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「シートベルト忘れるなよ」
「わかってるよ」
「嫌いだからって、つけた後抜け出すのもなしだぞ」
「ちっちゃい頃の話はやめてってば」
僕がむっとして唇を尖らせると、運転席の長谷部くんは「ははっ」と愉快気に声を上げた。
「あんなに小さかったのにもう高校生か」
「もう、早く出発してよ」
頭を撫でてこようとする長谷部くんの手を振り払うと、長谷部くんは残念そうに肩を竦め、無言でハンドブレーキを下ろしてギアをドライブに入れた。
長谷部くんが社会人になる時に買った中古の軽自動車は、踏まれたアクセルを合図に低い唸り声を立てながら出発する。僕は念願だった運転席の隣に座れたにも関わらず、なんとなく面白くなくて冷たい窓ガラスに頬をつけて外の景色を眺めていた。
「助手席の乗り心地はどうだ?」
「……まあまあ」
「せっかくの誕生日プレゼントなんだぞ、楽しんでくれよ。そうだ、何か音楽とか聴くか? 好きなのかけていいぞ」
そう言って長谷部くんは僕に携帯音楽プレーヤーを渡してくる。使い込まれたプレーヤーには僕が好きな曲が既に何曲も入っていて、こういうさりげない気遣いにも大人の余裕を感じてしまう。
今日は僕の十六歳の誕生日だった。これでやっと少しは大人になったかと思ったのに、この九歳上の幼馴染と来たら、ご覧の有様である。こうやって僕のことをいつまでも子供扱いしてくる。悔しい。そう、悔しいのだ、僕は。
僕は長谷部くんにもうかれこれ十年以上片思いをしている。僕が三歳の時に隣に越して来たという長谷部くんは、小さい僕とよく遊んでくれて、まるで弟のように慈しんでくれた。綺麗で優しくて強くてかっこいい長谷部くんに僕はずっと夢中だった。
◆ ◆ ◆
「僕、長谷部くんとケッコンする!」
本気でそう告げる幼い僕に、長谷部くんはいつも苦笑を浮かべ「そういうことは大人になってから言え」とトンと人差し指で額を小突いてきたものだった。
しかし、僕が五歳、十歳、十五歳を迎えてもそのやりとりが続いてくると、長谷部くんもなんとなく危機感を覚え始めたらしい。
「おまえ、彼女とかいないのか」
「いないよ。僕、長谷部くん一筋だから」
「……光忠。おまえ、俺のことが好きなのか」
「好きだよ」
出会ってから何度も飽きるほど繰り返してきた言葉が、その時ようやく長谷部くんに届いた実感があった。
「長谷部くん、好きだよ。僕と結婚して」
澄み切った藤色の瞳が一瞬だけきらりと光ったけれど、それは瞬きと共に消えてしまった。長谷部くんはひとつ溜め息をついて、僕の肩をとんと小突くように叩いた。
「俺はやめとけ。……社会に出たら、俺以上の奴なんていくらでも見つかる」
「そんなの、」
「頼むよ、光忠。その時になって『やっぱりナシ』だなんてフられたら、俺はもう立ち直れない」
長谷部くんの声がかすかに震えているのに気づいて、僕は肩に置かれた手にそっと自分の手を重ねた。
「言わないよ。十年後も二十年後も、僕は絶対長谷部くんが好きだ」
「…………若いなぁ」
泣き崩れる寸前みたいな顔で笑った長谷部くんのその言葉が、今も僕の心に棘のように突き刺さっている。
◆ ◆ ◆
好きな歌手のプレイリストを選ぶと、落ち着いたバラードの曲がスピーカーから流れ始めた。
軽自動車の中、長い手足を窮屈そうに収めながら、長谷部くんはすいすいと器用に車の波に乗っている。
――誕生日は、助手席に乗ってドライブしたい。長谷部くんの運転で。
数日前の僕のリクエストに、長谷部くんは目を丸くした。就職の為に免許を取った長谷部くんは、僕をなかなかドライブにはつれて行ってくれなかった。渋る長谷部くんを必死に拝み倒して、最近になってようやく車に乗せてもらえるようになったものの、それでも助手席だけは頑として乗せてはくれなかった。
不思議に思った理由を問えば、長谷部くんはすっと僕から視線を逸らしてきまり悪そうにぽつりと零した。
「交通事故での死亡率が一番高いのは助手席らしいぞ」
「……心配してくれてるの?」
「するだろ。大事な幼馴染だ」
幼馴染の部分だけ都合よく聞き流して、僕は長谷部くんの手を握って、まだ少しだけ上にある長谷部くんの目をまっすぐに見つめた。
「僕、絶対死なないから。だから、」
「……せめて義務教育終わってからな。それまでに、俺ももうちょっと運転の練習しておく」
そういうやり取りをしたのが半年前。満を持しての僕のお願いに、長谷部くんがとうとう観念したように頷いたのが先週。それからの今日である。
僕はちらりと横目で長谷部くんを見る。ラフなポロシャツとパンツ姿で華麗に車を運転する長谷部くんはどこからどう見ても「大人の男」というやつで、隣の僕も思わずドキドキする。僕も、あと十年もすればこんな風になれるのだろうか。
かけていた曲がサビに入った。覚えのある歌詞に僕も思わずメロディを口ずさむ。
「『これが愛じゃなければなんと呼ぶのか、僕は知らなかった』――」
そう歌っていると、不意に長谷部くんがこちらに視線を寄越した。
「……おまえ、それ無意識か?」
「え、何が?」
「友達の前でやるなよ、そういうの」
「だから何が?」
それ以上長谷部くんは何も言わずに運転に集中しだした。どうやらこれ以上教えてくれるつもりはないらしい。仕方なく僕も話題を変えることにする。
学校での話、部活の話、塾であった面白いこと。僕が話すことを長谷部くんは時折相槌を打ちながら静かに聞いてくれる。そうして僕の話題がいい加減尽きてきた頃には、僕たちの乗る車は目的地まで残り数キロのところまで近づいていた。
「そういえば、長谷部くんは高校ではどんな感じだったの?」
「そうだな。俺は――」
そうして今度は長谷部くんがぽつりぽつりと自分のことを話してくれる。幼馴染の僕たちには共通の話題も多いけど、年齢が離れている分、知らないことも結構ある。長谷部くんが高校の文化祭でシスターの格好をしてミスコンに出たという話を聞いた時には、僕は思わず「それ初めて聞いたけど!?」と声を荒げてしまった。
「何それ! 見たい! 写真ないの?」
「全部処分した」
「そんな……世界的損失すぎる……」
「大袈裟だな」
そこからさらに十分ほどして、車はようやく目的地へと到着した。海沿いにある大きな公園だ。
くるくるとハンドルを回しながら長谷部くんが一発で駐車を決めるのに感心して見惚れていると、「どうした? 降りないのか?」と不思議そうな顔をされた。
「ううん、なんでもない」
慌ててシートベルトを外してドアを開けると、ほんのりと磯の香りのする風が頬を撫でた。やわらかな春の日差しをきらきらと弾き、水平線までずっと海が続いていく。
「海だ」
「海だな」
「綺麗だよね」
「ああ」
長谷部くんが眩しそうに目を細める。さりげなく隣に並んでみると、長谷部くんの目線はもう僕と同じくらいのところにあった。
「ねえ、長谷部くん」
一年前振られて以来、口にしてなかった言葉を久しぶりに口にする。
「好きだよ」
ゆっくりと長谷部くんがこちらに顔を向けた。ざざ、ざ、と遠くに波の音がする。
「君のことが好きだ」
しなやかな指を絡めとるようにして握ると、長谷部くんの唇が何か言おうとわなないた。そこから漏れる声を聞き漏らすまいと意気込んだ、その瞬間。
ぐう、と僕の腹の音が鳴った。
「っく、ふ、はは、は!」
肩を震わせて笑いだす長谷部くんの隣、僕は手で顔を覆っていた。人生で一番かっこつけたこのタイミングで腹が鳴るなんて、なんたる無様。僕はいまきっと人類でトップクラスのかっこ悪さだ。
思わずその場にしゃがみ込んで項垂れていると、そんな僕を慰めるように長谷部くんがぽんぽんと頭を撫でた。
「そこにカフェがあるから、なんか食うか」
「長谷部くん、違う、あの、違うんだ。やり直しさせて。やり直し。お願い」
「はいはい、メシ食ってからな」
聞き分けの悪い子供にするように僕を立たせると、長谷部くんは僕の腕を掴んでぐいぐいと歩いて行く。
「長谷部くん!」
「――――――――俺も好きだよ」
波の音にかき消されそうなくらい小さな声を、僕は聞き逃さなかった。触れている手のひらが熱い。前を行く長谷部くんの髪から覗く耳がたしかに赤くなっている。
「ねえ、よく聞こえなかった。もう一回言って?」
「さあな。何かの聞き間違いじゃないか?」
「もー!」
そんなことを言い合いながら、じゃれあうように海沿いの遊歩道を歩く。
僕は、僕らは、着実に追いついている。そう感じながら。
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