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夏は嫌いだ。
まず暑いのが嫌だ。汗ばんでじっとり張り付くシャツの感触の不快さと来たら筆舌に尽くしがたいし、通勤のための満員電車で他人のじめっと湿った肌に触れるのも不愉快だ。
かと思えば、一歩電車や屋内に入れば極寒の冷房が俺を待ち受けている。汗で濡れた服が一気に冷えて体温を奪う、あの瞬間。世間というものは室内外の温度差で俺を殺そうとしているのではないかと疑いたくなる。
蝉の声も好きではない。夏の夕暮れに鳴くひぐらしの声ならばともかく、ミンミンジイジイとうるさいアブラゼミだかクマゼミだかの声は耳障りで体感温度を上げる一助となっている。
そういうわけで、俺は夏が嫌いだ。毎年この時期は一日でも早くこの鬱陶しい季節が過ぎることを祈って日々を過ごしている。
だというのに。
「長谷部くん、次はあれ乗ろうよ」
俺は今、真夏の遊園地で男子高校生とデートしている。
◆ ◆ ◆ ◆
織田探偵事務所というのが俺の職場だ。俺の職業はいわゆる探偵というものである。
探偵といっても大抵は不倫疑惑による素行調査や行方不明のペット探しが業務の大半で、殺人現場で警察の見つけられなかった証拠を発見し隠された真実を暴くなんてことはない。
だから、その日の依頼もそんなもののひとつだと思っていた。
「家出人探し?」
「そうだ。とある金持ちの息子が家出してもう三日経つそうだ。警察沙汰にはしたくないそうで、うちに依頼が来た」
俺は渡された書類と写真を受け取ってざっと目を通す。長船光忠、十七歳。現在は高校ニ年生。
モデルかと見まごうばかりに整った顔をしている男の写真をテーブルに置き、俺は汗をかいたグラスを手に取り麦茶を一気に飲み干した。
おかわりを頼もうと周りを見渡したが、全員が忙しそうに机に齧りついているか外回りに行っているかで、とても頼めそうな状況ではない。ただでさえ最近事務員が一人辞めて人手が足りないのだ。俺はおかわりを頼むことを諦めてグラスをテーブルに戻した。
「頼めるな?」
上司から直々にそう言われて断れるものではない。俺は「ええ、承知しました」と内心の面倒臭さを押し殺して頷いた。
窓の外では暴力的な太陽光の中、大嫌いな蝉がジイジイと鳴いていた。
そうして俺は目立たないように簡単な変装をして夏真っ盛りの街を歩いていた。瞳の色を隠すためだけの、度の入っていない眼鏡が汗でずり下がってくるのを時折直しつつ、対象の友人の家の近辺やよく行っていた場所などを探索する。
絡みつくような熱気をかき分けるようにして進む俺の隣を、夏休み中と思しき小学生たちが駆け抜けていった。いつの世も子供は元気だ。
しかし、対象はどこにいるんだ。俺はハンカチで汗を拭きながらため息をついた。息をする度に肺が焼けるような心地がする。
対象を見つけて連れ戻すのが俺の仕事だ。あの写真の男が両親とどんな確執があって家を飛び出たのかは知らないが、すぐ両親に見つかりそうな場所にはいまい。
かといって、話を聞く限り箱入りのボンボンがこの三日をたった一人で生き抜いているとは思えない。絶対に協力者なりなんなりがいるはずで、対象はその協力者の家の近辺にいるに違いない。この暑さからするに、下手をすると冷房を効かせた協力者の家に引きこもっている可能性もある。そうなると捜索は難航を極めてしまう。
俺は一度事務所に戻って対象の交友関係を洗い直そうと踵を返すと、ドン、と後ろにいた集団とぶつかった。すみません、と言って中心にいた人物の顔を見上げて、俺はあんぐりと口を開けた。
「…………『長船光忠』?」
やばい、という顔をして逃げようとする青年の腕を掴んで引き寄せる。反射神経には自信があるのだ。
「光忠くん、何この人?」
「誰? 知り合い?」
連れ立って歩いていた女達が騒ぐのを無視して、俺は光忠とやらの肩をがしっと掴んで顔を覗き込んだ。
「おまえの両親から捜索を依頼された者だ。さあ、家に帰るぞ」
「嫌だよ! まだ家には帰らない!」
「親に食わせてもらってる身分で何言ってるんだ! おまえ高校生だろうが! 大人しく家で宿題やってろ!」
「……高校生? さっき大学生って……」
怪訝な顔をして成り行きを見守っていた女に俺は真実を告げてやる。
「こいつは正真正銘の十七歳だ。淫行条例でしょっぴかれたくなかったら、とっとと別れるんだな」
俺の一言で周りにいた集団がさあっと引くのがわかった。口々に別れの言葉を口にしながら女達は立ち去り、その場に残されたのは俺と光忠の二人だけになった。
「あーあ……せっかくナンパしたのに」
「知るか。とっとと帰るぞ」
「じゃあ、お兄さん代わりに僕に付き合ってよ」
「はあ!?」
何を言ってるんだこいつ、と振り返ると光忠は眉を下げてお願い、と両手を合わせた。
「家に帰ったらどうせまた軟禁状態で部屋から出してもらえなくなるんだ。可哀想な男子高校生に一夏の思い出を作らせてよ」
俺よりもでかい図体をしておいて甘えるような仕草に、正直に言おう、俺はすこしばかりぐらついてしまった。元々俺は犬、しかも大型犬が好きなのだ。
「ね、お願い!」
そうして俺は俺よりも高い目線から上目遣いをするという器用な真似をしてみせるあざとい男子高校生に渋々白旗を上げたのだった。
都心から電車で一時間ほど、海に囲まれた島の中にそのテーマパークはあった。都心の熱風とも言うべきビル風と照り返しに比べると、海風の吹くこの辺りはまだ不快指数が低かった。
「どうせなら少しでも遠出したい」「水族館とか遊園地とか海とかなんかそういう夏っぽいところがいい」というクソガキの我儘、もとい意見を最大限考慮した結果のチョイスである。ここには水族館も遊園地もあるし、周りは海だ。あまり来たことはないがパラダイスとつく名前からしてなんだか楽しそうだし、我ながらなかなかいい選択をしたのではないかと思う。
小学生くらいの子供を連れた親子連れや大学生と思しきカップルの並ぶチケット売り場で男二人で並ぶ。
「ワンデーパス、大人二人。あと領収書ください」
窓口で二人分のチケットを買い、念の為領収書も貰う。これって経費で落ちるんだろうか、と一瞬暗い気持ちになった。どこぞの夢の国よりは安いものの、二人分なのでそれなりの値段はする。しかし社会人として高校生に身銭を切らせる訳にもいかないので、脳内で弾いた算盤のことは顔には出さないようにして、長船にチケットとパークガイドを手渡した。
「自分の分くらい自分で払うのに」
「そういうのは自分で稼げるようになってから言え」
依頼書によれば長船は特にアルバイト等はしていなかった筈である。こいつの小遣いが月にいくらあるか知らないが、家出中だったならそれなりに減ってはいるだろうし、やはり大人としてここは俺が払うべきだろう。
口を尖らせて「かっこわるいなぁ」とぼやきながら、長船はパークガイドを開いた。
「わ、水族館が四つもある。こっちのエリアだと釣りもできるんだ」
「釣った魚が食べられるらしいな」
「へえ。行ってみたいな」
「ジェットコースターもあるらしいぞ」
「いいね! とりあえず近場から攻めていこうか」
さっきまで不満げだったのに、もう笑顔になっている。ナリはすっかり大人のくせして、こういうはしゃぎっぷりを見るとこいつも子供なのだなぁと思ってすこし微笑ましい。
「ほら、行こうよ。……ええと、」
「長谷部だ」
「長谷部くん」
「おまえ初対面の大人にくん付けとはいい度胸だな」
「いいだろ? 減るもんじゃなし。そうだ、僕のことは光忠って呼んでよ」
これは暗にナメられてるんだろうか。ちょっとばかり俺より背が高いだけの若造に馴れ馴れしくされて渋面を作る俺に、長船はにこにこと鉄壁の笑顔を浮かべる。こいつの面の皮は何メートルあるのだろう。
真面目に取り合うだけ時間の無駄と判断して、俺は深く息を吐いた。どうせ今日一日の付き合い、旅の恥はかき捨てだ。
「……行くぞ、光忠」
その途端、ぱあっと向日葵みたいな笑顔を浮かべるのだから、現金なやつだ。
「うん、長谷部くん!」
見えない尻尾をぱたぱた振るようにして、光忠が俺の隣に並ぶ。
「ふふ、どうせだし手でも繋ぐ?」
「調子に乗るなよ」
額にデコピンを飛ばすと、「あいたっ」と声を上げたものの、光忠はそれでもにこにこしていた。ドMか。
サンゴ礁を模した水槽のエリアを抜け、変わった形の水槽に閉じ込められたウミウシや貝を眺め、アシカやアザラシがぷかぷか泳ぐのを見る。冷房の効いた水族館の中はいっそ寒いくらいで、時折腕を擦りながら歩き回る。光忠は何を見ても珍しそうに目を丸くし、嬉しそうに声を上げた。
「あっ! シロクマだ!」
水族館にいるシロクマなど基本的に寝てるだけだと思っていたのだが、暑いのか単にそういう気分なのか、ここのシロクマは短く太い手足をバタつかせて水の中でのろのろと泳いでいた。水槽の端まで行くと綺麗なターンを決めて反対方向へ。何度ターンを決めてもシロクマは何故かこちら側を向いていた。こころなしかキメ顔である。自分が見られていることをわかっているかのようだった。
「どっちが見られてるんだろうね」
光忠が愉快そうに零したのが印象的だった。スマホに来た連絡に返信を入れながら、俺は無言でカメラアプリのシャッターを切った。
流線型でミサイルのように水中を飛ぶペンギンを堪能すると、七万尾いるというイワシの大水槽に出た。ギラギラと光を弾いて金属のような光沢を放つ魚群は圧巻だが、俺と光忠が口にしたのは似たような言葉だった。
「美味そうだな」
「美味しそうだね」
顔を見合わせて苦笑する。このあたりは日本人ならば当然抱く感想だろうと思う。
「つみれが食べたくなるな」
「えー、イワシといえば梅煮だろ?」
「おまえとは話が合わない」
そんな話をしながら歩けば、カニやアナゴ、メバルが泳いでるエリアに出て余計に腹が空いた。早く昼飯が食いたい。
光忠の方も早くここを出て空腹を満たそうと思い立ったらしく、二人で言葉少なになって足早に館内を抜ける。外に繋がると思しき自動ドアの先は、森を模したエリアになっていて、ここもまだ館内のようだった。冷えた空気から一転、むわりとした暑さに包まれてげんなりする。温度差で風邪を引きそうだ。
「おい、早く抜けるぞ」
「あっ、長谷部くんカワウソだよ!」
光忠が俺の腕を掴んでぐいぐいと引っ張る。こいつ本当に人の話を聞かないな。
「かわいいね! 初めて見た」
ぺちゃっと潰れたような顔をしたカワウソはたしかにまあ、愛嬌があった。立ち止まって鼻をヒクヒクさせる仕草を見て、周りの女子供が「かわいい」と歓声を上げている。握手コーナーと書かれた、水槽に穴の空いているスペースは、アイドルの握手会よろしく長蛇の列ができていた。どこか得意げなカワウソがひょいと出した足に触れると、大人も子供もたちまちメロメロになるらしかった。恐るべしカワウソ。
「……並んでいくか?」
隣の男子高校生にも一応聞いておく。
「うーん、混んでるし、とりあえず先に行こうか。代わりに長谷部くん握手してよ」
俺は無言で本日二度目のデコピンをした。
ショープールで行われる次のデイショーにはまだ大分時間があったので、一度水族館を抜け、今度は釣りのできるエリアへと移動する。
「海育」とやらをテーマにしているここでは、魚を釣ってその場でスタッフに調理して貰えるらしい。こちらで食べる分だけを釣ってください、魚の持ち帰りはできません、とスタッフが注意して回る中、俺達は水面に餌をつけた釣り糸を垂らした。
「これってちょっと揺らしたりした方がいいの?」
「それはルアーじゃないか? 別に動かなくていいだろう」
と言いつつ、先程までエアコンの冷風に甘やかされていた体に、真夏の直射日光はきつかった。じりじりと照りつける太陽の下、ひたすらじっと海面と睨めっこするのはなかなかつらいものがある。すっかり温くなったペットボトルのお茶をぐびぐびと飲みながら釣り竿を握り直す。
「……これ暑いから魚も死んでるんじゃ……」
「魚のポテンシャルを信じろ」
いくら三十度を超える酷暑の中だろうと、魚が海中で茹だって死んでるなんてことはないと思う、多分。
そうこうしてるうちに、俺の両手に確かな手応えがあった。釣り竿の先がくんっとしなる。
「来た!」
ぐるぐると必死にリールを巻いていると、隣からも「来た! こっちも来たよ、長谷部くん!」と上ずった声が聞こえる。
「とりあえず巻け!」
「う、うん!」
カリカリカリ、と音を立てて二人でリールを巻くと、釣りあがったのは二人ともアジだった。
「やった! 釣れた!」
「やったな光忠!」
そのままノリでハイタッチをしてしまってから、思いの外テンションが上がってしまったことに気がついて恥ずかしくなるが後の祭りだ。いい年して何をやってるんだか。
光忠は嬉しそうに釣ったアジを見つめて、針を口から外してやった。蕩けるような眼差しで手の中の暴れるアジを見つめ、「嬉しいなぁ。生まれて初めて魚が釣れた。……ふふ、美味しく料理してあげるからね」と囁く。
魚を調理するのはスタッフだぞ、と内心ツッコミつつ、俺もびちびちと跳ねるアジをビニール袋に詰めた。
その後追加で二匹のアジを釣り、調理エリアで釣れた魚をアジフライにしてもらって食べた。しかし食べ盛りの男子高校生にこの量では足りないだろうと思い、レストランエリアのフードコートに連れて行って適当に腹を満たす。もちろん支払いは俺である。
「この後どうする?」
「とりあえずイルカショー見るか。あとアトラクションもあるぞ」
「僕このブルーフォールっていうのに乗りたい」
「食った後にフリーフォール物に乗るとか正気か? 勘弁してくれ」
「ジェットコースターでも可」
「ショーの後ならいいぞ」
「決まりだ」
光忠はそう言って嬉しそうに目を細めて立ち上がり、「支払いして貰ったから片付けは僕がやるね」と俺の食器まで一緒に下げてくれた。こういうところはよく気のつく奴である。
ショープールの前方の席は既に埋まっていたので、後方の全体を見渡せる席に二人並んで座る。
トレーナーの挨拶が終わると、軽快な音楽と共にイルカ達が入場してくる。きらきらとした水飛沫を上げ、時にジャンプし、時に水中を尾びれで滑るように進む賢く可愛いイルカ達に場内が沸く。
途中前方の席にイルカ達が一斉に水をかける場面があって、俺は心底前方の席でなくて良かったと安堵したが、ちらりと隣の光忠を見るとあからさまに羨ましそうな顔をしていた。やりたかったようだが、諦めてくれ。俺は濡れたくない。
そうこうしているうちに迫力のあるショーはあっという間に終わった。
人でごった返す出口をくぐり、パーク内をぐるりと回るように奥へ歩くと、海上を走行するというのがウリのジェットコースターに着く。
何気なく列に並ぶと、俺達は何故か外国人旅行客と思しき団体に挟まれてしまった。やたらテンションが高いしイタリア語だかスペイン語だかを話しているので、おそらくラテン系だろう。コースターに乗り込み、最初の上り坂をゴトンゴトンと上がっていくと、本当に海に落ちるみたいにしてコースターがレールの上を滑走した。ラテン系観光客の「ヒャッハー」だか「ヤッホー」だかわからない楽しそうな歓声の中、光忠も隣で笑い混じりの叫び声を上げていた。俺も「うっ」くらいは言ったかもしれない。元々絶叫系で声を上げる方ではないのだ。
海の上を縦横無尽に駆け巡ったコースターが段々とスピードを落として降車場に着くと、なにがしかの一体感でも得たのか、光忠がコースターを降りたところで旅行客と互いの健闘を褒め称えるかのごとくハグを交わしていた。ラテン系ってすごいな。それとも若さ故だろうか。
俺の視線に気づいたのか、熱い抱擁を終えた光忠は照れたように頬を掻き、何を思ったのか俺に向かって両手を広げた。
「長谷部くんもハグする?」
「結構だ」
「そんなに照れずに」
「やめろ。俺をラテンの宴に巻き込むな」
ラテンの宴ってなにさ、と光忠はけらけらと笑った。
その後、チューブ型のライドや巨大迷路、タコ型の絶叫マシンに乗ったり、再び水族館に戻ったりとしていると、気づけば西の空が赤く染まっていた。スマホの画面を見ると、時刻は十八時だった。ロック画面に事務所からの連絡が来ているのを発見して息を吐く。
「長谷部くん、次はどこに行く? フリーフォールのもまだ乗ってないし、あっちのタワーは夜景が綺麗みたいで、」
「おい、光忠」
「この時期は花火もあるらしいね。ナイトショーも楽しいだろうな」
「光忠」
もう一度名前を呼ぶと、光忠はまるで悪戯が失敗した子供みたいな顔で振り返った。
「わかってるだろう。ここらが潮時だ。親御さんも、近くまで迎えに来ているらしい」
俺はここに来る前に一度事務所の方に連絡を入れていた。ターゲット本人の希望により夜まで行動を共にすると行き先も告げてあった。
家出学生を連れ回して遊び歩くのもこのくらいの時間までが限度だろう。どんなに光忠が嫌がろうと、そろそろこいつを親元に帰してやらねばならない。大人として。依頼を受けた探偵として。
「……最後に浜辺を歩きたいな」
そう泣きそうな顔で微笑むから俺は何も言えず、事務所からの連絡に少し遅れる旨を返信した。
夕暮れの海が燃える太陽を飲み込むのを眺めながら、二人で砂浜を歩いた。波と共に押し寄せる風は昼間のものよりはすこしだけ優しい温度をしている。
「僕、家族や友人とこういうところに来たことがなくて」
波の音に混じりながら、ぽつりと光忠の声が響く。
「両親は忙しかったし、家が厳しかったから友人同士で遠くに遊びに来たことなんてなかった」
すり、と手の甲を撫でられ、そのままそっと指を絡められる。
「でも、今日は人生最高に楽しかった。ありがとう、長谷部くん」
今日見た中で一番のきらきらした笑みを浮かべ、光忠は俺の手を取った。
「みつただ、」
「ねえ、最後のお願いいいかな?」
そう甘えるように強請られて、最後ならば叶えてやりたいと思ってしまったのだから、俺も今日一日で大分絆されている。
小さく頷くと、緊張したように硬い声が降ってくる。
「目を瞑って。あと眼鏡取って」
「なんで、」
「いいから」
いつになく真剣な顔で迫られたので、渋々と眼鏡を外して目を瞑ってやると、ふに、と唇にやわらかいものが触れる。
キスをされた。そう気づいて目を見開いた時には既に光忠はするりと身を翻して離れたところに立っていた。
はは、と光忠が晴れやかに笑う。
「忘れられない夏休みになったよ! ありがとう、長谷部くん!」
「このっ……クソガキ!」
口を拭いながら追いかける。砂に足を取られてうまくスピードが乗らない。浜辺の向こうには駐車場がある。光忠の両親はそこに来ているとの連絡があった。光忠もおそらくわかっているのだろう。
俺は途中で追いかける足を止めた。光忠は止まらずに走っていく。きっとこのまま振り返らないだろう。それが正しい。俺とあいつは一日デートしただけの赤の他人なのだから。
遠ざかっていく背中を、俺はいつまでも眺めていた。
◆ ◆ ◆ ◆
はあ、と吐いた溜息を聞き咎められ、同僚の宗三に「辛気臭いですよ」と呆れられる。
「なんですか、この間から一体。そんなに男子高校生との逢瀬が楽しかったんですか」
「そんなんじゃない」
どうだか、と言うと宗三は再び報告書の記入に戻った。
そんなんじゃない。
「社会見学ってことで両親から君のところの事務所でバイトする許可をもぎ取って来たんだ。今日から探偵助手ってやつだね」
溜め息の原因は、今日から光忠がうちの事務所でバイトするようになったことである。
おそらく光忠の両親も先日の家出騒動で懲りたのだろう。下手に締め付けて家出されるよりは、身元の確認できる相手のところに好きに出入りさせたほうがまだマシ、ということらしかった。
助けを求めて同僚の薬研を見れば意味ありげににやりと笑われ、「あとは二人で仲良くしろ」と言わんばかりに部屋を出て行かれた。
二人きりになった部屋の中で、机の上に置かれたままの手に光忠がそっと触れる。
「僕、実はナンパもデートもキスも初めてだったんだ。責任取ってよ」
そんなの俺だって、と告げたら一体こいつはどんな顔をするんだろうか。そう思ったけれど大人の意地で口をつぐむ。
光忠は相変わらず何が楽しいのか真夏の太陽のようににこにこと笑い、俺の手を掴んだままどける気配を見せない。
俺はとりあえず光忠の手を振り払い、皺の寄った眉間をぐりぐりともみほぐし、これからのことを考えて大きく溜息をつく。
汗をかくアイスコーヒーの入ったグラス、外から響く蝉の声、窓から差し込む強い日差し。
俺の夏は、まだまだ終わりそうにない。
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