこれですごく癒やされたから、君にもと思って』
『今週調子が悪くて、今日はすぐ帰ったって聞いたよ。無理しないで、今日は早く休んでね』 『不調が長引きそうなら、明日の予定も断ってくれていいから』

 おやすみ、と書かれたスタンプが送られて来て、そこでメッセージは止まった。
 一旦は治まっていた涙が再びじんわりと溢れてきて、慌ててコートの袖口で目元を拭う。
 光忠に会いたい、と思った。それだけが薄暗い霧に包まれたような長谷部の心の中で、ただひとつ輝く道しるべのようだった。
 会いたいです、と言葉を打ち込みかけて、少し迷ってから削除した。その代わりに別の言葉を打ち込む。

『出張お疲れ様です。心配してくださってありがとうございます。俺は大丈夫です』
『明日、会いましょう。待ってます』

 すぐに既読がついて、『了解です』と短いメッセージが返って来た。思わずほ、と息を吐く。
 スマートフォンをしまい直し、知らず力の入っていた肩をぐりぐりと回す。ぱちんと両頬を叩いて、よし、と気合いを入れて再び歩き出す。
 重かった足が、少しだけ軽くなった気がした。

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