柚子の蕾が開く頃

短編
      15348文字(全2ページ合計)

 花が咲いた。ほんのりと苦みの混じった甘い香り、柚子の花だ。人の手によって丁寧に棘を落とされた枝の先で、花は白く小さな花弁を風にそよがせている。
 唇をふっと緩ませて道端の岩に腰を下ろす。見上げれば樹上で花々が揺れていた。今年もまたこの季節がやって来たのだ。
 これからたくさんの日差しと雨を浴び、虫や小鳥を迎え、やがてこの花たちは実を結ぶ。黄色く丸く、香り高い果実が鈴なりに実る頃には、収穫に訪れる村人達でここも騒がしくなるだろう。人々の生活がどれほど変化しようと、その営みだけは今でも変わらない。変わらないことに安堵する反面、今年もまた変わらなかったことを残念に思う気持ちもある。

 ――今年も、来ないのだろうか。

 他愛もない約束を信じてもう何百年が過ぎただろうか。あの頃に植えた柚子の樹ももう何度目かの代替わりをしている。当時の自分たちを知るものは皆死に絶えた。当時のままでここに居続けているのはもう、自分くらいなものだ。

「…………    」

 唇を動かして名前を呼ぶ。たった四つの音の並びを口にしただけなのに、それだけで胸がつきんと痛む。甘く苦い痛みはすこし柚子に似ている。この痛みを教えた男の瞳は、あの満月のような果実とちょうど同じ色をしていた。

「    」

 自分に名前を呼ばれるのが好きだと言った声をまだ覚えている。あの微笑みも、握った手のぬくもりも、抱き寄せられた時の香りも、重ねた肌の感触も、全部ありありと思い出せる。忘れたことなんて一度もない。
 男は自分に約束をした。いつか必ずまた会いに来る、と。男が自分との約束を破ったことは一度もなかった。そもそも叶えられないような約束は最初からしない男だ。だから、どんなに時間がかかろうと、きっとまたここへ来るのだろうと信じている。

「    」

 待っている。ずっと、ここで。


 ◆◆◆

「ここにね、柚子の苗を植えようと思うんだ」

 男がそんなことを言い出したので、長谷部は首を傾げた。
「柚子?」
「そう、柚子」
 歌うように頷いてから、男は手の中で湯呑をくるくると回した。水面が渦を巻いて陽の光をきらきらと反射する。

「あれは香りが強すぎて好かんな。棘もあるし、果実だって種が多くて苦くて酸っぱくて、とても食えたもんじゃない」

 食べた時のことを思い出して長谷部が顔をくしゃっとしかめると、男は弾けるように笑った。

「そのまま食べるものじゃないよ。主に皮を使うんだ。刻んで香り付けに料理に添えたり、砂糖漬けにしたり、香油にしたり――ああ、湯浴み用の湯に浮かべるというのもあったね」

 一呼吸おいて男がぐいっと湯呑を呷った。ただの白湯を男はとても美味そうに飲む。
「砂糖なんて高級品、おまえ手が出ないだろうが」
 お茶の葉だってろくに買えないのに、と長谷部が指摘すると、男はへにゃと眉を下げて肩を竦めた。

「まあ、それはそうなんだけど」
「香油にするにも道具とかなにかいるんだろ。おまえ、職人にでもなるつもりか?」
「今のところその予定はないかな」

 空になった湯呑みを両手で持ちながら、男は鷹揚に笑ってみせる。その様子を見て「あのなあ、」と長谷部は溜め息をついた。
「そんな無駄なものを植えるくらいなら桃でも植えろ。美味いし、割とすぐ育つだろ、あれ」
「ああ、桃栗三年柿八年っていうよね」
 頷きを一つしてから、男はにこりと微笑んだ。
「桃栗三年柿八年、柚子は九年で花盛り」
「そんな締めだったか? 俺が聞いたことあるのはもっとこう――」
「柚子の大馬鹿十八年の方? これ、地方によって言い回しが違うんだよね。梨はゆるゆる十五年とか、蜜柑のまぬけは二十年とか色々あるけど、花盛りの方が綺麗だろう?」

 長谷部はもう一度溜め息をつき、ごろりと縁側に横になった。荒れて表面ががさがさの板に寝転がって天井を見上げる。元は茅葺きの屋根はあちこちから雑草や苔が生え、隙間が広がって穴も開き始めていた。長谷部の目から見ても粗末な庵である。庵の主である男が板や藁を拾い、村人の見よう見まねで修繕してはいるものの、直す端から庵が朽ちてきているのは明白だった。
 人を呼んで屋根を葺き直すだけの金もないのに、ろくに役に立ちもしない柚子を植えたいというのだから、男には呆れたものだ。
「人間の美学とやらはわからん」
 そう零す長谷部の煤色の髪を、男は優しく指で梳いてやった。

「龍の君には、そうかもしれないね」


 ◆◆◆

 長谷部はこのあたりの山を根城とする龍だ。風に乗り雲と遊び、時に気まぐれで雷を落とし雨を降らせるので、麓の人間からは龍神様と崇められることもある。
 そんな長谷部が住む山へやって来て、うち捨てられていた粗末な庵に暮らし始めたのが男――光忠だった。
 西の果ての国では、龍は害獣として狩られることもあるという。長谷部とてたかが人間に負けるつもりはなかったが、もし自分に敵意を持った人間がここに居座るというのなら面倒だ。
 だから、ある日長谷部はこのよそ者がどんな奴かを探るため、人間に化けて男に話しかけてみた。元々祭りの時期などには人に交じって神輿を担いだり酒を飲んだりすることもあったので、擬態には自信があったのだ。

「おい、最近ここに住み始めたよそ者っていうのはおまえか?」

 龍を退治せんという不届き者なら自慢の爪で引き裂いてやろうと、そう思っていたのに、男は長谷部の姿を見るとにこりと微笑んで、「お客さんかな? 何もないところだけど、中へどうぞ」と作りたての雑炊と干し柿で長谷部をもてなした。

「どうしてここに住んでいる?」
「実は家を勘当されてしまってね。行く当てもないから、ここを借りてるんだ」
「おまえからは血の匂いがする」
「ここに来る途中野盗に襲われたから、何人か返り討ちにしてね。……可哀想なことをした」
「この山を荒らす気だろう」
「そんなことをするつもりなら、僕は麓の村の方に住んでいただろうね。手っ取り早く荒らすつもりなら村の人間を扇動して火でも放ったほうが早い。わざわざこんな山中の寂れた庵にひとりきりで住まないよ」

 こちらの詰問をやんわりと否定し躱していく男の態度に、長谷部は段々苛立ってきていた。
 では、と長谷部は変化の術を解いてみせた。一瞬にしてそこにいた端正な青年の姿が煙のようにかき消え、代わりに藤色の鱗を鈍く光らせた巨躯が庵の中いっぱいに渦を巻いて広がっていく。

『龍を討たんとする不届き者ではあるまいな?』

 できるだけ低く恐ろしげな声で言ってみせると、男は金色の隻眼を大きく見開いた。ぎらぎらと殺気を宿して輝く紫闇の双眸に、ぽかんと口を開けた男の姿が映り込んだ。

「君が、龍……?」
『そうだ。驚いたか』
「うん。すごく綺麗だ。触ってもいいかい?」
『は?』

 男がこちらにゆっくりと手を伸ばしてきたので、長谷部は思わず身じろぎをした。予想外の反応だった。龍の姿で相対して恐れぬどころか、興味を持ってこちらに触れてこようとする人間なんて今まで会ったこともない。
 男の手を振り払おうと長谷部が長い体を揺らめかせた時だ。長谷部の尻尾に押しやられた雨戸がみしりと軋み、戸板が何枚かぽおんと外に弾け飛んでいった。音の方向を振り返った男が、無惨にもひび割れた戸板たちを見て悲鳴を上げる。

「わーーーーーっ!!!!」

 そう言うが早いが、男は長谷部の体の隙間を掻い潜り、縁側からばたばたと裸足のまま庭へ飛び出した。そうして地面から何かを拾い上げると、男はがっくりと肩を落とす。その手に握られていたのは手のひら大の木片だった。おそらく戸板の破片だろう。よく見れば男の足下に似たようなものがいくつも散らばっている。

「ああ、昨日直したばっかりだったのに……」
 そう言って男は深く項垂れ、大きな溜め息をついた。
『えっと……なんか、すまん』

 おずおずと告げられた謝罪の言葉を聞くと、男はようやく顔を上げた。長谷部の方をじとりと睨みつけ、庵からはみ出して所在なげに宙に揺らめく尻尾をぺちんと叩く。

「君ね、その姿を晒すつもりなら、せめて家の外でやってくれないかな? こんなに狭い家の中に君の体が入りきるわけがないだろう?」
『う……、すまん』

 家主からの正当な抗議にぐうの音も出ない。長谷部は渋々と再び人の姿に変化してから庭に出た。男はこちらを一瞥すると、壁に立てかけてあった竹箒を手に取る。そうしてそれを長谷部の方にぐいと差し出してきた。有無を言わさぬ勢いだった。

「とりあえず片付けを手伝ってくれるかい? 君はこの箒で木片を掃き集めてくれ。僕は無事そうな雨戸だけでも嵌め直してみるよ」

 なんで自分が、と思う気持ちもあったが、男の住居を壊したことは紛れもない事実である。長谷部は渋々と首肯すると再び人の姿に変化し、男から箒を受け取った。ざらついてひびの入った竹の柄をぎゅっと握りしめると、ぱきんと不吉な音が鳴ったので慌てて手の力を緩める。家だけでなく箒まで年季が入っていた。力を入れて掃けば束ねた枝がたちまちばらけてしまいそうだ。
 壊さないように恐る恐る箒を動かし始めた長谷部を横目に、男はがたがたと外れた雨戸を元に戻していく。しばらく無言で作業をしていると、男が長谷部のほうに声をかけた。神獣とも言われる龍に、まるで古くからの友であるような気安さだった。

「僕は光忠。君の名前は?」
「…………長谷部だ」
「長谷部くんか。よかったらまたおいでよ。ちょうど話し相手が欲しかったんだ」

 こうして、長谷部と光忠の奇妙な関係は始まった。

 気が向いた時にふらりと訪ねてくる長谷部を、光忠はいつも笑顔で出迎えた。ある時山で採れた山菜を持参してみたところ、その場で美味い手料理に変えてもてなしてくれたので、いつしか光忠の家へ向かう際はなにがしかの手土産を持っていくことが習慣になった。

 光忠は龍の長谷部から見ても不思議な男だった。夜空を見上げて星や月を見て歌を詠んだり、山の獣を狩るための刀や弓矢を扱えたり、明らかにただの村人とは一線を画す教養と技能を持っている。本人は詳しくは知りたがらなかったが、おそらくなんらかの理由で都からこの地に流れてきた元貴族なのだろう。龍の長谷部を恐れず、かといって侮りもしない。一度龍の姿になって鱗を触らせてやったら、まるで元服前の童のように目をきらきらと輝かせて感動していた。長谷部の龍体を見てもそんな風に接してくる人間は初めてだった。

 時に囲炉裏端で、時に縁側で、時に山の中で、言葉を交わしていくうちに季節は一巡りしていた。

 渓流の川縁で釣り糸を垂らし、魚が食いつくのをぼんやりと待っていると、光忠がぶるりと震えた。日差しは温かかったが、川の近くの空気は冷える。岩の上に座っているのだからなおさらだろう。魚を驚かせぬよう人の姿になっていた長谷部は、光忠に無造作に抱きつくようにして身を寄せた。化けているとはいえ、人肌のほうが温かい。光忠が凍えぬように温めてやろうという気遣いだったのだが、光忠の体は服の上からでもわかるぐらいぎこちなく強張った。

「…………ええと、長谷部くん」
「なんだ」
「そういうのは、困るよ」
「何がだ」

 長谷部が不満げに口を尖らせると、光忠の長い指がきゅっとその唇を摘まんでくる。

「そういうかわいい顔もだめ」
「だから何がだ。おまえ最近変だぞ」

 このところの光忠に溜め息が増えているのに、長谷部も気づいていた。あまり自分の身の上や感情について語りたがらない男なので深く尋ねはしなかったものの、このところどこかぼんやりとすることの多くなった光忠のことが気になってはいたのだ。

「……何か病にでもなったのか? もし薬草がいるなら採ってきてやる」

 いかな龍とはいえ人間の健康をどうこうするほどの力はない。せいぜいが医者を攫って連れてきたり、薬草を摘んできたりできる程度だ。前者は怒られそうだが、後者なら問題あるまい。そう思っての言葉だった。

「なあ、なんか言え。みつた」
 名前を呼びきる前に、長谷部の体は光忠に抱き寄せられていた。薄く粗末な衣越しに、光忠の熱を感じる。聞こえてくる心の臓の音も常より速い。

「君を好いている」

 ともすれば川のせせらぎにかき消されそうなほど小さく、しかし熱の籠もった言葉を、長谷部の耳は聞き逃さなかった。
「だから、君に気安く触れられると、困る」
 たくましい腕がぎゅうと長谷部を抱きしめ、縋るように額を長谷部の肩に押しつける。柔らかい黒髪が着物に擦れてさらりと音を立てた。

「…………なんで困るんだ」

 それを言うなら今この瞬間、長谷部のほうが困っている。軽口を叩き合う仲の人間に嫌われるより、好かれたほうが嬉しい。そういう意味を込めて光忠の顔を覗き込むと、苦い微笑みが返ってきた。

「触れられると、もっと触れたくなってしまうだろう」
「触れればいいだろう。許す」

 長谷部がその気になれば今すぐ鋭い爪で光忠の体を切り裂くことも、雷を落とすこともできるのだ。それをせずにこうしてされるがままになっているのは、光忠に気を許しているからだ。
「ちっともわかってない。僕が言ってるのは口吸いとか……まぐわいのことだよ」
 告げられた言葉を聞いて、長谷部もさすがにすこし驚いた。山の獣や里の人間が営む性交を長谷部は体験したことがなかったし、自分がその対象になるとも思っていなかった。龍は性欲が薄いのである。
 試しに光忠が自分の口を吸ったり、性器を擦りつけたりしてくるのを想像してみたが、特に嫌悪感はなかった。だから「構わない」と口にした。
 光忠がそうしたいというならすればいいと思った。それで光忠の心が晴れるなら安いものだ。そこらの虫や魚とは違って、まぐわったからといってすぐ死ぬわけじゃないのだし。

「俺は、おまえの顔が曇っているほうが嫌だ」

 藤色の瞳が金の瞳をじっと見つめる。しばしの静寂の後、結ばれた視線を先に断ち切ったのは光忠のほうだった。
「……長谷部くん、」
 光忠が煤色の髪をそっと梳いて、そのままするりと頬に指を滑らせて指先で撫でる。ゆっくりと顔が近づいてきて、しっとりと柔らかいものが唇に押し当てられる。一度離れて、今度はもうすこし強く、唇を挟むようにして軽く吸われた。二人の間でちゅっと濡れた音が鳴る。
 背後でぱちゃんと水が跳ねる音がした。きっと魚に引かれた釣り竿が水面に落ちていったのだろう。けれど光忠はそちらには見向きもせず、みたび長谷部に口づけた。

「長谷部くん、すきだよ」

 それには答えず、長谷部は光忠の背中に腕を回し、目の前の体を引き寄せた。
 色恋だとか肉欲だとかはよくわからないけれど、光忠に求められるのは悪くないと思った。だから与えることにした。それだけのことだった。


 そうして光忠と体を重ねるようになってしばらくして、光忠が庭に柚子の種を植えた。最初は長谷部も反対していたが、光忠が一度決めたら意見を曲げない男だというのは身をもってしっていたので、文句を言いつつも見守ることにした。
 十年もすると種は若木へと育ち、鋭い棘をそこかしこから生やしていた。毎朝鋏で棘をひとつひとつ落としていく光忠を見て、長谷部は呆れたように声をかける。

「よく飽きないな」
「手がかかる子ほどかわいいって言うだろう?」
「ちょっとかかりすぎなんじゃないか。棘は生えてるし、育つのは遅いし。今からでも俺が引っこ抜いてやろうか」

 ここに植えられてもう十年だというのに、若木はまだ実をつけたことがなかった。長谷部が木を睨みつけてみせると、光忠は「それは困るなぁ」と笑いながら、断ち落とした棘を箒で掃き集め、庭の隅にまとめていく。一度棘をそのまま放っておいたら運悪く踏んでしまって痛い目にあっているから、慎重になっているのだ。

「ちょっと長谷部くんに似ているよね」
「何が」
「この木だよ。つんつんしていて、手がかかるところ」
「喧嘩売ってるのか?」
「まさか。かわいいって言ってるんだよ」

 体を重ねるようになって以来、光忠は長谷部のことをかわいいと褒めることが多くなった。人の姿だけならいざ知らず、龍の姿の時もかわいいと言って憚らないのだから、やはり光忠は風変わりな男だと思う。
「……物好きめ」
 大きな手が長谷部の頭をくしゃりと撫でた。横目でちらりと見上げると、光忠が眩しそうに目を細めている。ふわりと微笑むその目尻には薄く皺が刻まれ始めていた。


 光忠の黒々とした髪に白い毛が混じるようになっても、柚子はまだ長谷部の背をすこし越したあたりまでしか育たなかった。それどころか、いつまで経っても花をつける様子もない。

「やっぱり桃の方が良かったんじゃないか?」
「のんびり屋さんなんだね」
「のろまが過ぎる。お前に似たんだな」

 同じ布団に二人で横になりながら、そんなことを話す。今は雨戸に遮られて見えないものの、あの向こうでは若木が朝日に当てている頃だろう。
 ごろりと寝返りを打つと、上掛けとの間に隙間風が入り込んで体が冷える。龍の姿ならこの程度の冷えはなんともないが、人の姿だとそれなりに堪える。思わずぶるっと体が震えたところ、すかさず後ろから光忠の腕がぐいと長谷部の体を引き寄せた。

「ほら、もう少しこっちに寄って。寒いだろう?」
「……ん」

 渋々とされるがまま光忠の腕の中に収まる。背中が温まると眠くなるというのは、光忠と体を重ねるようになって初めて知ったことだった。それに、互いの体を舐めたり擦ったりすると気持ちがいいということも。
 これはもしや龍の自分独特の感覚なのかとまぐわっている最中に光忠に聞いたことがあるが、光忠は苦笑しながら自分も気持ちがいいのだと答えたので、肉の身を持つものなら当たり前の感覚であるらしい。今までこれを知らなかったのはもったいないことだったと素直に感想に口をしたら、光忠は何故かふっと真顔になってから「僕以外とこういうことをしてはいけないよ」と窘めるような口調で言った。

「なんでだ」
「ええと……人間ってそういうものなんだよ」
「つがいは生涯一人ということか」
「……うん、そう」

 言い方からなんとなく嘘だろうなとは思ったが、深くは聞かないでおいた。雄が番った相手を独占しようとするのは、自然界ではそう珍しくもない。それに、光忠が長谷部一人を欲するというのなら、長谷部としても応えてやりたい。そのくらいの情はある。

 光忠の体温で体が温まってくると、次第にとろとろと瞼が降りてきた。
「眠くなっちゃった?」
「……ん」
「いいよ。もうすこししたら起こしてあげる」
 以前より肉のそげ落ちた、骨ばった手が長谷部の頬を撫でた。龍の姿はもちろん、元は人里に降りるため適当に化けたこの姿も好きなのだと、光忠は主張して憚らなかった。

「……たとえ君が石ころの姿でも、僕は好きになってしまうんだろうな」
「へえ?」
「信じてない顔だね」
「だって石ころって、おまえ」
「本気だよ。もし僕が生まれ変わっても、君がその時どんな姿をしていても、僕は必ず君を好きになる」
「生まれ変わっても、ときたか。人間のくせに大きく出たな」
「僕は本気だよ。もしいつか僕が死んでも、生まれ変わって必ず君を迎えに来るとも」
「……そうか」
「うん、待ってて」

 冗談なのか本気なのか、そう言って微笑む光忠の目尻の皺は、数年前よりも確実に深くなっていた。


 光忠の髪がほとんど白くなってきても、柚子はまだ蕾をつけなかった。
「今年も咲かなかったな」
「こうなったら根比べだね」
 この頃になると、光忠はよく咳き込むようになった。医術に詳しい同族からこういう症状には葛湯がいいのだと聞いたので、人里から少量の葛粉を仕入れ、山で採ってきた薬草や蜂蜜とともに手土産にして訪ねると、光忠は大層喜んだ。

「葛粉なんて随分久しぶりだなぁ。湯に溶いて、蜂蜜や柚子の果汁を絞って入れると美味しいんだ」
 水を入れた鉄瓶を囲炉裏の火にかけながら光忠が言う。
「だったらとっととあの木には実をつけてもらわないと困る」
 昔より光忠の声がひび割れ掠れてきたのに、長谷部だって気づいていた。
「お前の声は心地いいからな。それ以上嗄れるのは惜しい」

 湯をかき混ぜていた光忠の手がぴたりと止まった。
「……驚いたな。そんなこと思ってくれてたの?」
「ん? 言ってなかったか。うん、お前の声は好きだぞ」
 手に持っていた椀が床に置かれ、ことりと乾いた音をたてた。
「声だけかい?」
「だってお前、肌とか髪とかすぐ変わっちゃうだろ。もう瞳くらいしか昔と違わないじゃないか」

 光忠が長谷部の腕をゆるく引いた。逆らわずにそのまま腕の中に収まる。目を瞑ると、とくとくと脈打つ心臓の音が聞こえる。この音だって昔より随分と小さくなっていた。肌越しに感じるこの音に安心を感じるようになったのは、一体いつの頃からだったろう。
 長谷部くん、と吐息混じりに囁かれる。耳元がくすぐったい。

「……ああ、抱きしめられるのも好きだな。名前を呼ばれるのも悪くない」

 ぱた、と首筋に水滴が落ちた。次いで光忠の顔を見てぎょっとする。
「お前、なんで泣いてるんだ」
 どうした、どこか痛むのか、と慌てる長谷部を見て、光忠ははらはらと涙を流しながらふっと微笑んだ。伸ばされた長谷部の手を握り、濡れた頬にそっと押し当てる。

「きみがすきだよ」


 それからしばらくして、光忠は床に伏せるようになった。起きている時間も段々と短くなっているようで、庵を訪ねても眠っていることのほうが多かった。
 長谷部は横たわる光忠の傍らに腰を下ろし、退屈を持て余すようになった。生まれてはじめてのことだ。ぼんやりと庭のほうを眺めていると、背ばかり伸びた柚子の木がいやでも目に入る。
 木の世話は、いつしか長谷部の役目になっていた。棘を落とし、水をやり、葉についた虫を取り、そこまでしても柚子はちっとも花をつける様子がない。やきもきする長谷部をよそに、木は庵の屋根よりも高く枝を伸ばし、青々と葉を茂らせている。
 庭の地面がいささか乾いてきたので、長谷部は雨雲を呼んで庵の周りに雨を降らせた。
 久しぶりの雨にこころなしか生き生きとしだす木を見て、長谷部は小さく息を吐く。伏せった光忠がけほけほと乾いた咳をしだしたので、長谷部は慌てて瓶から水を汲み、光忠の側に駆け寄った。
「おい、大丈夫か」
 差し出された腕に口をつけ、ちびちびと水を飲む光忠を見ていると、なんだかいてもたってもいられない気持ちになる。光忠が弱るのが早いか、柚子が実をつけるのが早いか。
 水を飲みきった光忠は、再び目を閉じて眠ってしまった。弱っていく光忠に何もできない自分が歯がゆかった。
 柚子は未だ蕾ひとつつけていない。

「……のろまめ」

 早く実をつけないと、おまえ、俺が切ってしまうからな。


 ある日、滋養のあるものでも食べさせてやろうと思いたち、数日かけて山を巡って自然薯を掘り山菜を集め、泥だらけで庵へと戻った。庭の方からいつもとは違う甘い香りを感じて長谷部は足を止める。

 急いで庵の正面へと回って、息を呑んだ。あの柚子の木の、伸びきった枝の先にぽつぽつと白い花が咲いている。

「光忠! おい、咲いてる! 咲いてるぞ!」
 声を上げばたばたと庵の中へと足を踏み入れる。床板に泥がつくのも構わずに、長谷部は光忠の元へ駆け寄った。
「見ろ、おい、光忠!」
 光忠を薄い煎餅布団から抱き起こす。光忠の体は昔に比べ軽く細くなっていた。すこし力を込めればぱきんと折れてしまいそうだ。力加減に気をつけながら庭のほうへ体を向けてやると、光忠は重そうにゆるゆると瞼を上げ、ああ、と溜め息のような音を吐いた。
 ほんとうだ、きれいだね。しわしわでかさかさの唇がそんなようなことをつぶやく。

「ああ。もうじき実が成るぞ。実が成ったら汁を搾るんだろ。また葛湯にしような。そうだ、自然薯があるんだ。滋養があるって、昔お前言ってただろう。すぐ汁物にしてやるから、だから」

 抱えている体からゆっくりと力が抜けていくのを、どうしても認めたくなかった。

「だから、いかないでくれ」

 縋るように光忠の肩に顔を埋める。煤色の髪が粗末な着物に擦れてざらりと音をたてる。

「お前のことがすきなんだ」

 もう自分より細くなってしまった枯れ木のような体からは、生き物が死ぬ時の匂いがしている。

「……柚子は九年で花盛り」
 光忠が長谷部の手を握る。その力は泣きたくなるほど弱々しいのに、長谷部へと向けてくる視線の強さと温かさだけは、若かりし頃とちっとも変わらない。
 知らず溢れた涙の雫を、しわくちゃの指がそっと拭った。
「九年よりも長くなっちゃったね」

 そう言って光忠は息を引き取った。緩く弧を描いた唇は長谷部が何度触れてもぴくりとも動かない。胸に耳を押し当てても何も音が聞こえない。みつただ、と庵の中にぽつりと響いた声を、柚子の花が見下ろしている。

 ◆◆◆

 あれからもう何百年経っただろう。山は切り開かれ、町ができ、龍の祠は神社へと変わっていった。あの柚子の樹も今では樹齢数百年のご神木として大事にされている。
 かつてやきもきさせたのはなんだったのかというくらい満開の花を咲かせる樹木の下で、長谷部はぐるぐるととぐろを巻いていた。のんきに花を咲かせる樹をじとりと見上げて溜め息をつく。

「……すっかり大きくなりやがって」

 深く息を吐ききって、吸い込む。そうすると、ふと花の香に混じってどこか懐かしい気配がした。ゆっくりと振り返ると、神社の石段を誰かが登ってくるところだった。
 足音が近づくとともに、懐かしい気配は近づいてくる。藤色の瞳が大きく見開かれた。そんな、まさか。
 鳥居の向こうに現れたのは、一人の青年だった。只人には見えないはずの長谷部の姿をまっすぐに見つめ、嬉しそうに破顔する。

「長谷部くん」

 自分をそんな風に呼ぶ男は、後にも先にもあの男しかいなかった。長谷部は数百年ぶりに人の姿に変化して、青年の元に駆けだした。二本の脚で進める距離は、気が遠くなるほど長い。脚をもつれさせつつ、たった十数歩を走りきり、青年の腕の中へと飛び込む。

「光忠!」

 青年はまっすぐに飛び込んできた長谷部を難なく受け止め、ぎゅうときつく抱きしめる。
「みつただ、」
 現れた青年の輪郭をたしかめるように両手で触れ、顔を覗き込む。もっとはっきり姿を見たいのに、視界が涙で歪んでよく見えない。それでもあの頃と同じ優しい指は長谷部の目元をそっと拭ってくれた。

「迎えに来たよ、長谷部くん。遅くなってごめんね」
「本当だ、馬鹿、こののろま」

 しがみつく長谷部を抱きしめる腕の力強さも、服越しに伝わる体温も鼓動も、若かりしあの時と瓜二つだった。こちらを見つめる優しい瞳も、しっとりと濡れている。雨に濡れた柚子の実のような瞳だ。
 懐かしさと愛おしさで、とうとう長谷部は顔をぐちゃぐちゃにしてわんわんと泣き出した。

「ばか、生まれ変わるのが遅すぎる。おまえどこで道草食ってたんだ。怠慢だ」
「ごめん」
「絶対に許さん」
「困ったな。どうしたら許してくれる?」

 光忠が白い頬に手を伸ばすと、すり、と長谷部のほうから頬を寄せてきた。

「……俺が許すまでそばにいろ」

 それを聞いて光忠はぱっと周りが明るくなるような笑みをその顔に浮かべ、目の前の体をかき抱く。長谷部の頬を包むように手を添えて上向かせ、吐息の触れる距離で囁く。

「頼まれたって離してあげないよ」

 柚子の大樹が抱き合う二人にそっと木もれ陽を落としていた。

 

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