泥中に咲く+後日談

短編
     

33161文字(全3ページ合計)

泥中に咲く

「すまない。恋人がいるんだ。おまえの気持ちには応えられない」

 僕の一世一代の告白に対して返ってきたのは、予想通りの言葉だった。だから僕も用意していた台詞をなぞるように返す。
「……うん、そうだろうなって思ってた。僕こそ、困らせちゃってごめんね」
 物分かりのいい男の顔でそう声をかけてやれば、淡い藤色の瞳は困惑と罪悪感の色を宿してゆらゆらと揺れた。
「俺を好いてくれたことは嬉しいんだ。だが、すまん。俺は――」
「謝らないでくれ。僕がただ気持ちを伝えたかっただけなんだ。君は何も悪くない」
 僕の言葉に彼はすこしだけ目を伏せた。長い睫毛が象牙色の目元にほんのりと淡い陰を落とす。しゅんと落ち込む彼を励ますように、僕は努めて明るい声を出してみせた。
「それよりほら、顔を上げて。これからその恋人のところに帰るんだろう? そんな顔見せたら心配されちゃうよ」
「……そうだな。ありがとう」
 僕の慰めに対して彼はすこしだけ目元をやわらげ、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、俺はこれで」
 まっすぐに伸びた背中が僕に向けられる。こちらを一度も振り返ることなくゆっくりと遠ざかる。彼らしく実直で優しい、それでもたしかな拒絶だった。
 紫の影が公園の外へとすっかり消えるまで見送り、辺りに他人の気配がないことを確認してから、僕はようやく顔に貼りつけていた笑みをすっと消した。そうして、ようやく誰憚ることなく胸の奥に渦巻いていたどす黒い本音をべしゃりと地面へ吐き捨てる。

「…………早く別れちゃえばいいのに」

 ざ、と南から強く風が吹いた。やわらかな温度の突風は頭上の桜の花びらを幾枚も散らし、空へと高く舞い上げていく。やがて途絶えた風の切っ先、雲ひとつない青空から、花びらたちが僕めがけて雪のようにはらはらと落ちてくる。
 満開の桜の下、うつくしい花吹雪の中で、こうして僕は無様にもフラれたのだった。

◆ ◆ ◆

「っ、ア、」
 喉仏の浮き出る白い首元に食らいつく。血が滲み出る寸前までがりりと歯を立てれば、こちらを包み込む肉筒がぎゅうと痛いほど締めつけてくる。まるで反抗するようにびくびくと跳ねる体を押さえつけ、抉るように腰を送りこむ。
「あ、ァ、っっっ!」
 縋りつくように背に回されていた手のひらが爪を立てた。快感ですっかりぼやけた頭の中、鋭い痛みが背中に走る。追い詰めた鼠からの予想外の反抗は、戦場で敵を追い詰めた時のような高揚感とともに、腹の奥から凶暴なまでの衝動を僕に湧き上がらせた。
 細い腰を握り潰さんばかりに鷲掴む。反射的に逃げようと足掻く体を強引に押さえつけ、僕は欲望のまま荒々しく腰を打ちつけた。湿った肉同士がぶつかる音と、結合部から漏れるいやらしい水音が部屋の中に響く。
「は、ぁ、あ”!」
 組み敷いた体はざらついた呼吸音と呻き声を吐きながら、さらに僕の背中に強く深く爪を立てた。ぎぎぎ、と線状の痛みが脇腹まで続き、とうとう縋るものがなくなった手が赤い筋を引きながらぱたりとシーツの上に落ちていく。

「ッ――!! ひ、ぁ」
「ん、っく……!」

 柔肉のぐにぐにとした締めつけに耐えきれず、より深く身を沈めていく。奥へ奥へ、はらわたの行き止まりへ。そうして辿り着いた禁足地へ、叩きつけるように精を吐き出す。
「は、っ、ん、んん」
 撒いた子種を塗り込めるようにぐいぐいと何度か腰を押しつけてから、ずるりと陰茎を引き抜いた。乱れた息を整えながら、組み敷いた体に重なるようにどさりと体を横たえる。僕一人ならゆったり寝られるサイズのベッドでも、成人男性二人が寝るには少々狭い。否応なく汗でしっとりと濡れた肌同士がぴたりと隙間なく触れた。
 ほどよい疲労感と射精後の満足感にふうとひとつ息を吐いていると、不機嫌そうな掠れた声が「重い」と不満げに呻く。

「終わったならさっさとどけ、うすのろ」

 先程まで僕の下でひんひん鳴いていたとは思えない不遜な態度だった。本当に同一人物か疑いたくなるけれども、首筋には僕がつけた噛み跡がくっきりと残っているし、腹のあたりは彼が吐き出した精液でまだらに濡れている。間違いなく同一人物、うちの本丸の長谷部くんである。
「君だって楽しんでたくせに、随分な言い草だね」
 冷めた口調とは裏腹に、彼の体からはまだ快楽が抜けきってはいないはずだ。その証拠に胸は浅く上下しているし、肌越しに伝わる心音だって速い。つんとかわいらしく尖ったままの乳首を戯れに摘もうとすると、鬱陶しそうに手を払いのけられた。紫陽花色の瞳がぎろりと僕を睨みつける。

「……今日はいやにしつこいな」
「まあね。ちょっとフラれちゃって」
「ふうん」
「え、それだけ?」
「他にどう言えと? 優しく慰めてほしいなら他所へ行くんだな」

 ふんと鼻で笑われる。不服そうな僕の体を押しやり、彼は僕の下からごそごそと這い出ていく。何をするのかと目で追いかけていると、枕元に用意してあった桶から濡れたタオルを手に取り軽く絞りだした。ぼたぼたと水滴が桶の底を叩く音がする。
 そうしててきぱきと自分の体を拭き始める彼の姿を僕はぼんやりと眺めた。噛み跡や吸い跡が点々と散らされた白い肌。贅肉のない引き締まった体。煤色の髪に、紫の瞳。『彼』と同じだけど、違う存在。

「……あの子、今頃彼氏に抱かれてるのかなぁ」
「そういう下世話な勘繰りなんてしてるからフラれたんじゃないか?」
「失礼だな。あの子の前ではいたって紳士的に振る舞っていたよ」
「紳士はセフレなんて持たない」

 痛いところを突かれてしまい、僕はぐうと呻いた。それを見て長谷部くんは愉快げにくつくつと肩を揺らす。

「おまえ性格悪いからな。これに懲りたら反省して性根を入れ替えるか、次はもうすこし擦れた相手でも選んだらどうだ」
「どっちも御免だね。僕は今の僕が気に入ってるし、付き合うなら素直で純粋なあの子がいい」

 僕はもう一枚のタオルを手に取ってやや乱雑に体を拭き始める。ごしごしと強く擦りすぎて、すこしだけ皮膚が赤くひりついた。
「失恋したくせに、未練たらたらだな」
 呆れ半分、からかい半分な調子で向けられた言葉に、僕は思わずむっと唇を曲げる。
「一度フられたから失恋って表現するのは早計だと思うんだよね」
 それを聞いて長谷部くんは器用に片眉だけをひょいと上げてみせた。
「へえ?」
「今後あの子が彼氏と別れて僕とつきあう可能性だってゼロではないわけだし、それに」
 あの日『彼』を目にした時から、僕の胸に宿った熱。それは今も僕の胸の内側を熾火のようにじりじりと焦がし続けている。

「……それに、僕はまだ彼に恋をしているんだよ」

 恋を失うと書いて失恋と言うけれど。この恋心はまだ失われてなんかいないのだ。
 そんな僕の独白に、長谷部くんは「ふうん」とまたやる気のない相槌を打った。ちらりと視線をやれば、いつのまにかベッドの下から寝間着を拾い集め着替え終えていた。
「シャワーくらい浴びてから帰れば?」
 幸い、うちの本丸は個刃のプライベートを尊重するということで、各部屋には簡単なシャワーブースが設置されている。
 僕の提案を聞いた長谷部くんは心底嫌そうに顔を顰めた。

「断る。おまえのところはトリートメントだのヘアパックだのが多すぎて何が何だかわからん」
「君に良さそうなの選んであげるよ。なんならドライヤーまで面倒見るし」
「結構だ。誰かさんのせいでいつもより疲れてるんでな。さっさと自分の部屋に戻ってゆっくり休みたい」

 ふわあ、と大きな欠伸をしてから、長谷部くんは立ち上がり、すたすたと部屋を出ていった。
 一度も僕を振り返らないその背中が、昼間の『彼』と重なる。精液とともに吐き出しきったと思ったもやもやが、再びむくむくと胸の中で育っていく。
「……くそ、」
 僕は誰も見ていないのをいいことにチッと舌打ちをした。こんな時は一度シャワーでも浴びてリセットするに限る。ベッドから出てシャワーブースに入り、勢いよく蛇口をひねる。熱いお湯が雨のように頭上から降り注ぐ。
 頭から首、首から肩、肩から背中へ、じわじわとお湯が伝い落ちていく。背中を滑り落ちるお湯がやけにぴりぴりと染みるのは、きっと長谷部くんの残した爪痕のせいだろう。僕からは見えないけれど、このひりつき方から推測するに、結構深い傷になっているらしかった。

◆ ◆ ◆

 僕がうちの本丸の長谷部くんとこういう爛れた関係になったのは、もう何年も前のことだ。
 うちの主は若い女性で、しかもそれなりに箱入り育ちで、そんな主が成人男性の姿をした僕ら刀剣の性教育などまともにできるわけもなく。政府から基本的な教本を渡されリモートで講義は受けたものの、初めて得た肉体からの欲求とそれに対する好奇心はなかなか収まらなかった。かといって遊郭に通おうにも設立したばかりの本丸にはそんな経済的余裕もなく。
 当時まだ打刀以上の刀剣が少ない本丸内で、数少ない同期だった僕と長谷部くんが、ほんの出来心で肌を合わせるようになるまで三月もかからなかった。
 口吸いに始まり、兜合わせや素股を経てからの菊門を使った交合――いわゆるアナルセックスというやつである――をして、週に何度かお互いの性欲を発散する関係になった頃、僕は演練で運命の出会いをしてしまったのである。

 どこか憂いを帯びた瞳が印象的な、儚げな印象のへし切長谷部だった。戦闘中の凄まじいまでの気迫はどこへやら、「先程は見事な戦いぶりだった。非常に勉強になった」と殊勝な様子で頭を下げる様子は、うちの長谷部くんとは随分と違って見えた。なるほど、これが個体差というやつか、と納得するとともに、それ以来その演練相手――九重本丸の長谷部くんのことが忘れられなくなってしまった。

 それから僕は九重本丸の長谷部くんと再会するため、毎日自主的に演練に参加し、機会を待ち続けた。なにせ、本丸の数が何万と存在する一方、一日に演練で対戦できるのはたった十件と決まっている。それでも涙ぐましい努力の結果、数ヶ月後にようやく九重本丸との再戦が決まり、僕は喜び勇んであの長谷部くんと刃を切り結ぼうと飛び出し、そして見てしまったのだ。

 九重本丸の長谷部くんを背に庇うようにして前に出た燭台切光忠。その燭台切へ「光忠! 気をつけろよ!」と声をかける長谷部くん。刹那の間に交わされた熱い視線、二振りの間の親密な空気感から、あの二振りが特別な関係にあることを一瞬のうちに悟ってしまった。

 演練の結果は動揺した僕から一気に陣を崩されての惨敗だった。情けなさに歯噛みする僕の視線の先、九重の長谷部くんの頬についた泥をあちらの『僕』が優しく指で拭う。それに対してはにかむように微笑む長谷部くんの顔はそれはもうかわいくて、目の前の燭台切に向けられる視線にはこれ以上ないほどの愛情と信頼が込められている。遠くから一見しただけでもわかる、恋仲同士にしか出せない親密さだった。

 それなのに、その時には僕はもうどうしようもないくらいあの長谷部くんに惚れこんでしまっていた。
 あの笑顔を僕にも向けてほしい。あんな風に彼へ触れる権利が欲しい。彼から触れられる立場が欲しい。そして、できることなら背中を預けあい戦場に立ってみたい。

 僕はその後どうにかして九重本丸の長谷部くんと連絡先を交換し、「別本丸からの忌憚のない意見を聞いてみたい」と相談の体で時折連絡を取り合うようになった。
 そうしてしばらくしてわかったのは、九重の長谷部くんはやはりあの燭台切と付き合っているということ、そしてその燭台切に心底惚れ込んでいるということだった。

『燭台切光忠というのは、どの個体も優しいんだな。俺の光忠も優しいが、おまえも負けないくらい優しい』

 そんな風に惚気ながら僕を褒める長谷部くんのメッセージに、端末を握りつぶしかけたことだって一度や二度ではない。
 九重の長谷部くんにとって、あちらの燭台切は強くて優しくて、少し鈍いところはあるものの、彼にとってこの世でいっとうかっこいい刀であるらしい。それを思い知らされる度に、僕はこどものように泣き喚いて地団駄を踏みたい気分になった。
 顔も声も刃も同じなのに、どうして僕は彼にとっての『俺の光忠』になれないんだろう。
 人の良さそうな笑みの下で『早く別れてしまえばいい』と好きなひとの不幸を願ってしまうような身勝手な性根の持ち主だからだと言われればそれまでだけれど、じゃあ、僕は僕のままで幸せになることはできないんだろうか。ありのままの僕では、彼に好いてもらえないのだろうか。
 そんなのって、あんまりだ。

◆ ◆ ◆

 庭の桜はすっかり散って、代わりに青々とした若葉が生い茂り始めている。春紫苑や蒲公英、白詰草がぽつぽつと咲く草むらの上、短刀たちが楽しそうに鬼ごっこをしているのを、僕は縁側からぼんやり眺めていた。
 うららかな午後の陽気も、短刀たちのはしゃぎ声も、なにもかもが薄絹を一枚隔てたようにどこか遠い。あの日告白を断られてからというもの、ずっとこうだった。
 だから、廊下の床板が軋む音も、隣にどかりと座り込む気配にも、気づくのが一瞬遅れてしまった。

「随分と腑抜けた面をしてるな」

 長谷部くんの声だった。ちらりと視線をやると、内番服姿の長谷部くんが隣で胡座をかいていた。服のあちこちに土埃がついているところを見ると、畑当番を手伝った帰りなのだろう。
「……腑抜けていてもかっこいいだろう?」
「ぬかせ」
 僕の精一杯の軽口は、軽く鼻で笑い飛ばされてしまう。
 遠くから鬼ごっこをしていた秋田くんがこちらを見つけてぶんぶんと手を振ってきた。僕もひらひらと手を振って応じる。僕らしいいつもの笑顔を作ることも忘れない。
 けれどその様子を見て、長谷部くんはチッと舌打ちをした。

「いつまでもうじうじとみっともない。そろそろ気分を切り替えたらどうだ」
「ねえ、僕ってそんなにわかりやすい? まだ君以外から指摘されたことないんだけど」
「うつけめ。何年の付き合いだと思っている」

 そう言われてしまうとそれもそうか、と納得した。僕と長谷部くんは顕現時期がほぼ同じで、昔は内番や出陣もよく一緒に組まされていた。計算してみると、かれこれもう十年の付き合いになる。
 それはつまり、彼と寝るようになってほぼ十年経ったということだ。
 僕は庭から長谷部くんへとくるりと視線を移した。
 うちの本丸の長谷部くんは、九重本丸の長谷部くんとは随分違う。九重の長谷部くんが野に咲く瑠璃唐草だとしたら、今目の前にいる長谷部くんはまるで湿地に咲く花菖蒲だ。大輪の花は艶やかで美しいけれどやや主張が強く、そのくせ普段は鋭い葉でかっちりと武装されている。
「……なんだ」
 僕のじろじろと遠慮のない視線に、長谷部くんは居心地悪そうに身じろいだ。それでも負けじとこちらへ睨みつけるように視線をぶつけてくる気の強さは、彼の美点のひとつだと思う。

「あ」

 こちらを見つめる長谷部くんの頬に土汚れがついてるのが見えたので、何気なく手を伸ばして指で拭う。長谷部くんは怪訝な顔こそしたものの、僕の手を特に拒むこともなく受け入れている。
 不意にいつかの演練場での光景を思い出した。お互いを見つめ微笑み合う、九重の二振りの幸せそうな様子。あの燭台切光忠を斬り伏せて、九重の長谷部くんを奪ってやりたいと何度欲したことだろう。

「燭台切?」
「……なんで、君じゃなかったんだろうなぁ」

 触れたままの頬の筋肉がぴくりと動いた。僕は気にせずするりと指を滑らせ、薄く開いた唇にそっと親指を添える。

「僕が好きになったの、君だったらよかったのに」

 そうしたら、同じ本丸出身で気心の知れたもの同士、きっとなんの障害もなくすぐに付き合うことができたのに。こんな無様な姿になんかならなくても済んだのに。ひとの心というものは本当にままならない。

「……俺がおまえに告白されてほいほい頷くとでも?」
「うん。だって君、僕のことそれなりに好きだろう?」

 長谷部くんは嫌いな相手に自ら抱かれてやるほど酔狂な性質ではない。僕に対して一定以上の好感や親しみを持っているからこそ、この爛れた関係を受け入れていることくらい、わざわざ言われずともわかる。それこそ、何年の付き合いだと思っているのか、というやつである。

「体の相性だっていいし、お互いのことだってよく知ってる。もし僕達が恋人だったら、結構うまくやれると思うんだよね」
「自惚れもそこまで行くと笑えるな。そんなんだから振られるんだ」

 さりげなく首元のジッパーを下げようとしていた手をぱしりと叩き落される。
 長谷部くんはさっと手櫛で乱れた髪を直し、襟元を正した。きっちり喉のあたりまで閉ざされた襟の奥には、きっと僕の残した噛み跡がまだ残っているのだろう。僕の背中の傷と同じように。
「ねえ、長谷部くん明日非番だよね? 今晩抱かせてよ」
「土下座して頼むなら考えてやる」
 高慢な言い草にすこしむっとしてしまう。やっぱりうちの長谷部くんはかわいげというやつが足りない。

「長谷部くんはさぁ、もうちょっと九重の長谷部くんからかわいげや素直さってやつを学ぶべきだと思うんだよね。そしたら僕だって君のこと好きになるかもしれないのに」
「おまえこそ、九重の燭台切から誠実さとやらを学んだらどうなんだ」

 ぎぎ、とお互い睨み合って、同時にふんと横を向いた。
 ふと空を見上げると、先程まで晴れていた空はいつの間にか灰色に曇っていた。あたりから湿った土の匂いも立ち上っている。雨が近いのを感じたのだろう、庭の鬼ごっこは解散になったようだった。
 ぽつ、ぽつ、と雨粒が降ってくる。僕は裏庭の方に洗濯物が干してあったことを思い出した。あの量を屋内に取り込むにはいくら人手があってもいいはずだ。この場から立ち去る口実にもちょうど良かったので、これ幸いと僕は立ち上がった。
「ちょっと洗濯係を手伝ってくるよ。君も早く着替えなね」
 せめて身だしなみくらいは九重の長谷部くんくらい可愛くしなよ、と嫌味を込めて付け足すと「余計なお世話だ」と返ってきた。

「そもそも、その九重の長谷部とやらだって、どうせ裏があるに決まってる。へし切長谷部だぞ、絶対にどこか拗らせてる。賭けてもいい」
「それはないね。あの子は天真爛漫で、可憐で、一途で、素直で、とにかくかわいいんだよ。君みたいな性悪とは違う」

「へえ?」
 煤色の右眉がひょいと上がる。
「性悪、性悪と来たか。なるほど」
「良くはないだろう」
 まあな、と首肯してから腕組みをし、長谷部くんは唇を舐めながらこちらを見上げてきた。濡れた唇がにんまりと弧を描く。
「そうだ、いいことを思いついたぞ」
 どこかで稲光が閃いた。閃光に照らされた長谷部くんの瞳が妖しく光る。

「そいつの彼氏、俺が寝取ってやろうか」

 どおん。遠くから腹に響くような轟音が鳴り響いた。

◇ ◇ ◇

「ねえ、長谷部くんって処理の方はどうしてるの?」

 そもそもの関係の始まりは、燭台切のその一言からだった。

 忘れもしない、水無月も終わりの頃だ。縁側で並んで晩酌をしていた時に、不意にそんなことを言われた。 
「は?」
 眉間に皺を寄せて聞き返す俺に、燭台切は笑みを深くしてから手元のグラスをぐいと飲み干した。
「下の処理だよ。男の体で戦の後とかだと、なんというかほら、溜まるだろう?」
 盆の上に切子のグラスがことりと置かれた。先日給金をはたいて買ったという深い青色をした江戸切子に、今度は真っ赤な葡萄酒が注がれる。「君もどう?」と瓶の口を向けられたので、ありがたくいただくことにする。
 日本酒と違い、こういった洋酒の良し悪しは未だによくわからないが、注がれた葡萄酒は燭台切の用意したつまみによく合った。内心で舌鼓を打ちながら、俺はううんと首をひねった。

「どうと言われても、別に普通だと思うが。教本通り、適当に擦って、出して、それで終わりだ。人の体というのは実に面倒だな」
「うん、面倒だ。食欲に睡眠欲、――それに、性欲」

 赤い舌が酒で濡れた唇をちろりと舐める。吸い寄せられそうになる視線を無理やり外して、俺はグラスを手の中でくるりと回した。薄い玻璃の中で葡萄酒がぐるぐると渦を巻く。

「……何が言いたい」
「一人で処理するより、二人で協力して欲を発散させるほうが気持ちいいらしいんだ。興味ないかい?」
「というと?」
 続きを促してやると、燭台切はどこか悪戯っぽく笑ってみせる。
「魔羅を合わせて一緒に擦ったりとか、尻の穴に出し入れしたりだとか。君の元の主だってお気に入りの小姓を抱えていただろう? ああいうのだよ」
「あの男の話はするな。不愉快だ」
 ぴしゃりと話を遮れば、ひょいと肩を竦められたものの、燭台切は懲りない様子で「でもさぁ」としつこく食い下がってくる。

「気持ちがいいこと、君だって興味あるだろう?」

 今思えば、それに頷いてしまったのが運の尽きだったのだと思う。

 他人の手で、舌で、唇で性器に触れられる気持ちよさを互いに教えて、教えられて。回数を重ねるうちに触れる箇所も時間も多くなっていった。
 初めてあいつが俺の中で果てた時。びゅくびゅくと腹の奥へと注ぎ込まれる精液の感触、満足げに息を吐き倒れ込んでくる体の重みに、嫌悪感よりも満足感や幸福感を得てしまった時、俺はようやく自分が随分前から燭台切に惚れていたことに気がついてしまった。
 その頃にはもう既に燭台切は俺のことを体のいいセフレとしてしか見てなかったし、俺もそれを良しとしていた。今更「実は好きでした」なんて言えるわけがない。
 それでも、と思っていた。いつか、あいつも同じ気持ちを抱いてくれるんじゃないか。俺のこの気持ちと同じものを、返してくれるんじゃないだろうか――。
 それが都合のいい夢だったと思い知らされたのは、燭台切とセックスするようになって数年後のことだった。

 ――長谷部くん、どうしよう。僕、好きな人ができちゃった。

 燭台切は、たしかに俺の願い通り恋をしてくれた。ただし、その相手は俺ではなかった。

 ――九重本丸というところのへし切長谷部くんなんだ。すごく真面目で、かわいくて、ああもう、なんて言えばいいんだろう。

 同じ姿、同じ声をしている俺とは違う『俺』をあいつは選び、俺は選ばれなかった。

 ――これはきっと、運命の出会いだよ。

 俺はあいつの『運命』にはなれなかった。ただ、そのことを思い知らされた。
 そんな気持ちをずっと抱えていたものだから、燭台切がフラれたと聞いた時は内心小躍りしたい気分だった。今度こそあいつが俺を見てくれるのではないかと期待したのだ。
 だけど燭台切はそれでも九重の俺を好きだと言い放ち、幾日経っても失恋の傷を引きずり続け、あろうことか俺にこう言ったのだ。

「僕が好きになったの、君だったらよかったのに」

 俺からの好意だって薄々感づいているだろうに、そんなことを言うのだ。なんて酷い男に惚れてしまったのだろう。もう乾いた笑いしか出ない。
 九重の長谷部が妬ましかった。愛する恋人を手に入れてなお、うちの燭台切の心を惹きつけてやまない、俺ではない『俺』。
 どうして俺じゃなかったんだ。どうしてその『俺』は選ばれて、この俺は選ばれなかったんだ。どうしておまえばかりが選ばれるんだ。どうして。なんで。
 だからいっそ九重の長谷部から恋人を奪ってやろうと思った。何もかも持っているのなら、何も持っていない俺がひとつくらい貰ったってバチは当たらないはずだ。

 だって俺もおまえも同じへし切長谷部なんだから。俺ばかりがこんな思いをするなんて不公平だろう?

◇ ◇ ◇

 昼過ぎの万屋街は活気に溢れていた。
 ここには各本丸から審神者や刀剣男子たちがやって来る。大抵は店で買い物をする者が多いが、街外れにある公園や娯楽施設で余暇を楽しむ連中も多い。すこし裏通りまで行けば花街なんてのもあって、そちらの方もそれなりに盛況だという話だ。
 俺はアイスコーヒーのカップを手にした状態で、目的の人物が店から出てくるのを待っていた。
 紺色の暖簾を黒革の手袋を纏った手がひょいと払い、見慣れた男の横顔が見えたタイミングで、俺はその男に向かって飛び出した。

「うわっ」

 どん、と俺の体に衝撃が走る。まるで壁にでもぶつかったかのような感触だった。勢い余って尻餅までついてしまい、手の中でプラの容器がぐにゃりとひしゃげた。泥水色の液体が一気に溢れ出て、俺の服や体をしとどに濡らす。
「ごめんね! 大丈夫かい?」
 慌てた様子で燭台切光忠がこちらを覗き込んでくる。気遣わしげな色を浮かべた隻眼は、俺の好いた男のものよりもすこし淡い色をしていた。
 俺は差し出された手を掴み、立ち上がりながら口を開く。

「ああ。すまん、こちらの前方不注意だった」
「びしょ濡れじゃないか。本当にごめんね」
「気にするな。放っておけばそのうち乾く」

 気にするな、とは言ったものの、気にしてもらわなくては困る。燭台切光忠という刀はどこの本丸でも格好に気をつける個体が多いと聞く。俺が濡れたカソックの裾をこれ見よがしに絞ってみせていると、案の定その燭台切光忠はさらさらとメモに何かを書きつけてこちらへと渡してきた。
「これ、僕の連絡先。あとで連絡をくれないかな。もし良ければ、今度お詫びをさせてほしい」
 本丸の名前と個人端末のアドレスが書かれた紙だった。礼を言って紙を受け取り、俺は足早にその場を立ち去った。
 五分ほど歩いて人気の少なくなったあたりまで来て、ようやく手の中の紙を見る。

『備前国九重本丸所属 燭台切光忠 ×××-××××-7374』

 目的のものは拍子抜けするほど簡単に手に入ってしまった。

 九重の長谷部とやらがうちの燭台切にぺらぺらと惚気てくれていたおかげで、九重の燭台切が毎週この日にこのあたりの店に買い出しに来るということはわかっていた。そうすればあとは簡単で、九重の燭台切が通りがかるのを待ち伏せし、偶然を装って知り合い、連絡先を手に入れるだけだ。まさかたった一回の出会いで目標を達成できるとは思っていなかったが、これは実に幸先がいい。
 いつか演練場で見かけた、幸せそうに寄り添う九重の燭台切と長谷部の姿を思い出す。それを俺がこれから引き裂いてやるのだと思うと、鼻歌でも歌い出したい気分だった。
 くつくつと笑いながら、俺は連絡先が走り書きされた紙に軽いリップ音を立てて口づける。

 ――さあ、どう料理してやろうか。

◇ ◇ ◇

 九重本丸の燭台切光忠というのは、想像していたとおり優しくて誠実な男だった。
 俺が連絡を取るとすぐに詫びの品を贈らせてほしいと言い出してきて、それならと甘味処で奢ってもらう約束を取りつけた。
 そこからは俺の演技力の見せどころで、本丸で孤立しがちだという悩みをでっちあげ、相談の体でそれからも何度か会ってもらうことに成功した。
 九重の燭台切は親身になって相談に乗ってくれ、優しい言葉をかけアドバイスを出し、俺はそれらに感謝してみせた。
 ただ、じっくり数ヶ月かけてそれなりに親しいと言える仲にはなったものの、向こうのガードの固さは思っていた以上で、帰りが遅くなったり個室のある店に誘ったりしようものなら、「ごめん。恋人がいるから、そういうことはできないんだ」とやんわりと断られた。
 そう言われてしまうとこちらも強く出るわけにはいかず、ここ最近はどうにも手詰まりになりつつある。

「それで、進捗はどうなの?」
 燭台切――こちらは正真正銘うちの本丸の燭台切光忠である――は、俺の首元に唇を落としながら尋ねてきた。
「……正直、どうにも向こうのガードが固くて攻めあぐねている」
「大口叩いてたわりには難航してるじゃないか」
 燭台切の舌が軟体動物のように俺の首筋を這っていったかと思えば、鎖骨のあたりにじゅっと強く吸いつかれた。ちりっとした痛みが走り、思わず眉を寄せる。

「ん、……おまえの方こそ向こうの長谷部とはどうなんだ。一応オトモダチには戻ってるんだろう?」
「恋人が最近出かけることが多くて寂しいって零してたよ」
「いい傾向じゃないか」

 二人の仲に付け込むための糸口としては悪くない。
 ところが燭台切は渋面を作りながら、ごつ、と俺の肩に額を当てた。
「でも恋人に依存しすぎるのもよくないって、最近はガーデニングを趣味にし始めたらしいんだ。今度育てたハーブを使って一緒に料理するとか」
「ラブラブだな」
「会えない時間が愛とハーブを育てちゃってるんだよ」
 逆効果だ、と呻く燭台切の頭をおざなりにぐしゃぐしゃと撫でてやる。燭台切と九重の長谷部がうまくいくことは望んでいないものの、あちらのバカップルの間に大した亀裂が入ってないというのなら俺としても不満だ。
 幸せな二人の仲を引き裂いて、九重の長谷部を苦しめることが俺の目的なのだから。
 はあ、と溜め息をつきながら、燭台切の不埒な指先は俺の体をあちこち這い回る。

「もういっそ媚薬でも一服盛ってとっとと既成事実作っておいでよ」

 実は最近はその作戦も視野に入れていたのだが、惚れた男からとっとと他の男に抱かれて来いと言われるのは、自分から言い出したこととはいえ結構堪える。
 本当にこの燭台切というやつは酷い男だと思う。だけど今は俺だって十分に酷い男だ。どろどろと醜い感情に身を任せ、罪のない恋人同士を不幸にしようとしている。
 きっとこういう汚らしいことを考えて卑怯な行いばかりしているから、俺達は幸せになれないんだろうなぁと、肌の上を這い回る快感に喘ぎながら考える。
 九重の燭台切は、優しい。優しくて誠実で、絵に描いたような紳士だ。もしあんな男と愛しあえたなら、間違いなく幸せになれるのだろう。ああ、嫌だ。妬ましい。

「……ねぇ、誰のこと考えてるの」
 ぐりっと強く乳首を抓られ、鋭い痛みと快感が走る。
「ぁ、ばか、痛、」
「まさかあの燭台切に情が湧いたりしてないよね?」
「してな、ぁ、」
 ローションに塗れた指を一本、無理やりに後膣に埋め込まれて息が止まる。それでも慣れた体はすぐにそこからでも快楽を拾い始めてしまう。我ながら浅ましい。
「っ……あ、ぅ、んんっ」
「君まであの燭台切がいいとか言い出したら、僕ちょっと立ち直れないんだけど」
 拗ねた口調でそう言われて、思わず笑ってしまった。
「……ははっ」
 酷い男だ。本当に酷い。人の好意を今まで散々無視しておいて、それでも俺がよその男に取られるのは嫌だと言う。まるで子供みたいな執着心だ。それなのに、その幼稚な独占欲を向けられることが、こんなにも嬉しい。

 付喪神にあの世があるのなら、きっと俺達は二人とも地獄に落ちるだろう。

 底なし沼のようなこの汚泥の中で、きっとどこにも行けず腐っていく運命なのだ。

◆ ◆ ◆
 

 僕が九重の長谷部くんからフラれてから半年、うちの長谷部くんが九重の燭台切と交流するようになってから数ヶ月ほどが経った。
 季節はすっかり秋になり、庭の桜の木々は橙色に染まった葉をぱらぱらと落とし始めていた。

『今日はバジルとローズマリーが収穫できたぞ。さっそく夕飯に使ってもらう予定だ。そっちの本丸では今どんな花が咲いているんだ?』

 あれから僕は九重の長谷部くんとまた元の友人関係に戻りつつあった。今日もさっそくそんな画像つきのメッセージが届いて、気分が沈む。名言はされていないものの、そのバジルを使って調理するのは向こうの僕なのだろうことは容易に想像できる。畜生。
 とりあえず今はどんな花が咲いていたっけと花壇のほうを覗いてみれば、こちらではうちの長谷部くんが端末を覗き込んだまま難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
 気になって声をかけてみると、長谷部くんはのろのろと顔を上げてこちらを見た。

「九重の燭台切から、こちらでは今どんな花が見頃なのかと聞かれてな。花壇に咲いている花を調べていた」
「ああ。君、そういうの疎いもんね」

 うちの長谷部くんはあまり植物に興味がない。食べられる野菜や野草ならまだ興味を持てるらしいが、ここの花壇には観賞用の花しか植えられていない。おそらく端末で何の花が咲いているのかひとつひとつ画像検索していたのだろう。
 花壇に視線を移せば、咲いているのはざっと四種類ほど。
「これがマリーゴールドで、その隣がアスター、そこの鶏のとさかみたいな大きな花がケイトウ、こっちの丸い花が千日紅だね」
「待て、メモを取る」
 長谷部くんが慌てて端末に言われたことを入力していく。うちの長谷部くんは他の本丸の長谷部くんよりも比較的奔放な個体だが、眉間に皺を寄せながら液晶に指を走らせている様子はいかにも生真面目で、へし切長谷部らしい。

「……よし、これでどうにか返信できそうだ」
 そう言って端末の画面を消した長谷部くんが怪訝そうにこちらを見上げた。
「そういえば、おまえは何の用なんだ」
「僕もちょうど同じことを向こうの長谷部くんから聞かれててね。今何の花が咲いてるのかって」
「ふうん。二人揃って頭の中がお花畑なんだな」
 あんまりな言い草だったが、長谷部くんのこういう口さがないところが僕は結構気に入っている。
 ひどいなぁと苦笑しながら、長谷部くんの髪についていた枯葉をひょいと摘まんで捨てる。

「……あれ。長谷部くん、ヘアオイルつけてる?」
 よく見れば髪にいつもより艶があるし、指通りもするりとなめらかだ。
「ん? ああ、九重の燭台切から椿油を分けてもらってな。せっかくだからつけてみた」
「ふうん」
 僕の部屋のヘアケア用品は「ごちゃごちゃしててよくわからん」と言って触れたこともない長谷部くんが、九重の燭台切から貰った椿油はおとなしくつけている。
 ただそれだけのことなのに、なんだかすごくもやもやする。

「君の髪質だったら、別のヘアオイルの方が合うと思うな。九重の僕はセンスがないね」

 するりと口から溢れ出た嫌味は、自分で思っていたよりも不機嫌な響きを孕んでいた。藤色の瞳が意外そうにぱちりと見開かれ、次いでにんまりと細められた。
「なんだ、嫉妬か?」
「馬鹿じゃないの」
「だろうな。……さて、用も済んだし、俺は部屋に戻るぞ」
 庭の土をさくさくと踏んで長谷部くんが母屋の方へ戻っていく。花壇の前にひとり残された僕は、もう一度「馬鹿じゃないの」と呟いた。
 僕はただ、恋敵が寄越したものを長谷部くんがおとなしく使ってることがなんとなく面白くなかっただけで。

 今更僕が長谷部くんに嫉妬するなんて、そんなことあるわけがないのに。

◆ ◆ ◆

「九重の燭台切の件だがな、なんとかなりそうだ」
 数日後、長谷部くんから自室に呼び出され告げられた言葉に、僕は一瞬言葉を失った。
「花街にある店で媚薬を買ってみた。飲みに誘って酒に混ぜて飲ませてみようと思う」
 どうやら一向に作戦が進まないことに焦れた長谷部くんは、とうとう強硬策に出ることにしたようだった。
「しかも一見普通の居酒屋だが、二階に宿泊用の座敷がある店も見つけてな。俺は酩酊した九重の燭台切を座敷に連れ込んで既成事実を作るから、おまえは合図したらどうにかして九重の長谷部を連れてその現場を押さえに来い」
 そして僕は僕で傷ついた九重の長谷部くんを慰め、そのままいい雰囲気に持っていくと、そういう作戦らしい。

「強引というか、行き当たりばったりというか……」
「こうでもしないとあの燭台切、俺とは手すら繋ごうとしないからな。こっちも形振り構ってられん」
 どうやら九重の二人の貞操観念は玉鋼よりも堅いらしかった。

「……でもさぁ」
「なんだ」
「そもそもなんで君はそんなに向こうの燭台切を寝取りたいわけ?」

 以前から僕の恋愛に対しては「一切興味がない」という態度で一貫していた長谷部くんが、頼まれたわけでもないのに急に身を呈して応援し始めるだなんて、改めて考えてみればなんだか妙だ。
 長谷部くんはすいと窓の外に視線をやった。酉の刻だというのに外はもうすっかり日が暮れて、窓ガラスには辛気臭い顔をした僕達が映っている。すこしだけ開いていた窓の隙間から、ひやりとした夜風が吹き込んできた。

「別に、こんなのただの遊びだろ。狙い通り寝取れたら俺の勝ち、寝取れなかったら負け。ゲームみたいなものだ。ただの気まぐれだよ」

 一瞬納得しかけたけれど、どうにも腑に落ちない。僕の目の前にいる長谷部くんは、そういう賭け事めいた――しかも賭けているのは自分自身である――遊びを楽しむタイプではないはずだ。

「……君は遊びでよその男と寝るの?」
「おまえがそれを聞くのか?」

 網戸越しに虫の音が聞こえてくる。じいじい、りいりい、ぎちぎち。たっぷり十秒ほど続いたその素朴な合奏を切り裂くように、長谷部くんが舌鋒鋭く告げてくる。

「なんだか勘違いしてるようだから言わせてもらうが、俺達はただのセックスフレンドだ。それ以上でも以下でもない。俺が誰と寝ようが寝まいが、本来おまえには無関係だろう」
「……それは、そうだけど」
「今回はたまたま利害が一致してるんだから、おまえはただ黙って漁夫の利を掻っ攫う隙を窺っていればいいんだ」

 長谷部くんはすっくと立ち上がり、すたすたと障子戸から廊下へと出ていった。
「どこ行くの」
「どこだっていいだろ」
 部屋の主が出ていってしまっては、これ以上ここに残っていても仕方ない。渋々と立ち上がって僕も自分の部屋に戻ることにする。
 廊下に出る寸前、ちらりと後ろを振り返る。静まりきった部屋の中、飾り気のない棚の上にぽつんと置かれたもの――茶色いガラス製の小瓶には椿の花が描かれた和紙のラベルが貼ってあり、実に洒落ている。
 それがなんだか無性に癪に障って、僕はふんと鼻を鳴らした。

◆ ◆ ◆

 長谷部くんが既成事実とやらを作る日、僕は甘味処の食べ放題の予約が取れたからと、九重の長谷部くんを誘い出すことに成功した。
 万屋街でも一、二を争う人気店の予約を取るのはそれなりに骨が折れたが、色とりどりのタルトやケーキを前に目を輝かせる想い人の姿を見たら疲れなんて一気に吹き飛んでしまう。
 つやつやのナパージュがかけられた季節のフルーツタルトや、焼き立てのチェリーパイを皿の上にこんもりと積み上げながら、長谷部くんはふんにゃりと相好を崩している。
「あれもこれも美味いのに、どれだけ食べても同じ値段というのが未だに信じられんな」
 そう言ってむしゃむしゃと甘味を頬張る姿はどこか小動物に似て愛らしい。
「喜んでもらえたなら嬉しいよ」
 僕は栗入りのチョコレートケーキにフォークを入れながら答える。ブランデーが入っているのか、口に入れるほんのりと酒精を感じる。

「だが、本当に俺で良かったのか? せっかくの人気店なんだし、そっちの本丸の奴を誘ったほうがよかったんじゃないか?」
「うーん、うちの本丸、主の影響か辛党が多いんだよね。短刀だけじゃなくて、たとえば長谷部くん――あ、うちの本丸の長谷部くんね、彼も甘味より酒とつまみを寄越せってタイプで」

 うちの本丸にはまだ小豆くんがいないのだが、お菓子を作るというのが趣味らしい彼がうちの本丸に来たらさぞかしがっかりするのだろう。
 僕の説明を聞いた九重の長谷部くんは目を丸くした。

「どうしたの?」
「いや、燭台切がそっちの長谷部の話をするのを初めて聞いたと思ってな」

 たしかに僕は今まで意図的に九重の長谷部くんの前でうちの長谷部くんの話をしたことがなかった。僕達が爛れた関係だと悟られたくなかったからだ。片思いしている相手の前でぬけぬけとセフレ相手の話ができるほど僕も図太くはないのである。
「そっちの俺はどんな奴なんだ?」
 投げられた問いが予想外で思わず固まってしまう。長いことうちの長谷部くんが普通だと思っていたし、もう存在しているのが当たり前になりすぎて、改めてどんな奴かと聞かれると困る。戸惑いをケーキと一緒に咀嚼して飲み込んで、考えをまとめていく。
 セフレであることにはけっして触れないようにしながら、僕は口を開いた。

「まじめで頑固で融通がきかなくて、でも変なところが大雑把というか何というか……最近はそうでもないけど、昔は割と無鉄砲だったし」
「ほうほう」

 興味深そうに頷かれ、続けてほしいと視線で促される。リクエストに応え、僕はとっておきの逸話を話すことにした。

「昔、厚樫山で彼が中傷になったことがあってね、僕が帰城しようって言ったら何て言ったと思う? 『手入れをすれば治るから問題ない』って。ストラを包帯代わりに傷口に巻いて止血して、そのまま進軍しようとするものだから、殴って気絶させてそのまま連れ帰ったよ」

 その翌日、手入れ部屋から出てきた長谷部くんと大喧嘩になったのは黙っておく。その出来事をきっかけに長谷部くんとよく話すようになり、酒を酌み交わすようになったのだ。
「一度思い詰めたら突っ走りがちなのはどこのへし切長谷部も一緒か」
 くすくすと笑いながら、九重の長谷部くんがティーカップに指をかけて持ち上げる。

「君はそんな風には見えないけどな」
「俺だって顕現したばかりの頃はそんな感じだった」

 ごくりと紅茶を飲んでから、藤色の瞳が懐かしそうに細められる。彼が今ティーカップの水面に見ているのは、きっと彼の恋刀の姿なんだろう。なんとなくそれがわかってしまう。
 あの愛おしむような視線を僕にも向けてくれないだろうか。そんなことを思いながら向かいの長谷部くんを見つめていると、長谷部くんがひとつ深呼吸をして、「ひとつ聞いてもいいだろうか?」と問いかけてきた。

「おまえとおまえのところの長谷部は、どうして今日俺と光忠を別々に呼び出したんだ?」

 反射的に顔が強張りそうになるのをなんとか堪え、僕はごく自然な笑顔を作って見せた。

「なんのことかな?」
「今更隠さなくてもいい。近頃おまえのところの長谷部がうちの光忠と連絡を取り合っていることくらい知っている」

 どうやら、九重の二人はこちらが想定していたよりも鋭かったらしい。僕は浮かべていた笑みをすっと消した。

「……いつから気付いてたの」
「確信を持てたのは最近だが、初めから奇妙には思っていたんだ。光忠が会ったという長谷部の本丸名に聞き覚えがあったから」

 そう言って九重の長谷部くんはポケットから端末を取りだし、二枚の画像をこちらに見せてきた。
「花壇に咲いている花の画像だ。一枚目は俺に送られたもの。二枚目は光忠に送られたもの。違う角度からのようだが、同じ花壇の写真だ。花の並びが一致している」
 どうやら、それで僕と長谷部くんが同じ本丸に所属していると確信を持った、というわけらしい。

「随分回りくどい真似をするなぁ」
「真正面から聞いても素直に答えてくれないだろうからな」

 へし切長谷部の中でも比較的温厚でおっとりした個体だと思っていたけれど、彼も元は軍師の刀だ。うちの長谷部くんも僕も、気付かないうちにすっかり彼らの術中に嵌まっていたようだ。

「もう一度聞くぞ。何の目的があって俺達を同時に別の場所へ呼び出したんだ?」
 ここまでバレてしまっていては、今更知らぬ存ぜぬは通らないだろう。僕は今までどうにか被りきっていた善人の仮面をかなぐり捨て、はは、と乾いた笑いを浮かべた。

「……別に、君達がお互い浮気を疑って仲違いしたら面白いかなって思っただけだよ。あわよくば君が僕に靡いてくれればいいかなって考えていたけど、どうも無理そうだ」

 そう言って椅子の背もたれにぎいと体重を預ける。何もかもおしまいだ。
 こんな卑怯な真似をする僕を、きっと九重の長谷部くんが好きになってくれることはないのだろう。これからもずっと。
 どうせ嫌われたのなら、いっそこの世で一番くらいに憎んでほしい。そう思って僕は口を開く。

「今頃、向こうの僕はうちの長谷部くんが連れ込み宿に引きずりこんでるだろうね。媚薬も盛るらしいし、どうにかヤれてるといいんだけど」
 長谷部くんの顔色がさっと変わった。
「……おい、それは。それは、駄目だろ」
「駄目なのはわかってるよ。でもこうするしか」
「違う! くそっ、だとすると時間がない!」
 テーブルに紙幣を叩きつけるように置き、椅子を蹴飛ばす勢いで長谷部くんは立ち上がった。事態を飲み込めずに呆気にとられたままの僕の腕を掴んで叫ぶ。

「いいからおまえも来い!」
「えっ、え?」

 そのまま強引に店の外に引きずり出されてしまう。周囲の注目を盛大に集めているのを背中に感じながら、この店もう出禁になっただろうな、と一瞬頭の隅で考えてしまった。美味しかったのにもったいない。
 想定外の出来事に目を白黒させているうちに連れて来られたのは、一軒の店の前だった。うちの長谷部くんが言っていたとおり、外目からではただの居酒屋にしか見えない。
 その店の扉を蹴破るようにして中に押し入った長谷部くんが「光忠!」と叫ぶ。呼ばれているのは当然ながら僕ではない。
 店の奥、長い暖簾で半個室になっている席から「こっちだよ」と声が聞こえた。
 紺色の麻布をくぐって現れた燭台切光忠に九重の長谷部くんが駆け寄っていく。

「大丈夫だったか!?」
「僕は大丈夫。でも、なんというか、ちょっと困っていて」

 金色の隻眼が見やった先には、うちの長谷部くんが座っていた。僕の方を見て驚いたようにまるく開かれた瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちている。
 うちの長谷部くんの泣き顔なんてこれまで見たことない。後頭部を殴られたかのような衝撃を受けつつ、僕も慌ててそちらに駆け寄った。泣き続ける長谷部くんの肩を掴み、顔を覗き込む。

「長谷部くん、どうしたの? こいつに泣かされたの?」
 九重の長谷部くんよりもすこし赤みがかった菖蒲色の瞳からは、ひっきりなしに涙が溢れ、止まる様子がない。あの気の強い長谷部くんが泣くだなんて、どれだけひどく問い詰められたんだろう。僕は振り返って背後の燭台切に詰め寄った。
「いくらこっちに非があるとはいえ、泣かせるなんてあんまりだろう!」
 爽やかで整った顔立ちをしているのになんて奴だ。
 勢いに任せ胸ぐらを掴んでやろうと腕を伸ばしかけた時、僕の服の裾を後ろから掴まれる。うちの長谷部くんの手だった。

「違う、燭台切。こいつは悪くない」
「なんで庇うんだよ!」

 そう言って再び長谷部くんのほうに視線をやる。泣き腫らした顔の長谷部くんなんて初めてで、どうしたらいいかわからない。いつもなら適当に茶化せるのだろうけど、この時の僕は頭に血が上っていた。

「それとも、まさか実は君もこの燭台切のことが好きだとか言い出さないよね?」

 そう口にした瞬間、頭に衝撃を受けた。比喩ではなく、物理的な意味でだ。一瞬遅れて頬に痛みが走り、殴られたのだと気づいた。体勢を崩しかけたのを体幹で支えて耐える。逸れた視線を戻すと、長谷部くんが斜め下から僕を鋭い目つきで睨みつけていた。そうして、衝撃の一言を口にする。こちらは精神的な方の衝撃だった。

「俺が好きなのはおまえだ!」
「………………………………………………………………は?」

 見つめ合う僕達の背後で、二人分の溜め息が聞こえた。

◆ ◆ ◆

 そちらでよく話し合ってくれと言われ、後日またこちらから説明と謝罪に伺う約束をしてから、九重の彼らとはいったん別れることになった。
 本丸への道中、ぽつぽつと事情を聞くだに、やはり長谷部くんの方も向こうの燭台切から企みを看破され、問い詰められていたのだという。
 しかし、そこからどういうわけか長谷部くんの身の上話になったらしく、話しているうちに感極まって泣いてしまったと、あれはそういう現場だったらしい。
 本丸について長谷部くんを彼の部屋に送り届け、そのまま室内で話の続きを聞く。

「『君が僕を通して他の燭台切を見ているなってことには気づいてたよ。きっと君はその燭台切が好きなんだろうなってことも』と言われた。誰にも――おまえ自身にも勘づかれたことはなかったのに」

 長谷部くんはそう言って自嘲めいた笑みを浮かべたものの、僕のほうはまだ理解が追いついていない。なにもかもが想定外すぎる。

「待って。じゃあなんで君は向こうの僕を寝取るとか言い出したの?」
「単純に幸せそうなあいつらと、いつまでもこっちの気持ちに気づきもせず恋愛相談してくるおまえにむしゃくしゃした」
「そんなの、もっと早く言ってくれれば僕だって気を遣ったよ」

 言い訳じみた反応をしたものの、即座に鼻で笑われた。
「どうせおまえのことだから面倒になって、『ならセフレは解消しよう』とかなんとか言ってうやむやにして距離を空けるだけだろ」
 それはそのとおりだったのでぐっと押し黙る。長年一緒に過ごしてきただけあって、さすが僕への理解度が高い。
 気まずい思いで視線を泳がせると、卓を挟んだ向かいから静かな声が聞こえた。

「…………おまえの心が俺に向けられないのなら、体だけでも手放したくなかった。それだけだ」

 そう言って目を伏せる彼に、なんて言葉をかけていいのかわからない。謝罪するのも今更だろうし、長谷部くんもそんな言葉は求めていないだろう。それがわかるくらいには長い付き合いだった。
「……僕さ、さっき九重の長谷部くんから君がどんな奴かって聞かれて気づいたんだけど、」
 急にどうしたという顔をして長谷部くんがこちらを見る。
「僕にとって君ってほとんど身内みたいなもので、そこにいて当たり前の存在というか、恋愛対象として考えたこともなかったんだよね」
 自分でもうまく形にできなかった思いをすこしずつ言葉にしていく。

「だから、君が今日九重の燭台切に泣かされたと思ったとき、彼にすごく腹が立って、そんな自分にもびっくりしてさ。僕、意外と君のこと大事に思ってたんだなって」
「……それで?」

 店で別れた後、手を繋いで帰っていった九重の二人の後ろ姿。あの光景を思い出すと今でも胸がむかむかするし、別れちゃえばいいのにと思う気持ちも変わらない。きっと九重の長谷部くんには今日のことで愛想を尽かされただろうけれど、今日まで好きだった相手を明日からすっぱり諦めることなんて不可能だ。おそらく僕はまだ当分引きずるだろう。でも、だけど。

「九重の長谷部くんのことはまだ完全に諦めきれないんだけど、」
「……」
「その次の恋愛相手として、君は悪くないなって思った」

 一瞬の間を置いて、長谷部くんは盛大な溜め息を吐いて天井を仰いだ。

「要するに俺にキープになれと?」
「人聞きが悪いな。君を恋愛対象として前向きに検討するって言ってるんだよ」
「同じだろう。いつまでかはわからんが、結局俺は俺の純情を弄ばれ続けるんだ」

 あーあ、と言って長谷部くんは頬杖をついて僕をじっとりと睨みつける。

「本当に酷い男だよ、おまえは」

 虫のいいことを言っている自覚はある。けれど、こういう性格の僕を好きになったのだからそこは諦めてほしい。そんな気持ちを込めて、僕はにっこりと微笑んだ。

◆ ◆ ◆

 あれから季節は巡り、紫陽花の咲く時期になった。
 僕と長谷部くんはというと、出陣や内番の合間には相も変わらずセックスを楽しむ爛れた関係を続けている。
 大きく変わったことと言えば、セックスの後、長谷部くんが僕の隣で朝まで眠るようになったので、僕の部屋のベッドをセミダブルからダブルへと買い換えたことくらいだ。
 九重の長谷部くんとは今でもたまに連絡を取り合っているものの、一年前よりは頻度が減って、最近は連絡する内容もお互いの近況報告のみになりつつあった。向こうは相変わらず仲睦まじいらしく、先日も一緒に旅行に行ったとのことだった。畜生、早く別れてしまえ、と思うものの、それでも以前よりは胸が痛まなくなっている。
「ん……」
 隣の長谷部くんが寝返りを打つと、うなじに先日僕がつけた噛み跡が残っているのが見えた。かさぶたになっているそれが気になって指でなぞると、くすぐったそうに身を捩られる。
「……起きてる?」
「今起きた」
 ふあ、と大きな欠伸をしながら長谷部くんはむくりと体を起こし、裸のまま床の上をぺたぺたと歩き出した。

「シャワー借りるぞ」

 そう言ってシャワーブースの扉に手をかける彼の背中に「長谷部くん」と呼びかけてみる。
 怪訝そうにこちらを振り向く花菖蒲色の瞳の中にはちっぽけな僕が映っていた。僕の瞳の中にも、きっと小さな彼がいるのだろう。そんな当たり前の事実が、最近はなんとなくこそばゆい。

 僕が失恋したあの桜の季節はとっくに過ぎ去ってしまったけれど。
 季節は巡る。桜は散って夏が来る。色づいた葉が落ち、空から雪が降れば、やがてまた新しい種が芽吹き、花が咲く。何度も、何度でも。

「来週、デートしない?」

 泥の中からだって、花は咲くのだ。

 

同人誌版購入者限定あとがき

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