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おまえさん、旅人かい? 疲れてるなら甘いものでも食ってきな。柚子皮の砂糖漬けはどうだい?
おお、そうかそうか、うまいだろう。柚子はこのあたりじゃ縁起のいい食べ物なんだ。悪い龍を倒した、聖なる果実なんだよ――。
◆◆◆
「ここにね、柚子の樹を植えようと思うんだ」
目の前の男がそんなことを言い出したので、長谷部はこてんと首を傾げた。
「柚子?」
「そう、柚子」
歌うように頷いてから、男は手の中で湯呑をくるくると回した。水面が渦を巻いて陽の光をきらきらと反射する。
「柚子は香りが強すぎて好かんな。それに種が多くて酸っぱくて、とても食えたもんじゃない」
食べた時のことを思い出して長谷部が顔をくしゃっとしかめると、男は弾けるように笑った。
「あれは生で食べるものじゃないよ。主に皮を使うんだ。刻んで香り付けに料理に添えたり、あとは砂糖漬けにしたり」
一呼吸おいてから男がぐいっと湯呑を呷った。ただの白湯を男はとても美味そうに飲む。
「砂糖なんて高級品、手が出ないだろ」
お茶の葉だってろくに買えないのに、と長谷部が指摘すると、男はへにゃと眉を下げて肩を竦めた。
「まあ、それはそうなんだけど」
「そんな嗜好品紛いの樹を植えるくらいなら桃でも植えろ。美味いし、割とすぐ育つだろ、あれ」
「ああ、桃栗三年柿八年っていうよね」
頷きを一つしてから、男はにこりと微笑んだ。
「桃栗三年柿八年、柚子は九年で花盛り」
「そんな締めだったか? 俺が聞いたことあるのはもっとこう――」
「柚子の大馬鹿十八年の方? これ、地方によって言い回しが違うんだよね。梨はゆるゆる十五年とか、蜜柑のまぬけは二十年とか色々あるけど、花盛りの方が綺麗だろう?」
長谷部は溜め息をついてごろりと縁側に横になった。
「人間の美学とやらはわからん」
そう零す長谷部の煤色の前髪を、男は優しく指で梳いた。
「龍の君には、そうかもしれないね」
長谷部はこのあたりの山を根城とする龍だ。風に乗り雲と遊び、時に雷を落とし雨を降らせるので、麓の人間からは龍神様と崇められることもある。
そんな長谷部が住む山の中に数年前から庵を建てて暮らし始めたのが男――光忠だった。
ある日煮炊きをする匂いに誘われて話しかけ、料理を振る舞われて以来、光忠とは奇妙な縁で繋がるようになった(と長谷部は思っている)。最初は龍の到来に驚いていた光忠も、三度目の来訪あたりからは笑って食事を馳走してくれるようになったので、長谷部も礼に山菜や木の実を差し入れるようになった。
長谷部は光忠の詳しい素性を知らない。光忠という名前だということ、都から移り住んで来たということ、そのくらいだ。共に飯を食べ水を飲み語らい合う関係に、それ以上の知識はいらなかった。
光忠の元を訪れ始めてから季節が一巡り経ったある日、光忠がこう言った。
「君を好いている」
「俺もお前のことは気に入っている」
長谷部がそう答えると、光忠は首を横に振った。
「僕のはそういう好ましさとは違うんだ。伴侶、と言えば伝わるのかな。生涯にただ一人の相手として、君のことを恋い慕っている」
藤色の瞳をまんまるく見開いて、長谷部は光忠を見つめた。
妻を問うて鳴く鹿の声よりも切実な響きに、この人間は龍である自分と番いたいと言っているのだとようやく理解できて、「はぁ」と気の抜けた声が唇から漏れた。
「つまり、お前は俺と子を成したいと?」
「いや、必ずしもそういう訳では――、もちろん興味がないわけではなくて、僕はどちらかと言えば過程を大事にしたいっていうか、ええと、その、」
普段はすらすらと言葉を紡ぐ男がしどろもどろになるのは、なんだか愉快だった。
過程、という単語で、長谷部の頭の中に獣達の交尾の様子が浮かんだ。
龍が人と子を成すことはできない。そもそも、龍とは自然の気が集まって生じる生き物である。交尾の必要は皆無だが、毎年春になると我を忘れて繁殖に勤しむ山の生き物たちを見ていたので、行為への興味はあった。
「お前、俺とまぐわいたいのか?」
生まれた沈黙を都合よく肯定と捉えて、長谷部は光忠に顔を近づけ手を握った。山で逢い引きをしていた二人組が、こんなことをしていたのを見たことがあったのだ。
花の蜜を溶かし込んだような瞳がわかりやすく揺れ、奥底で炎のような光が灯るのを、長谷部は見逃さなかった。
「お前の言う好きとやらはわからんが、今までの飯の礼だ。俺を抱くことを許してやる」
――そうして体を重ねるようになって幾年か経った頃、光忠が庵の前に柚子の種を植えた。結局柚子を植えるのか、と長谷部は内心呆れたが、この頃には光忠の頑固さを知っていたので好きにさせることにした。
光忠の黒々とした髪に白い毛が混じるようになっても、柚子はまだ膝のあたりまでしか育たない。それどころか花をつける様子もなかった。
「やっぱり桃の方が良かったんじゃないか?」
「のんびり屋さんなんだね」
「のろまが過ぎる。お前に似たんだな」
ひょろひょろとした若木を前にそんなことを話す。
以前より肉のそげ落ちた、骨ばった手が長谷部の頬を撫でた。龍の姿はもちろん、人と交わる為に適当に化けたこの肉の身も好きなのだと光忠は言う。
「それが君なら、僕は多分石ころの姿でも好きになってしまうんだろうな」
そう言って微笑む光忠の目尻の皺は、日に日に深くなっていく。
光忠の髪がほとんど白に近くなってきても、柚子はまだ蕾をつけなかった。
「今年も咲かなかったな」
「こうなったら根比べだね」
この頃になると、光忠はよく咳き込むようになった。仲間から葛湯がいいのだと聞いたので人里から葛粉を仕入れて庵へと持っていくと、光忠は大層喜んだ。
「葛湯に蜂蜜や柚子の果汁を絞って入れると喉にいいんだよ」
水を入れた鉄瓶を火にかけながら光忠が言う。
「だったらとっととあの木には実をつけてもらわないと困る」
昔より光忠の声が嗄れてきたのに、鈍い長谷部だって気づいていた。
「お前の声は心地よいからな」
葛湯をかき混ぜていた手が止まる。
「……驚いたな。そんなこと思ってくれてたの?」
「ん? 言ってなかったか。うん、お前の声は好きだぞ」
手に持っていた器がことりと床に置かれた。
「声だけ?」
「だってお前、髪の色とかすぐ変わっちゃうだろ。声とか……あと瞳くらいしか昔と違わないじゃないか」
光忠が長谷部の腕をゆるく引いた。逆らわずにそのまま腕の中に収まる。目を瞑ると、とくとくと脈打つ心臓の音が聞こえる。これだって昔より小さい音になっている。肌越しに感じるこの音に安心を感じるようになったのは、いつの頃からだったろう。
長谷部くん、と吐息混じりに囁かれる。耳元がくすぐったい。
「……ああ、抱きしめられるのも好きだな。名前を呼ばれるのも」
ぱた、と首筋に水滴が落ちた。次いで光忠の顔を見てぎょっとする。
「お前、なんで泣いてるんだ」
どうした、どこか痛むのか、と慌てる長谷部を見て、光忠ははらはらと涙を流しながらそっと微笑んだ。
「きみがすきだよ」
それからしばらくして、光忠は床に伏せるようになった。起きている時間も段々と短くなって、長谷部は眠る光忠の隣で退屈を持て余すようになった。
このところ晴れが続いていたので、庵の周りに雨を降らせる。柚子の木は庵の屋根よりも高く枝を伸ばし、青々と葉を茂らせていた。
久しぶりの雨に生き生きとしだした柚子の木を眺めながら、長谷部は小さく呟いた。
「……のろまめ」
早く実をつけないと、お前、俺が切ってしまうからな。
ある日、たまには滋養のあるものでも食べさせてやろうと思い立ち、山を巡って自然薯を掘り山菜を集め、泥だらけで庵へと戻ると、いつもとは違う香りを感じて足を止める。
急いで庵の正面へと回れば、柚子の木にぽつぽつと白い花が咲いていた。
「光忠! おい、咲いてる! 咲いてるぞ!」
声を上げて庵の中へと足を踏み入れる。床板に泥がつくのも構わずに、長谷部は光忠の元へ駆け寄った。
「見ろ、おい、光忠!」
光忠を薄い煎餅布団から抱き起こして庭の方に向けてやると、光忠は目を開けてたしかに微笑んだ。
ほんとうだ、きれいだね。しわしわの唇がそんなようなことをつぶやく。
「もうじき実が成るぞ。実が成ったら柚子入りの葛湯を作ってやる。そうだ、自然薯があるんだ。滋養があるって、昔お前言ってただろう。すぐ汁物にしてやるから、だから」
抱えている体からゆっくりと力が抜けていく。
「だから、いかないでくれ」
縋るように光忠の肩に顔を埋める。
「お前のことがすきなんだ」
もう自分より細くなってしまった枯れ木のような体からは、生き物が死ぬときの匂いがした。
「……柚子は九年で花盛り」
光忠が長谷部の手を握る。
「九年よりも長くなっちゃったね」
そう言って光忠は息を引き取った。緩く弧を描いた唇はかさついて、何度触れてもぴくりとも動かない。胸に耳を押し当てても何も音が聞こえない。みつただ、と庵の中にぽつりと響いた声を、柚子の花が見下ろしている。
◆◆◆
――柚子がなんで聖なる果実かって?
ああ、昔々このあたりの山には悪い龍がいてね、ある時から長雨ばかり降らせるもんだからみんなで退治しようとしたんだが相当暴れたらしい。けれども、ある日雨が止まったから様子を見に行ったら、柚子の樹の隣で龍が事切れていたんだと。
これは柚子が悪龍をやっつけてくれたんだ、とね。そういうわけで、村のみんなでそこに龍塚を立てて柚子の樹を御神木として祀ることにしたのさ。
柚子の樹がそこかしこに生えてるだろう。あれはみんな御神木の子供なんだよ――。
◆◆◆
「龍塚」と刻まれた石碑の前で青年は足を止めた。周りの樹の中でもひときわ立派な柚子の大樹の幹に触れる。青々と茂る葉の中、鈴生りに実る果実は青年の瞳と同じ色をしていた。
「……大きくなったなぁ」
懐かしそうに目を細め、青年は石碑にそっと手を伸ばす。
「迎えに来たよ、長谷部くん」
「のろまめ」
突然後ろから抱きつかれても、青年は動じなかった。
「君も大概だと思うけどな」
「俺のほうが待たされた」
「……うん」
「三百年だぞ、三百年。生まれ変わるのが遅すぎる。お前どこで道草食ってたんだ。怠慢だ」
青年はゆっくりと振り返り、涙を流す藤色の瞳をそっと拭ってやる。
「待たせてごめんね」
「絶対に許さん」
「困ったな。どうしたら許してくれる?」
白い頬に手を伸ばすと、すり、と向こうから頬を寄せてきた。
「……俺が許すまで傍にいろ」
笑い声をあげながら青年は目の前の体を抱きしめる。
「頼まれたって離してあげないよ」
柚子の大樹が抱き合う二人にそっと木漏れ日を落としていた。
※次ページは上記の長谷部視点を膨らませた短編になります
※描写が一部重複しています
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