水底の箱庭

短編
     

27726文字

 金曜の終業後、待ち合わせ場所に指定された居酒屋に行くと、既にジョッキを傾けている黒髪の美丈夫の姿が見えたので、俺は何も言わずに向かいの席に腰を下ろした。
「……またか」
「まただよ」
 そう言ってグビリとビールを飲み干す喉の動きに見惚れてしまったのを誤魔化すように口を開く。

「今度は二ヶ月? 三ヶ月?」
「二ヶ月と十日」
「お前にしてはよく保った方じゃないか」
「……まあ、そうなんだけど」

 俺が店員からお通しの皿を受け取ると、目の前の男、長船光忠は大きく溜息をついた。
「僕を好きになる子ってみんな裏で共謀してるんじゃないかって疑いたくなる時があるよ」
やりきれない、というように首を振る仕草さえキマって見えるのだから、まったくイケメンというのは得だ。
「みんないい子だし可愛いと思ってたよ。僕なりに大事にもしてた。なのに、みんな別れる時は口をそろえて同じことを言うんだ。貴方は誰でもいいんでしょうって」
 ゴン、とやや乱暴にジョッキがテーブルに置かれた。俺はそれには構わず、慣れ親しんだメニューから何品か選んで店員を呼びつけると再び光忠に向き直る。
「『もう顔も見たくない』って言うから僕から別れを告げたのに、『ここで追い縋ってくれないなんて私のこと本気で好きじゃなかったんだね』だよ? 僕は彼女のこと思いやって言ったのにあの仕打ちはないと思わない?」
「追い縋ってやればよかったじゃないか」
「そんな無様な真似はできない」
 光忠はそう言って不満気に唇を尖らせた。
 そういうプライドや格好つけを捨てられるかどうかを試されてたんだろうな、と思ったが言わないでおいた。ぐびぐびと早いペースでジョッキを傾ける光忠の前で、俺は深い深い溜息をつきたい欲求と闘いながら、お通しのたたき胡瓜をつつく。

「……まあ、いつかそのうちお前と合う奴が現れるだろ。光忠はいい奴だから」
「長谷部くん、後半棒読みなんだけど」
「ミツタダハイイヤツダカラ」
「ひどい!」

 光忠は先程まで不機嫌そうに皺を寄せていたのはどこへやら、今はけらけらと笑って楽しそうにしている。かなり酔っているらしい。
 この罪作りな男は、元がきつめの顔立ちなのを気にして日頃から笑顔を心がけているそうだが、意図的な笑顔よりもこうやってくだらない話で屈託なく笑ってる時のほうが何倍も格好がいい。彼女の前で格好つけるのをやめて、普段友人に見せてる顔をちらとでも見せれば恋愛もうまくいくのだろうが、それも黙っておく。
 既に光忠が注文していたらしい冷めかけたモツ煮を大皿から自分の取皿によそい、残りを光忠の方に寄せてやれば、心得たとばかりに光忠が箸をつける。
「とにかく、もうしばらく恋愛はこりごりだよ」
 この台詞は、光忠が別れる度に毎回聞くものだった。
 だがどうせあと一、二週間もすれば顔も性格もいいこの男はまた別の女から言い寄られ、流されるままに付き合い始めるのだろう。学生時代から数えるのも馬鹿らしくなる程繰り返されてきたお決まりのルーティンなので容易に想像がついてしまった。
 味の染みたモツ煮を口の中でぐにぐにと咀嚼しながら、いつもの愚痴に相槌を打つ。
 愚痴が一通り終わると、話題はお互いの近況報告や学生時代の思い出話になった。大学で同じゼミだった奴が結婚したらしいとか、学生時代に酔っ払って羽目を外しすぎて噴水に落ちた時の思い出話だとか。そんな他愛もない話題だ。八年もの付き合いだというのに話が尽きないのは、やはり初対面の時に言われたように気が合うという奴なのだろう。
そろそろ終電の時間も近くなったので、席で会計を頼み店員を待っていると、有線の曲が切り替わった。


『溺れるように恋をしたの
 唇からダイスキの泡を四つ吐いて
 あなたと水底でふたりぼっち
 そんな恋がしたかったの』


 曲名はわからないが、何度か聞いたことのあるメロディだった。最近の流行りなのだろうか、随分と思わせぶりで陳腐な歌詞の曲だった。空になった皿と溶けきった氷の浮かぶグラスの並んだテーブルの間を、どこか物悲しい旋律が流れていく。
「これ、恋愛ソングかな。いい曲だね」
「失恋の曲だろ、辛気くさい」
 そうかなぁ、と光忠は不満げに曲に耳を澄ませる。
「ああ、そういえばさ、」
 ふと光忠が思い出したように口を開く。
「長谷部くんが昔言ってた片思いの相手ってどうなったの?」
「……そんなこと言ったか、俺」
 ざあっと血の気が引いた。その話は、目の前の男にだけはしないようにしていたというのに。
「随分前に酔い潰れてた時に教えてくれたよ。『叶わぬ恋なんだ』とかなんとか言って」
「……生憎と片思いのままだ」
「今でも好きなんだ?」
 残酷な質問だと思った。
 ああ、と俺は噛みしめるように頷く。
「これからも、一生そうだと思う」
 光忠は頬杖をついて、いいなぁ、とぽつりと呟いた。
「……僕も一度でいいから誰かを心底好きになってみたいよ」
 そうか、と答える声は自分でも驚くくらい硬く冷えきっていた。


 俺は学生の頃から光忠のことが好きだった。
 大学一年の必修授業で偶然隣に座って以来、なんとなく意気投合して友人という関係に収まって、もう八年が経つ。
 最初は軟派で気に食わない奴だと思っていたのだが、交流してみると意外に根は真面目で誠実な奴だと知って好感を持ち、気がついたら恋をしていた。
 光忠は生まれながらの恵まれた外見と本人のたゆまぬ努力によって常にかっこよく紳士的な男だったので、それはもう非常によくモテた。同じクラスやゼミの女子からはもちろん、バイト先の塾の同僚や生徒、はたまた出先で一度立ち寄っただけの喫茶店の店員からも告白されるほどだった。
 光忠はそれが礼儀とでも思っているのか、特定の相手と付き合っていない時は、よほどの難がない限り大抵その告白を了承していた。告白されて、了承して、交際して、振られる。そのサイクルを大体数ヶ月前後で繰り返すのが日常だった。
 光忠が彼女と別れる理由は、大体いくつかのパターンに集約されていた。『本心を見せてくれないようで寂しい』『一緒にいると息苦しい』『必要とされてない気がする』エトセトラ、エトセトラ。
 俺が観察して出した結論は、光忠と歴代彼女たちの愛情にはある種の溝がある、という事だった。
 光忠は恋人の前だからこそ格好をつけようとして、歴代の彼女達にとってはそれが自分に心を開いてくれないように感じてしまうらしかった。
 俺は光忠の恋愛に胸を掻き毟られるような苦しみを感じながらも、どこか安堵もしていた。
 生粋の格好つけの光忠が自分の弱みを見せられる相手は限られている。自分はその数少ない『友人』の一人なのだ。関係が破綻しては去っていく恋人たちの背中を眺めながら俺はそんな昏い優越感に浸っていた。
 我ながらどうしようもない男だと思う。
 でもこれでいい。今更想いを告げて今の関係が壊れるよりも、このまま仲のいい友人関係を続ける方がお互いの為なのだと、俺は日々自分に言い聞かせていた。

◆ ◆ ◆

 そんなある日のことだった。俺が会社から帰宅して郵便受けを覗くと、宅配ボックスの暗証番号が書かれた不在通知が入っていた。送り主の名前は聞いたこともない会社名で、何かの詐欺だろうか、と首を捻りながら宅配ボックスを開ける。中には両手に収まるサイズの小包が入っていた。
 小包を持って自宅のドアを開けて靴を脱ぎ、部屋の照明をつけてリビングのソファにどさりと座り込む。
 ネクタイを緩めながら抱えていた小包をテーブルに置き、まじまじと観察する。それは紙袋に入った箱のようだった。試しに耳元で揺らしてみると、中からはちゃぷちゃぷと水音が聞こえる。
「まさか爆発物とかじゃないだろうな」
 恐る恐る紙袋から中身を取り出してみると、外見からの予想通り小さな箱が出てきた。黄色と紫のストライプ柄の包装紙に包まれている。
 紙袋の方に貼られた伝票を見ると、宛先は俺で間違いないようだった。
 詐欺なら消費者センターに訴えよう。そう思いながら恐る恐る包みを破り箱を開けると、中に入っていたのはピンク色の液体の詰まった小さなガラス瓶が三本と、取扱説明書と書かれた紙と手紙の入った封筒が一枚。
 手紙にはこう書いてあった。


『長谷部国重様
 おめでとうございます。あなたは弊社、SH本舗のプレゼントキャンペーンに当選致しました。これは飲ませた相手を五分間催眠状態にする事ができる薬、いわば催眠薬です。相手にどんな催眠をかけるかはあなた次第。使用回数は三回分。どうぞよく考えて大切にお使いくださいませ
SH本舗より』


 そうして後に続く細々とした使い方を一通り読んでから、俺はその馬鹿馬鹿しさを笑い飛ばした。ジョークグッズにしてはよくできている。
「催眠薬だなんて、馬鹿馬鹿しい」
 そうしてゴミ箱に小瓶を捨てかけたが、すんでのところで思いとどまる。だが、もしこれが本物だったら。
 そう考えて真っ先に思い浮かんだのが光忠の顔だった。たった一度でもいい。光忠から好きだと微笑まれて抱きしめられたら、それはどんなにか幸せなことだろう。
「…………馬鹿馬鹿しい」
 愚かな考えを振り払うように首を振り、もう一度自分に言い聞かせるように呟いた。それなのに、俺の右手はその小瓶を掴んだまま離さない。
「……まあ、置いておくだけならいいよな」
 誰にともなくそう言い訳をして、俺は小瓶と説明書を箱へと戻した。今度光忠が遊びに来た時に話のタネにでもしよう。そう思い直して食器棚の抽斗の奥にひっそりとしまいこんだ。

◆ ◆ ◆

「いいお酒が手に入ったんだ。一人で飲むのも勿体ないし、せっかくだから一緒に飲まない?」
 そんな光忠からの誘いを受けて、俺の家で二人だけの飲み会が開催されたのは二週間後の土曜だった。
 光忠が酒を持って来たので、今日のつまみは俺が用意した。タコキムチに冷奴、山芋のステーキ、それからがめ煮。がめ煮以外は比較的簡単かつ軽いものだが、本日のメインは日本酒なのでこのくらいでいいだろう。もし足りなかったら光忠が何か作る筈だ。
「あ、やった。今日は筑前煮がある」
「筑前煮じゃない、がめ煮だ」
「筑前煮って名前の方がメジャーだと思うけど」
「文句があるなら食べなくていいぞ」
 がめ煮の乗った大皿を取り上げる素振りを見せると、光忠は「ごめんごめん」と謝ってきた。
「わかったよ。がめ煮ね。これでいいだろう?」
「わかればいいんだ」
 そうして二人揃って手を合わせて「いただきます」と口にする。
 お互いの食事の好みやペースがわかっている相手との食事は気楽だ。それぞれ手酌で好きな量の日本酒をお猪口に注いで飲んでいく。
「美味いな、これ」
「この間全国の品評会で優勝したお酒なんだって」
「へえ」
 辛口のすっきりした日本酒、と言えばありきたりな説明だが、淡泊すぎるということもない。飲み口は淡麗だが、後から華やかでフルーティな吟醸香が鼻に抜けていくのが心地よい。いい酒だ。
「刺身とか買ってくれば良かったな」
「スルメでも炙る?」
「生憎と品切れだ。そういえば冷蔵庫にアジの干物があった気が……」
 立ち上がって台所に向かったところで、ふと例のもののことを思い出し、光忠の方へ振り返る。。

「そうだ。光忠、SH本舗って知ってるか?」
「知らない。何のお店?」
「わからん。この間プレゼントキャンペーンとやらで商品が送られて来たんだが、調べても出てこなかった」
「えー、大丈夫? 送りつけ商法とかじゃないの?」
「どうだろうな。一応発払いのようだったが」

 抽斗から箱を取り出して光忠に渡す。
「飲んだ相手を催眠状態にできる魔法の薬らしい」
「また随分と怪しげだね」
 光忠はしげしげと小瓶を眺めていたかと思えば、いきなり蓋を外してぐびりと飲み干した。
「は!?」
「うーん、無味無臭みたいだけど」
「馬鹿! 毒だったらどうするんだ! 吐き出せ!」
「大丈夫だよ。飲んだ感じほぼ水だったし。何かのジョークグッズじゃないかな」
 そう言いながら光忠は口の中に残った薬を喉の奥に流し込むように日本酒を呷った。
「何か異常があったらすぐ言えよ」
「心配性だなぁ」
「心配もするだろ。お前は、」
 俺の好きな人なんだから。そんな言葉を胸の裡に納めながら言葉を続ける。
「…………お前は、俺の親友なんだから」
 しかし光忠の返事はなかった。どこかぼんやりとした顔で宙を見つめたまま固まっている。
「おい? どうした」
 眉をひそめて光忠の眼前でひらひらと手を振る。しかしいつもなら溌剌とした光を宿した金色の瞳が、今は靄がかかったように虚ろだ。まるで魂でも抜けたかのような――、
そこまで考えて俺ははっとした。
「……催眠薬……?」
 まさか、あれは本物だったのだろうか。
 胸の奥でどくどくとうるさい心臓を叱咤しつつ、恐る恐る光忠へと声をかける。たしか取扱説明書にはこう書いてあった。
 ――まず最初に、飲んだ相手が本当に催眠にかかっているのか質問をしてみましょう。
「……光忠、もし聞こえているなら返事をしてくれ」
「……は、い」
 肯定の返事が返ってきたが、これでいいんだろうか。あとはたしか、催眠の深度を深めるために声かけをしていくんだったか。以前バラエティ番組で見た催眠術師の言い方を真似ながら慎重に声をかける。
「お前は今とても気分がいい。ここはお前にとってとても落ち着く空間だ。俺の声が聞こえるな? この声に従っていればお前は幸せになれる」
「……君の、声に……」
 酔っ払っている時のような、眠りに落ちる寸前のような、ふわふわとした口調で光忠が返事をする姿に、奇妙な興奮を覚える。
「そうだ。俺の声を聞いているとお前はどんどんリラックスしていく……理性がゆるゆると溶けて、秘められていた心の底が開放されていく……お前はそれがとても気持ちがいい」
「……ん……」
 呼吸がゆっくりになり、広い肩から次第に力が抜けていくのが目に見えてわかった。光忠の眉や眦がふにゃりと緩んでいく。本当に気持ちがいいのだろう。思わずごくり、と生唾を飲む。
「……ここはお前の心の一番奥底だ。今聞こえている声はお前の心の声でもある。心の声には逆らわず、なんでも言うとおりにしたくなる……」
 光忠の反応を見る限り、今のところ薬は本物のようだが、まだこれだけでは本当に催眠にかかっているかはわからない。もしかしすると光忠が俺をからかっている可能性だってあるのだ。なので、普段の光忠なら絶対にしないようなことをさせてみることにする。

「目の前に、お前の友人、長谷部国重がいるな? お前はそいつにキスをしたくなる。恋人にするみたいな、情熱的ななキスを」

 もし光忠が俺を担いで遊んでいるんだとしたら、ここで「冗談がきついよ、長谷部くん」なんて苦笑してくるのだろうが――、あえなく予想は外れ、光忠はゆっくりと俺の頬に手を添え、顔を近づけてきた。アルコールの香りに混じって光忠の香りがふわりと鼻をくすぐる。胸の内の健気な心臓が痛いくらいに脈を打っている。華やかな美貌が視界いっぱいに広がる。
「…………ん、」
 そうして、柔らかいものが唇に触れた。
 ちゅ、ちゅ、と軽いリップ音を立てながら、何度か啄むように角度を変えられて口づけられる。
 光忠はこんな風にキスをするのか。そう思うとどきどきして胸が苦しくなる。こいつは今まで何人の女とこんな風にキスをしてきたんだろう。
「ん、む」
 物思いに耽っていたところを、分厚い舌で唇をノックされて我に返る。薬の効果もたしかめられたことだし、いい加減こんな悪ふざけは止めるべきだろう。しかし制止のために口を開こうとすると、ぬるりと舌が押し入ってきた。
「み、んんっ」
 動かしかけた舌を逃がさぬように絡め取られ、軽く歯を立てられる。せめて名前を呼ぼうと口を開けば、飲みきれなくなった唾液を悲鳴ごと飲み込まれた。
「っ、ん、ふあ、みちゅ、んん、」
 光忠の体を押しのけるために肩を掴んだ手は、いつの間にか目の前のシャツを縋るように握りしめていた。頭を後ろに引こうとしたものの、後頭部に手を回されてしっかりと頭の位置を固定されてしまっている。
「んーっ!」
 やばい。光忠のキスが上手すぎる。じいんと頭の奥が痺れ、どんどん腰のあたりが熱く重くなってきているのが自分でもわかった。勃っている。
 できることならずっとこのままでいたい気持ちはあるものの、あの説明書が正しいのならそろそろ薬の効果が切れる頃だろう。もしこんな状態で光忠が正気に戻ったら誤魔化しきれる気がしない。
「み、つただ! ストップ!」
 どうにか無理矢理顔を離し声を上げると、ようやく光忠の動きが止まった。息を整えてこちらをホールドしていた腕を引き剥がし、光忠から距離を取る。
 光忠は濡れた唇を拭いもせず、ぼんやりと焦点の合わない瞳で佇んでいる。あの唇が今の今まで俺に触れていたのだと思うと体がかっと熱くなったが、ぐずぐずしている暇はない。俺はもうひとつ、ずっと前から聞いてみたかった質問をしてみることにした。
「……光忠、正直に答えてくれ。お前は、俺のこと――長谷部国重のことをどう思っている?」
 たった数秒の、耳に痛いくらいの沈黙の後に、光忠がゆっくりと口を開く。
「……大事な親友、だよ」
 つきりと胸が痛む。答えなんかわかっていた。それでも、一縷の望みに賭けてみたかった。
 だけど結果はこの通りだ。俺の口から乾いた笑いが零れる。
 でも、それでもどうしようもなく好きなんだ。
 鼻の奥がつんとする。じわりと滲んだ涙を手の甲でぐいと拭き、俺は未だ虚空を見つめる光忠に今度は自分から唇を重ねる。
 人生二回目のキスは涙の味がした。

◆ ◆ ◆

「ん……あれ、僕寝ちゃってた?」
 ぱちぱちと長い睫毛が瞬いて、理知的な光を宿した蜜色の瞳がこちらへ焦点を合わせた。
「少しな」
 声が裏返らないように気をつけながら答える。念のため光忠が正気に戻る前に、「お前は今あったことをすべて忘れる」と言ってみたのだが、この様子だとしっかり暗示は効いているようだった。
 光忠は「飲み過ぎちゃったかな」とぼやきながら、無意識にか濡れた唇をぺろりと舐めた。
 二度のキスの感触を思い出して鼓動が高鳴る。だけど、あの束の間の触れ合いは光忠の意思を無視して奪ったものだ。全てなかったことにしなければならない。それが良識ある判断だろう。
 俺は迷いを振り切るように光忠に告げた。
「そろそろ終電だぞ。帰るなら帰れ」
「えっ、もうそんな時間? 泊まっていったら駄目?」
「明日は朝から用事があるんだ」
 嘘の予定を言えば、光忠は渋々と立ち上がって帰り支度を始めた。姿見を見ながら髪を手ぐしで整え、うーんと言いながら伸びをする。
「でも長谷部くんが休日に予定なんて珍しいね。恋人でもできた?」
 無邪気にそんなことを聞いてくる目の前の男が憎らしくてたまらなかった。
 いっそここで俺の気持ちを全部ぶちまけてしまいたい、そんな衝動に駆られる。正気の光忠にはっきりと真正面から告白してフラれてしまえればどんなにか楽だろう。
 しかし生憎とそこまでの蛮勇は持ち合わせていなかった。結局俺にできることなんて、今までどおり恋心を殺しながら何食わぬ顔で光忠の親友として居続けることくらいなのだ。
 俺はできるだけいつものように笑って見せた。
「馬鹿、床屋に行くだけだ」
「なーんだ」
 光忠はそう言って肩を竦めるとひらひらと手を振って玄関から出て行った。
「またね、長谷部くん」
「……ああ、またな」
 ポケットの中にある小瓶を握りしめながら応える。ドアの向こうに広い背中が消えてから、ようやく俺は息を吐いてずるずるとその場に座り込んだ。
 本当なら今すぐこの催眠薬を処分するべきなのだろうが、こういった薬をそのまま下水に流していいのかがわからない。唯一正しい処分方法を知っているSH本舗なる会社の連絡先はあの荷物の中にはなかったし、スマホから検索してもそれらしい会社のサイトは見つからなかった。
「……危険物の回収日に処分できないか役場に聞いてみるか」
 とりあえず今度役場に薬品の回収ができないか尋ねるため、小瓶の入った箱を元の抽斗の中にしまい込む。

 不意に光忠の唇の感触を思い出してまた涙がこみ上げてきた。きっと、あいつはこの先また違う恋人を作っては、あんなキスをするんだろう。俺にしたのと同じような、情熱的なキスを。「親友」の俺にはそれを咎める資格なんてない。
 つらい。苦しい。しんどい。しくしくと痛む心臓を抉り取って掻き毟ってしまいたい。
 でも光忠にフられて親友の座まで失うことだけは嫌だった。俺が光忠の側にいられる唯一の立場を手放すわけにはいかなかった。
 だから、俺も今夜のことは忘れることにする。未だ血を流し続ける恋心と一緒に、心の奥底へしまい込んで見ない振りをする。
 大丈夫だ。今までだってそうしてきたんだから、これからだってきっとできる。そう自分に言い聞かせる。
 ――墓まで持って行かなければいけない秘密が、また一つ増えてしまった。

◆ ◆ ◆

 目の前の鉄板でじゅわわっという音と共にソースの焦げる香りが立ち上った。すかさずマヨネーズが格子状にかけられ、その後を追うように青のりと鰹節も惜しげもなく投入された。
「はいよ、お好み焼き二つ」
「ありがとうございます」
 持ち帰り用のプラスチック容器に詰められたお好み焼きを光忠が受け取って代金を渡す。
「粉物ってたまに食べたくなるよね」
「わかる」
 あんなことがあったというのに、一週間も経てばこうして光忠と友人として振る舞うことができているのだから、長年の習性というものは恐ろしい。
 浴衣を着た男女や、光るブレスレットをつけた子供が行き交う中を、いい年の男二人で並んで歩いていく。俺の家の近くでやっている商店街の祭りに、こうして二人で来るのはこれで連続七年目だった。

「他に何か食べる?」
「肉屋のところの串揚げは外せないな。あと魚屋の海鮮焼きも」
「それならビールも飲もうよ。甘いのはどうする?」
「例のピザ屋でサングリアと揚げパイ買って帰るかな」
「オーケー」

 そんなことを話しながらぷらぷらと歩いていると、ふと例年にない夜店を見つけたので立ち止まった。
 路上にビニールの水槽が広げられ、その中を様々な金魚がひらひらと泳いでいる。あ、と光忠が声をあげる。
「金魚すくいだ。最近じゃ珍しいね」
「そうだな」
 きゃあきゃあと歓声を上げながら金魚すくいに興じる子供たちを何ともなしに眺めていると、ふと一匹の金魚に目が留まった。
 他の金魚より一回り大きいその金魚は目玉の大きな、いわゆる出目金で、黒光りする鱗を光らせ悠々と泳いでいた。ちょっとわんぱくな子供ならこぞって狙いそうな獲物なのに、誰からも狙われずに水槽の中を王者のように泳ぎ回っているのはどうやら理由があるらしかった。近くの子供が母親の手を引いて水槽の方へ指を指す。
「ママー、あのまっくろな金魚とってー」
「やだぁ、あの金魚片目が潰れてるじゃない」
 そう、その出目金は右の目玉が潰れたように変形していたのだった。病気か怪我かはわからないが、そんな理由で人気がないらしかった。
 俺はふと横の光忠を盗み見た。光忠も生まれつき右目の周りに火傷のような痣がある。普段は眼帯で隠しているが、その痣が理由で両親とは疎遠なのだと昔話してくれたことをふと思い出した。
「ああいう奇形の金魚は早く死んじゃうから駄目。それに見栄えが悪いでしょ」
「えー」
 見知らぬ親子のそんな会話を聞いて、光忠がきゅっと唇を引き結んだのを、俺は見逃さなかった。
「親父、一回頼む」
 気づけば俺は店の親父に五百円玉を叩きつけていた。
「長谷部くん!?」
 慌てる光忠に鞄を押しつけ、親父からピンクのフレームのポイを受け取る。
 金魚すくいなんて二十年ぶりくらいになる。それでも、俺はどうにかしてあの金魚を掬ってやりたかった。
 大きな尾びれをひらめかせながら泳ぐ出目金は手強かった。重量級のボディに何度もポイの紙が破れ、俺はその度に財布から小銭を出して新しいポイを買った。もう小銭を出すのがまどろっこしくなって万札を取り出そうとした頃、音を上げたのは店主の方だった。
「いいっていいって! お兄ちゃん、そんなにそいつが欲しいならサービスだ。持って行きな」
 店主が苦笑いしながらビニール袋に出目金と水を詰めていく。
「あ、それじゃこの子も一緒に入れてください」
 いつの間にか光忠も金魚すくいをしていたらしい。お椀に浮かべた小ぶりな赤い金魚一匹を俺の横から店主に差し出していた。驚いて振り返る俺に、光忠は照れくさそうに微笑んでみせる。
「……一匹だけだと寂しいかなと思って」
 金魚すくい屋の店主は、どうも最近できた熱帯魚専門店の店長が本業だったらしく、ついでにと金魚を飼うための水槽や餌やポンプ一式を安く売ってくれた。商売が上手い。
 その後さっそく光忠と家に帰って金魚を飼うための環境を整えているうちに、すっかり夜が更けてしまった。
 無事に狭いビニール袋から大きな水槽に移り住んだ二匹の金魚は、今は水草の間を寄り添うようにして泳いでいる。
「悪いな、遅くまで付き合わせて」
「気にしないでよ。……それに、嬉しかったし」
 光忠が小さく零したのを、俺は聞こえないふりをした。水槽の中に空気を送るポンプの低音が、今はありがたい。
 礼なんて言われる筋合いはなかった。あれは完全に俺のエゴだったのだから。
「コーヒーでも飲むか?」
 立ち上がってキッチンへ向かう。この間買ったコーヒー豆はどこにしまったんだったか。そんなことを考えながら食器棚の抽斗を開けると、あの箱が現れた。そういえば今週は忙しくて役場に聞いている余裕がなかったのだった。
 そっと抽斗を閉じようとする俺の耳に、光忠からの声が届く。
「……実は、長谷部くんに相談したいことがあってさ」
「なんだ? また新しい彼女でも――」
「今度、お見合いをすることになったんだ」
 瞬間、時が止まった気がした。
「取引先の社長の娘さんで、僕も何度か向こうの受付で顔を合わせたことがある子なんだ。気立ても良さそうだし、かわいい子だし、そんなに悪い話ではないんだけどね」「…………気が進まないのか」
 手と声が震えそうになるのを必死で抑えつけながら、俺はコーヒーを淹れることにどうにか専念する。薬缶を火にかけて、棚の奥から見つけたコーヒー豆をミルに入れてゴリゴリと挽いていく。
「正直、迷ってるんだ。今ちょっといい感じの子がいるのもあるんだけどさ。でもいずれにせよ僕らの年だとそろそろ結婚も考えなきゃいけないだろう? いざ結婚してみて、それで駄目になったら僕だって流石にちょっと立ち直れないというか」
 光忠がテレビの電源をつけたらしく、いつか聞いたあの曲がリビングから聞こえ始めた。


『溺れるように恋をしたの
 唇からダイスキの泡を四つ吐いて
 あなたと水底でふたりぼっち
 そんな恋がしたかったの』


 コーヒーメーカーにフィルターをセットして、ミルで挽いたコーヒー豆をメジャースプーンで入れていく。
「……僕に心底好きな人でもいれば話は早かったんだけどな」
 そう自嘲する光忠の言葉にずきんと胸が痛む。少しだけ開いたままの抽斗の中には、その悩みを解決してやれる唯一の手段がある。
 催眠薬。どんな言うことも聞かせられる魔法の薬。
「…………みつただ、」
 乾いた唇を舐めて濡らしながら、俺は口を開く。
「なあ。今でも、誰かを好きになってみたいか?」
 うん、と短い返事が来た。
「一生に一度で構わないから、誰かに本気の恋がしてみたいよ」
「……そうか」
 俺はもう、迷わなかった。光忠の目を盗んで抽斗から小瓶を取り出し、光忠用のカップに半量を注ぎ込む。淹れたコーヒーを上から注いで念入りに二種類の液体を混ぜてから、俺は何食わぬ顔で光忠の前にカップを置いた。
「――ほら、冷めないうちに飲め」

 光忠がコーヒーを飲み終わってからしばらく雑談をしていると、ようやく光忠からの返事が止まった。
「……光忠?」
 見れば、光忠はぼんやりと光を失った目で虚空を眺めていた。この間の手応えからすると、今は薬が効果を発揮している頃の筈だ。先日と同じように声をかけて催眠を深めていき、俺の言葉に従うだけのお人形になった光忠の脳へと甘い毒を忍び込ませていく。
「光忠。今から言うことは目が覚めても一生お前の心に刻み込まれる」
 優しくて残酷な光忠。俺の気持ちも知らずに、誰のことも愛せないと嘆く、憎らしくて可哀想な男。
 それを、今から俺が作り変える。
「……誰かを好ましく思った事を思い出してみるんだ。その気持ちが次第に風船のように膨らんでいく。風船の中に誰かがいるのが見えるな? 誰に見える?」
「…………わから、ない……」
「そこには、お前の親友、長谷部国重の姿が見える」
「長谷部、くん……」
「そうだ。そのぱんぱんに膨らんだ愛情は、全て長谷部国重へのものだ。お前は長谷部国重のことが今まで会った誰よりも愛おしく、大切に思えるようになる。……そう、」
 一呼吸置いて口を開く。

「――『溺れるように長谷部国重のことが好きになる』」

「……長谷部くんを、好きに……」
「そうだ。起きたらお前はこの会話を忘れている。でも今まで話したことは無意識の中に残り続けるんだ」
 万が一失敗した上にこの会話を覚えられていては困るので、そうした一言を付け加えた。
「俺が指を鳴らしたら、お前は目を覚まして正気に戻る。三……二……一……」
 パチン。指を鳴らすと、光忠はハッと気づいたようにびくんと体を跳ねさせた。
「……あ、れ? 僕、寝てた?」
 いつも通りの光忠の様子に内心安堵しながら俺は答える。
「少しな。疲れてるんじゃないか? 早く帰って休めよ」
「うーん……そうさせてもらおうかな」
 そう言って恥ずかしそうに頬を掻く光忠は、すっかりいつもの調子に見える。本当にさっきの催眠が聞いているのか不安になってきた。
「なあ、気分はどうだ? どこか変なところとかあるか?」
「ちょっと頭痛がするくらいかな。先週に続いて居眠りするなんてかっこわるいね」
 薬の効き目が全くわからない。光忠の様子は本当にいつもと変わらなかった。
「……ん? あれ?」
 突如、思わず見惚れるほど整った顔が視界いっぱいに広がり、俺は息を呑んだ。
「……なんだ。ひとの顔をじろじろ見て」
「髪にゴミがついてたよ」
 指で俺の前髪をそっと摘むと、ふうっと埃を吹き飛ばして光忠が笑う。
「あ、そうだ。長谷部くん、次いつ空いてる?」
「……来週の土曜なら暇だが、なんだ急に」
「前に気になるって言ってた映画あっただろ。会社から割引券もらってたの思い出したんだ。良かったら一緒に見に行かない?」
「構わないが」
「良かった。詳しいことは後で送るね」
 そう言って光忠がひらひらと手を振って玄関に向かう。
「じゃあ、またね。今日はありがとう。お見合いの結果も後で報告するね」
 そんな言葉を言い残して、光忠は一度も俺のことなんか振り返らないままに家を出て行った。
 俺はその場に立ち尽くして動けなかったが、不意に金魚の吐いた泡がぱちんと弾ける音で我に返った。状況を再認識して、気づけば乾いた笑い声をあげていた。
「……はは、」
 壁に背中を当ててずるずると床に座り込む。
「…………馬鹿みたいだ、俺」
 あんな薬ひとつで人の心が変えられるなんて馬鹿げたこと、ある訳がなかった。光忠は誰のことも愛せないままだし、俺だっていつもどおりだ。
 いつもどおり、光忠が好きで好きでたまらないままだ。
 自分の愚かさに涙が出てきて、目元を押さえる。薄い長袖の部屋着がじわじわと濡れていく。
 好きだ。好きなんだ。誰のことも愛せないと嘆くくらいなら、俺のことを愛して欲しいと思うくらいに好きなんだ。
「……みつただ、」
 俺と二匹の金魚だけが取り残された部屋の中に、しばらくの間嗚咽が響いていた。

◆ ◆ ◆

「君って、昔からああいうのに弱いよね」
「うるさい」
「開始二十分で泣くとは思わなかった」
「……なんで知ってるんだ」
「映画より長谷部くんの反応見てるほうが面白かったからさ。スクリーンじゃなくて君ばかり見ちゃったよ」
「俺の顔は見世物じゃない」

 そんな言い合いをしながら映画館を出る。光忠の様子はやはり普段と何も変わりない。それに安堵と落胆を覚えつつ、映画館を出た所にあるカフェを顎で示した。
「……見物料代わりだ。奢れ」
「はいはい。仕方ないなぁ。いつものでいい?」
「ああ」
 いつもの、とはトールサイズのキャラメルマキアートのことだ。
 短い言葉で伝えたいことがすぐに伝わるこの関係が、結局俺達にはちょうどいいのかもしれない。そんなことを考えながら、カフェ内の二人がけの席を取り、椅子に座る。
「あれ、長谷部さんじゃないですか?」
 聞き覚えのある声に振り向くと、会社の後輩が立っていた。
「あ、やっぱり長谷部さんだ。奇遇ですね!」
 彼女は入社時に俺がOJTの担当をしていた女性で、今では別の部署になっているが、それなりに付き合いのある後輩だった。
「お一人ですか? 良かったら私一人なのでここに座っても?」
「ごめんね。彼、僕の連れなんだ」
 低く艶のある声が聞こえて、カタリとテーブルにカップが二つ置かれた。
「あっ、お友達と一緒だったんですね! すみません、気が付かなくて!」
 そう言ってそそくさと去っていく彼女を見送りながら、光忠に向き直る。
「今の子、知り合い?」
「会社の後輩だ」
「ふうん」
 幾分か不機嫌そうな響きに正直すこしだけドキリとする。「嫉妬か?」なんて茶化して聞こうとしたが、やめた。それを冗談にしてしまえるほどの余裕は、今の俺にはなかった。
 差し出されたキャラメルマキアートをふうふうと冷ましながら口をつけながら光忠の手元を見れば、珍しく新製品のフラペチーノを持っていた。
「それ、期間限定の奴だろ」
「うん。ちょっと気になってさ。一口飲む?」
「ああ」
 間接キスに今更ときめく関係でもないが、それでも光忠の唇が触れたそこに口をつけるのは一瞬の躊躇いがあった。
「……うまい。思ったより甘くないんだな」
「だろう? 僕も意外だった。美味しいよね」
 そんな会話をしつつ、映画の感想なんかを語り合っていると、ふとテーブルの間に沈黙が降りる。
 お互い沈黙が苦痛にならない相手だ。店内のざわめきを楽しみながら、二人でカップの中身を啜る。近くの女子高生たちが光忠の方を見て頬を染めてきゃあきゃあと振り返るのが見えたので、俺は改めて目の前の男の顔を正面から眺めた。
 八年間ずっと恋い焦がれてきた俺の『親友』は、今日も悔しいくらいいい男だった。見飽きると言うことがない。
「何? 長谷部くん、僕の顔に何かついてる?」
「……いや、お前は本当にいい男だと思って」
 歴代の彼女は本当に見る目がないな、と言って笑うと、光忠が苦笑する。
「女運がないのもあるかな」
「いい男なのは否定しないのか」
「客観的事実だし、僕もそりゃあ努力してますから」
「ひどい奴だな」
 そう言って二人で肩を揺らす。
「……そうだ、長谷部くん。この後時間ある?」
「あるけど、どうした」
「うちで宅飲みでもしない?」
 ね? と微笑まれて首を傾げられれば、断れる筈もなく。俺は気づけばこくりと頷いてしまっていた。

「酒はあるんだろうな」
「勿論。とっておきの純米大吟醸、無濾過生原酒」
「つまみは?」
「僕のお手製じゃ不満?」
「充分すぎるな」
「じゃあ決まりだ」

 そう言って同時に立ち上がる。空になったカップをごみ箱に放り込むと、かこんと乾いた音がした。

 光忠とっておきの日本酒とワインをそれぞれ一本開けた時には、外はすっかり真っ暗だった。テーブルには食べ散らかした後の皿が重ねられ、透明なパックの上には余り物のチー鱈が散らばっている。俺はすっかり酔い潰れている光忠の肩を揺すった。
「……おい、俺はそろそろ帰るぞ。終電が近い」
「なんで? 泊まっていきなよ」
 ふわふわとした口調で、光忠がテーブルに突っ伏していた顔を上げる。いつもはビスクドールかと思うほど白い肌が、ほんのりと紅潮して桜色に染まっている。
「……見合い相手がいるんだろう。夜遊びも程々にしとけ」
「あれなら、ことわったよ」
「断った?」
 思わず声がひっくり返る俺を見て、愉快げに金色の瞳が細められる。
「うん。すきなひとがいるって」
 痛む胸を知らないふりでやり過ごし、俺はふんと鼻で笑ってみせた。
「とうとうお前にも春が来たって訳か。で、お相手はどこの誰だ? この間言ってたいい感じの子って奴か?」
「……長谷部くんはさ、ずっと片思いしてる相手がいるんだろう?」
「…………ああ」
 心臓の奥に突然ざくりと刃を差し込まれた気分だった。
「どんな人?」
「……優しくて、かっこよくて、一緒にいると楽しくて、でも俺の気持ちも知らずに恋人の話をしてくる、鈍感で残酷な奴だ」
「やめちゃいなよ」
「…………は?」
「長谷部くん、片思いの相手なんて忘れなよ」
「っ……なんでお前にそんなこと言われなきゃならないんだ!」
 なんて残酷な奴なのだろう。俺の心は昔から、今だってこんなに、光忠を想って血を流しているというのに!
 しかし光忠は俺をまっすぐに見つめたままこう言った。
「君のことが好きだから」
「…………は、え?」
「そんな奴のことなんか忘れて、僕と付き合おうよ」
 酒精に酔って幾分か赤い顔の中で、黄金の瞳が熱を孕んでごうごうと燃えるようだった。
「……できない」
「どうして?」
 一つ。深呼吸をしてから、喉に貼り付いた舌をどうにか動かして口を開く。
「俺が好きなのはお前だからだ」
 言った。とうとう言ってしまった。光忠の顔を見ることができずに、俯いて手で顔を覆う。
「……本当に?」
「ああ」
「いつから?」
「……初めて会った頃から、ずっと」
 頭上からはあっと大きく息を吐く音がした。
「どうしよう。今僕他人に見せられないくらいにやけてる」
「見せてみろ」
「嫌だよ」
 そう言うと顔を見られないようにか、光忠が俺の頭を抱き込んできた。
「……お前は」
「うん?」
「お前は、いつから俺のこと好きになってたんだ」
「……気づいたら、かなぁ。いつの間にか君の顔が見たくて、声が聞きたくて、僕だけに笑いかけて欲しくて。ねえ、これは恋でいいんだよね?」
 これ以上ないくらい情熱的な告白に、俺の心臓はいよいよ早鐘のように脈を打ってうるさいくらいだった。
「長谷部くん、好きだよ」
 後頭部に光忠の唇が触れる感触がする。勿論俺はそれだけじゃ物足りなくてすぐさま顔を上げ、光忠の首に腕を回して頭を引き寄せる。
「光忠、好きだ」
 三度目に合わせた唇は、酒とチー鱈の味がした。
 なんだかそれがやけに面白くて、俺達は額を合わせてくすくすと笑いあう。

「キス、しちゃったね」
「しちゃったな」
「……長谷部くんはファーストキス?」
「お前以外とキスなんてしたことない」

 嘘はついていない。
 光忠は俺の言葉にとろりと眦を蕩けさせた。
「……嬉しい」
 あ、駄目だ。そろそろ俺は幸せで死ぬかもしれない。
 幸福とときめきの限界摂取量を超えて眩暈息切れがしてきたのをどうにかしようと、俺は光忠の胸をぐいぐいと押し返した。
「おい、暑いぞ。そろそろ離れろ」
「駄目。……あーあ。せっかくだからもっとかっこいい告白したかったんだけどなぁ」
「夜景の見えるホテルのバーで告白なんて勘弁だからな」
 こっ恥ずかしい、と言うと、光忠はそれがいいんじゃないかと唇を尖らせた。
「まあでも、幸せだからいいや」
 そう言ってふにゃりと笑う光忠の顔は、確かに今まで俺が見た中で一番幸せそうな顔をしていた。

 こうして、俺は長年恋い焦がれてきた男をようやく手に入れたのだった。
 しかし、である。

「ま、待て待て待てっ!」
 あの後そのまま軽々と体を抱えられてベッドに身を横たえられたので俺は焦った。さすがにここまで来て次に何が来るのかわからない程初心ではない。
「待て、そのっ、俺はシャワーも浴びてないし、後ろの準備もまだだし……っひ、」
「後ろ、慣らした経験あるの?」
 ぷちぷちとシャツのボタンを外されて、首筋に吸い付かれ、背筋にぞくりとしたものが走る。
「……ある」
 自慰に何度か後ろを使ったことはあるし、過去に一回だけ、光忠を忘れられないかと行きずりの男と寝ようとしたことがあった。結局俺がキスの寸前に気持ち悪くなってホテルを飛び出して未遂に終わったが、そんなことがあってある程度の手順や方法は調べていた。
「だから、こういうのは時間がかかるし、また今度……んむっ」
 やや乱暴に唇を塞がれ、戸惑いに開いた唇の合間に舌を入れられる。舌と舌とを擦り合わせ、丁寧に上顎をなぞられれば、俺の抵抗などいつの間にかとっくに蕩けていた。
「どんなに時間かけてもいいよ。僕は今夜君を抱きたい」
 光忠は甘い声でそんな殺し文句を囁いてきた。そのまま耳朶にかりりと歯を立てられて体中に震えが走る。
「……シャワー、貸してくれ。準備してくる」
「手伝おうか?」
「っ……いらん! ついてくるな!」
 そう言って光忠の体をぐいと押しのけ、バスルームに向かう。
 洗面台の鏡を見れば、真っ赤になって情けない顔をした男がこちらを見ていた。
「………………よし」
 気合を入れる為ぱちんと両頬を叩く。男に二言はない。慣らすための手順ならきちんと頭に入っている。深呼吸をしてから、俺はまずバスルームのドアに手をかけた。


「ぅあっあ、やら、も、出ちゃっ」
 光忠の手管は完璧だった。まずは緊張を解すように全身にゆるやかな愛撫を施し、息が荒くなってきた頃、勃ち上がってきた俺の中心をやわやわと揉みながら舌と唇も使って責め立てていく。久々の射精は驚くほど呆気なく訪れて、その快感にぼうっと意識を飛ばしていると、足下の方からごくりと何かを嚥下する音がした。
 慌ててばっと身を起こして視線をやれば、光忠がぺろりと口の周りを舐めていた。精液を飲まれたのだ、と気づいて顔から火が出る思いだった。
「ばばばば馬鹿、飲むなっ……!」
「どうして?」
「きっ汚い、だろ……」
「長谷部くんは綺麗だよ」
 そう言われて真っ赤になっているうちに、いつの間にかローションを纏わせた指が俺の後膣の入り口にぬるぬると擦り付けられていた。
「指、入れるね」
 その言葉と同時に光忠の指が体内に侵入してきた。バスルームで慣らして来たとは言っても、それほどアナルの経験がない俺にとって、挿入はすぐには快感に繋がらない。異物感と圧迫感で反射的に嘔吐きそうになりながらも、涙を滲ませて息を整えているうちに、なんとか中の感覚に集中することができた。何度か慣らすように抜き差しされ、その度にローションを足されてさらに濡らされる。
「長谷部くん、痛くない?」
「だい、じょうぶだ」
 ぐにぐに、ぬちゅぬちゅ。下半身から耳を塞ぎたいくらいに隠微な水音が響く。
「ぁ、んん、っふ、ん……」
 ようやく朧気ながら快感を拾い始めて来た頃に、光忠が俺にのしかかり、低い声で囁いてきた。

「……長谷部くんはさ、今まで何人くらいとセックスしたの? 前も後ろも、トロットロ」
「ゼロだが」
「えっ」

 光忠の動きがぴたりと止まった。
 しまった、さすがにこの年で童貞処女というのはもしかして気持ちが悪かっただろうか。面倒だと思われたんだったらどうしよう。それはそれとして体内に指を入れたまま動きを止めるのはやめてほしい。違和感がすごい。

「…………全部、僕が初めてなの?」
「……流石に自慰経験くらいはあるぞ」
「それって僕に抱かれるの想像してたりした?」

 思わず言葉を詰まらせれば、答えは言わずとも伝わったらしい。光忠はぐうと呻きながら俺の肩に顔を埋めた。
「何それ……かわいい……ずるい……」
 太股のあたりに当たる光忠の股間が熱く猛っているのがわかった。
「っひ、なんで、お前、勃って、」
「好きな子が自分を想ってオナニーしてたとか聞いたらそりゃ勃つよ」
 好きな子、と言われて顔が熱くなる。そんな俺を見て光忠はもう一度「かわいい」と呟いて俺にキスをしてきた。
 ちゅ、ちゅう、とリップ音を立てて軽く吸いついてから、舌を挿し入れるディープキス。あの時と同じやり方で、今度は光忠の意思で情熱的な口づけをされて泣きそうになる。
「…………すきだよ」
 キスの合間の不意討ちの告白に思わずきゅんと尻の穴を締めつけてしまった。思いもよらぬところに指が当たって声が漏れる。
「んっ、ぁ、」
「……もしかして」
 ぐりっとその場所をピンポイントで押されて腰が跳ねる。
「ぅああっ!? っや、なに、」
 何かなんて頭ではわかっていたが、実際にそこでこんなに鋭い快感を拾うのは初めてだった。自分でする時は前も触ってようやく気持ちよくなっていたのに、光忠の指一本にこんなにも翻弄されている。
 金色の瞳がきらりと光り、形のいい唇が弧を描いた。
「ああ、ここだね。長谷部くんのイイトコロ」
 元が器用で要領のいい光忠は、俺が慣れない感覚に翻弄されている間に二本、三本と指を増やしていっていた。
「あ、ぁん、や、ンンッ」
 中でばらばらと指を動かされる度に俺の体はびくびくと震え、今や中心はほとんど触れられてもいないのに勝手に勃ち上がってはしたなく蜜を零している。尻穴の方はもう異物感より快感が完全に勝っていた。
 時折俺の唇や鎖骨や耳朶を噛んだり吸ったりしながらも、光忠は空いている方の手で乳首や臍のあたりを刺激してくることも忘れない。快感でぐずぐずになった頭で、セックスが上手いとはこういうことを言うのだろうとぼんやりと思った。
「考えごと? 結構余裕あるのかな」
 ぴちゃぴちゃと耳元を舐めていた光忠が俺の様子を見て面白くなさそうに唇へ噛みついてくる。
「……あっ、ん、ちゅ、ないってば、んむ、み、んン、みつ、光忠っ……!」
「なあに?」
 唇が触れるか触れないかの距離で吐息まじりに囁かれる。駄目押しで乳首をきゅっと摘ままれて鼻にかかった声が漏れた。

「っは、ン、も、とっとと、挿れろっ!」
「駄目。もっと君をとろとろにするまで、挿れてあげない」
「なんで……」

 ひどい。意地悪だ。そんな奴だと思わなかった。でも好きだ。
 涙声でそういったことを言いながらぐすぐすと鼻を鳴らしていると、光忠は愛おしげに俺の頬をやわやわと撫でた。
「僕も長谷部くん大好き。君がこんなにかわいいなんて今まで知らなかった」
「……じゃあなんで……」
「今夜を忘れられない夜にしたいから。君には僕しかいなくて、僕には君しかいないんだってこと、朝までじっくり感じ合いたいんだ」
 そう言われてしまえば、俺に否定する理由などひとつもなくて。
「……もう、勝手にしろ」
 そうして横を向いて枕に顔を埋めると、光忠の嬉しそうな声が耳に届く。

「うんと気持ちよくしてあげるからね、長谷部くん」

 その言葉の通り、俺は初めての挿入でイき、奥を突かれてイき、最終的には何も出ない筈の中心から潮を噴いて気絶した。
 光忠は有言実行の男だった。

◆ ◆ ◆

「ひゃっ……!?」
 ぽた、と天井から落ちた水滴が首筋に落ちて、思わずびくりと肩を跳ねさせると、俺の後ろで光忠が楽しげな笑い声をあげた。
「あはは」
「……あのなぁ」
 じとりと背後を睨みつけると、苦笑してごめんごめんと謝られる。俺は光忠に後ろから抱え込まれる形でバスタブの湯に浸かっていた。
「……不思議だね。君の裸見るのなんて初めてじゃないのに、今日は僕すごくドキドキしてる」
「おい、盛るなよ。もう無理だぞ」
 男二人が入るには窮屈な場所に無理矢理密着して入っているものだから、相手の状態なんてすぐわかる。散々出したというのに再び兆し始めている光忠の性器を、俺は後ろ手にぎゅっと握った。
「いたた、わかってるってば」
 返事に満足して再び湯船を堪能していると、不意に光忠が後ろから抱きしめて来た。
「……おい、だから、」
「八年」
 告げられた言葉にぴくりと体の動きが止まる。
「八年間、君は僕の恋愛相談、どんな思いで聞いてたの?」
 ごめんね、と溜息のように謝罪されて、頭を肩に擦り付けられる。

「僕、今まで君のこと沢山傷つけてたよね?」
「……別に、そんなこと」
「あるだろう。……本当にごめんね」
「……そんなの、今お前とこうしてるだけで幸せだから、いい」
「っ長谷部くん……!」

 ぎゅう、と俺を抱き締める腕の力が強くなる。
「今まで傷つけちゃった分、君のこと沢山幸せにするから。覚悟してて」
 恐る恐る後ろを振り返ると、そこにあったのは俺だけを見つめる蜜色の瞳。俺が欲しくて欲しくてたまらなかった光忠からの愛情がそこに詰まっていた。

「……光忠、好きだ」
「うん。僕も長谷部くんのこと大好き」

 さっきまでベッドの上で何度交わしたかわからない睦言を吐きながら、互いに唇を重ねる。すき、すき、とキスの合間に囁かれて理性がどろどろに溶けていく。
 これは明日起き上がれないな、と確信しながらも、俺は光忠の後頭部を引き寄せて自ら深い口づけを贈った。

◆ ◆ ◆

 俺と光忠の交際が始まったと言っても、基本的に今までと付き合い方は変わらない。週末に時間が合えば一緒に映画を見に行ったり、どちらかの家に行って飲んだり、食事に行ったり。新たに加わったことと言えばセックスくらいで、しかしそのセックスが問題だった。
 俺も初めて知ったのだが、まず光忠は案外嫉妬深かった。ある日俺が会社の飲み会帰りに光忠の家で待ち合わせて玄関のドアをくぐった瞬間、「脱いで」と真顔で一言告げたかと思うと風呂場に押し込まれて体の隅々まで洗われた(詳細は割愛しておく)。
「長谷部くんから他の奴の匂いがするなんて耐えられない」
 光忠に言わせればそれに尽きるらしく、確かに飲み会で隣の席だった女性社員の香水や、前に座っていた先輩社員の煙草の匂いがスーツに染み付いていたが、あそこまで怒るとは完全に想定外だった。風呂で洗われた後はそのまま朝まで散々に抱き潰されて、目を覚ました時にはとっくに太陽は中天を越していた。
 光忠のセックスはとにかくしつこい。俺はこういう関係になるのは光忠が初めてだが、それにしたって一晩中睦言を囁き、俺がとろとろになって何も考えられなくなるまで責めたて、朝俺が目を覚ました時には体中キスマークや歯型だらけになっているのはあまり一般的ではないと思う。
「お互いいい年なんだから、もう少し加減というものを覚えてくれ」
 事後にそう文句を言えば、「八年分君を甘やかすって決めたからね」と愛おしげに頬を撫でられて、何も言えなくなってしまう。結局俺も光忠には弱いのだ。

◆ ◆ ◆

 黒と赤の金魚が二匹、長い尾びれを絡ませながらひらひらと泳いでいる。
 こいつらを譲って貰った店の主から色々教わりながら、日々水草を調整したり餌を変えたりと試行錯誤しているうちに、俺は金魚達に対してどんどん愛着が沸いてきた。夜店で貰った金魚だから心配していたが、変な病気になったりして弱る様子もなく、毎日すくすくと育っている。黒い方は「ミツ」、赤い方は「へし」と名付けた金魚達の泳ぐ水槽は、殺風景な俺の部屋の癒しアイテムとしても活躍していた。
「元気に育てよ、お前ら」
 そんなことを言いながら金魚達に日課の餌やりをしていると、後ろから光忠に抱きつかれた。
「妬けちゃうなぁ」
 耳元で低く囁かれて背筋がぞくりとする。「馬鹿」と窘めてガタイのいい体躯を押しのけようとしたものの、反対にぎゅうぎゅうと抱きしめられた。
「僕のことも構ってよ」
 かりっと耳朶を噛まれた後、ねろりと首筋に舌を這わされる。
「さっきまで、んっ、構ってただろうが」
「もうちょっと、ね?」
 着ていたシャツの裾からするりと手を差し入れられ、くりくりと乳首を摘ままれる。少し前までくすぐったいだけだったそこも、今では立派な性感帯だ。光忠に拓かれた身体は日に日に敏感になっている。

「長谷部くん。ねえ、駄目?」
「んっ、駄目じゃない、けど、ぁ、そこ、っ」
「ならいいよね」
「ばか、ぁ、ン」

 こういう関係になるまで、こいつがこんなに恋愛において粘着質な男だなんて知らなかった。今までの彼女との話を聞いた限りでは、光忠はいつも節度を保った付き合い、と言えば聞こえはいいが、随分と淡泊な交際をしていたようだったから。
「…………歴代の彼女が今のお前を見たらびっくりするんじゃないか」
 呟いた言葉は予想以上に拗ねたような響きになっていた。しかしなんとなく引っ込みがつかなくなってしまい、そのまま頭に浮かんだ言葉が口をついて出てしまう。
「お前がこんなに俺に執着してくれるだなんて思わなかったよ」
 俺の体をまさぐっていた手の動きが止まった。
「…………そうだね。自分でも不思議なくらい抑えが効かなくて、ちょっと戸惑ってる」
 ぽすり、と後ろから俺の肩に光忠の顎が乗せられた。

「こんなに誰かのことを好きになるのなんて初めてで、どうしたらいいかわからないんだ。まるで溺れてるみたいに、君がいないと息もできない」

 突然冷水を頭からかけられたような心地だった。
 ――なんて馬鹿な勘違いをしていたんだろう。
 光忠が俺を好きだと想っているのはあくまでも催眠薬の力なんだと、その言葉で改めて思い知らされてしまった。
 今の光忠からの愛情は、俺が俺自身の魅力や努力で勝ち得たわけではない。ズル、裏技、チート。そんな出鱈目な力でもって無理矢理植えつけたものだ。自然発生したわけではない、後付けの激しい感情に誰より困惑しているのは光忠自身だろうに、俺は恋が叶ったことに浮かれてばっかりで、そんな当たり前のことも考慮してやれなかった。
「……光忠、」
「でもね、それでも僕は幸せだよ、長谷部くん」
 振り返ると、光忠は本当に嬉しそうに破顔してみせた。

「君の魅力に気づくことができて、君からの愛情を正しく受け取って、それを返してあげることができて、僕はとても幸せだ」
「光忠、」
「愛してるよ、長谷部くん」

 ゆっくりと唇を重ねられる。もう既に体に染みついた筈の温もりとやわらかさが愛しくて堪らない。
 何故だか無性に泣きたくなってしまった。

◆ ◆ ◆

 会社からの帰り道、知り合いに会わないようにできるだけ人通りの少ないルートを選んで光忠と歩く。光忠は「見せつけてやろうよ」なんて言うけれど、もし共通の知人に会った時に平静でいられる自信がない。少なくとも俺がもう少し光忠との関係に慣れるようになるまでは、外でこういった触れ合いをするのはなるべく控えたかった。
 だというのに、ゆるく絡めた指は時々悪戯をするように俺の手の甲をくすぐる。こら、と軽く咎めたが、俺が本気じゃないことをわかっているらしく、一向にやめる様子がない。子供めいたその様子がかわいらしくて笑みを零す。
「アラサーのくせにあざとい真似をするな」
「同い年だろ」
 くすくすと笑いながら雑談を交わしていると、後ろから女性の声が光忠の名を呼んだ。
「光忠くん!」
 二人で振り返ると、そこにはショートカットヘアの美しい女性が立っていた。光忠がぽつりと女の名前らしき単語を口にする。
「…………○○さん」
「隣の人、誰ですか」
「関係ないだろう? 君とはもう別れたんだから」
 行こう長谷部くん、と手を引かれたが、俺の脚は地面に根が生えたように動かなかった。
 女性は光忠の背中に追い縋るように叫ぶ。
「今度こそ本気の恋だって、今までの彼女とは違うって言ってくれたじゃないですか! 見合いだって断るって言うから、私……!」
「悪いけど、僕はもう君のこと何とも思ってないから」
 ぞっとするほど低い声で光忠が言い放つ。
「僕が愛する人は彼だけだ。もう付き纏わないでくれるかな」
 女性はわっとその場に泣き崩れたが、光忠はそちらには一瞥もくれず、俺の方へ慈愛に満ちた笑顔を向けてくる。
「ごめん、待たせたね。じゃあ行こうか」
 その態度の差が恐ろしくて、でも嬉しいと思う自分もいて、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
 だって、光忠が俺を好きなのはあの薬のせいで。何かが一つ違っていたら、俺があの女の立場になっていてもおかしくなかったのだ。
 光忠に腰を抱かれるようにして強引にその場から離されたが、俺の頭には先程の女性の叫びがこびりついて離れなかった。
 ――今度こそ本気の恋だって言ってくれたじゃないですか!
 俺のしたことは、やはり間違いだったんだろうか。
「……長谷部くん? どうしたの?」
「……光忠、」
「ごめんね、びっくりさせちゃったよね。彼女、もう少し物分りのいいタイプだと思ってたんだけど、残念だな」
 そう言って光忠がそっと俺の頬にキスをする。
「僕が好きなのは君だけだよ。安心して」
 そう言ってく微笑んでくる光忠が愛しくて、切なくて、可哀想で、俺はもうどうしたらいいのかわからなかった。

◆ ◆ ◆

 あれから数週間考えた。俺が、光忠の心をこのまま弄っていていいものか。光忠には俺なんかより、もっと相応しい相手がどこかにいて、俺はその場所を無理矢理奪っているにすぎないのではないかと。
 偽りの愛情をこのまま享受し続けることに、俺は一生耐えられるんだろうかと。
 光忠が俺のことを愛していると言ってくれた。大切だと抱きしめてくれた。もう、それでいいじゃないか。俺はもう、その事実を後生大事に墓まで持っていくことにしよう。
 幸い、催眠薬は残り一回分。それで魔法は全て解ける。シンデレラの鐘が鳴る。
 俺はこのまま真実を隠し通し、光忠の催眠術を解くことを決意した。真実は俺の胸の内にあるだけでいい。あいつが事実を知ったところで、何もいいことはないのだから。
 思い立ったが吉日ということで、俺はさっそくメッセージアプリを立ち上げる。
『光忠、今週末はうちに来ないか?』
『いいけど、急にどうしたの?』
『知り合いからいい酒を貰ってな。つまみを作ってくれ』
 了承のスタンプが送られてきて、俺はふうと息をついた。恋人でいられるまで、あとたった数日だ。それを想うと今すぐあいつの声が聞きたくなって、光忠に電話をかけた。ちょうどスマホを見ていたところだったのだろう、たったワンコールで通話が繋がる。
『長谷部くん、急にどうしたの? 何かあった?』
「…いや、声が聞きたくなって」
『珍しいね。嬉しいけど』
「……光忠、好きだ」
 どれだけ嘘に塗れていた関係だったとしても、俺のこの想いは一貫して変わらなかった。

「初めて会った時から、お前が好きだった。これから先も、きっとずっと好きだ」
『……長谷部くん?』
「それだけ、言いたかった。おやすみ」
『? ……うん、おやすみ』

 通話を切って深く深く息を吐く。壁にこつんと頭をつけると、買ったばかりの水槽に疲れ切った顔の俺が映っていた。
「……みつただ、」

 俺の初恋。俺の最初で最後の男。
 いとしくていとしくて、だからこそ手を離さなければ、仮初の縁を断ち切らなければ。
 あいつを偽りの愛から解放してやらなければならない。

「みつただっ……!」
 視界が歪む。喉の奥が熱くて胸が痛い。だけどこれは当然の報いだ。薬で人の心を動かそうだなんてそんな事、最初からするべきじゃなかった。
 ひとりぼっちの俺を、ふたりぼっちの金魚が水槽の奥から見つめている。

◆ ◆ ◆

「ねえ、この間は何かあったの?」
「悪い、あの日は酔ってたんだ」
「長谷部くんが飲みすぎるなんてそれはそれで心配だな。今日お酒飲むのやめとく?」
「大丈夫だ」

 そんなことを言い合いながら俺はスーパーの袋を両手に提げた光忠を家の中に招き入れた。
 一週間ぶりに家に来た光忠は、勝手知ったるとばかりに俺の家の調理器具と冷蔵庫を駆使して次々と料理を作りあげていく。
「うわ、ズッキーニ買い忘れたかも。長谷部くん、悪いけどちょっと買ってきてくれる?」
「家主を使いっ走りにするとはいい度胸だな」
「それはお互い様だろう?」
 そう言うと光忠はパンと両手を合わせて俺に頭を下げてきた。
「ね? お願い。僕今料理中だからさ」
 そういう顔に俺が弱いことをわかっているのだから、タチが悪い。
「……わかった。行ってくる」
「いってらっしゃい」

 俺が無事スーパーで買い物を済ませて帰宅すると、テーブルの上にはスペアリブ、ピンチョス各種、アクアパッツァ等が並んでいた。
「あとラタトゥイユ作ったら終わりだから」
 そう言って光忠は俺からズッキーニを受け取ると、さっと洗って刻んで他の具材と一所にフライパンに放り込んだ。
「……随分豪勢だな」
「そりゃあ、大好きな人にはとびきり美味しい物を食べてもらいたいからね」
 ずきりと胸が痛む。
 最後の晩餐、なんて言葉が脳裏を過ぎり、馬鹿馬鹿しいと首を振る。
 これから俺達はただの友達に戻る。それだけだ。八年来の付き合いの、腐れ縁の親友同士に。
 冷蔵庫からワインを取り出し、光忠がフライパンに集中してるのを横目で確認しながら、抽斗からコルク抜きと催眠薬の入った小瓶をこっそり取り出す。
 愛用のペアグラスの片方に催眠薬を仕込み、上からワインを注いで光忠の席に置く。俺の分はただのワインをグラスに注ぎ、何食わぬ顔で席につく。
「長谷部くん、フライパンと鍋だけ先に洗って貰ってもいい?」
「ああ」
 元々どちらかが手料理を作ったら、もう片方が洗い物をする取り決めだった。光忠がテーブルセッティングをしている間、手早く洗い物を済ませると、クリスマスもかくやという見栄えのご馳走がテーブルの上にひしめいていた。
「あは、ちょっと張り切りすぎちゃった」
「……材料費は折半だからな」
「わかってるよ」
 乾杯、とグラスを軽く合わせて、ぐびりと中の液体を飲み込む。光忠もしっかり薬入りの酒を嚥下していることを確認して、俺はほっと胸を撫で下ろした。もうしばらくすれば薬も効いてくるだろう。こうして光忠と飲むのは最後だろうからと、酒屋でいいワインを選んで貰っただけあった。美味い。
 軽くつまむのにちょうどいいピンチョスも、魚の滋味が舌の上に行き渡るアクアパッツァも、しっかり味の染みたスペアリブも、さっぱりとしたラタトゥイユも、どれもかなしいくらい美味かった。
「……長谷部くんさ、」
「なんだ」
「他に好きな奴でもできた?」
 思わず飲んでいたワインを吹き出しかけた。

「はぁ?」
「この間様子が変だったから。もしかして別れ話でもされるのかと思ったんだけど、違った?」
「違う! 俺が好きなのはお前だけだ!」
「本当?」
「……ああ」
「僕は、君が好きだよ」
「…………そんなの、知ってる」

 そう。目の前の男が本当の意味で好きなのは俺ではないと、俺はもう知っていた。わかっていた。
「そっか、僕の勘違いか」
 光忠がにこりと笑う。含みのある笑みだった。
「実はね、前にこんな物をキッチンで見つけたんだけど、」
 いつの間にか光忠の指に見覚えのある紙がつままれていて、ひゅっと息を飲む。
「な……んで、」
 それは例の箱の中にしまっておいた筈の催眠薬の説明書だった。
「何かのジョークグッズの説明書にしては手が込んでるし、もしかして、と思ったんだけど、その反応を見ると使ったことがあるんだね?」
 思わず俯く俺の顔を覗き込むようにして光忠が続ける。
「ねえ、真面目な君がこんな物に頼ってしまうほど、誰の心を思い通りにしたかったのかな?」
 はせべくん。甘い声が俺の名を呼ぶ。

「……光忠、」
「なんだい?」
「違う、光忠に、好きになって、欲しくて」
「僕に?」


 ――そして俺はとうとう白状させられた。催眠薬を手に入れて、光忠にどんな催眠をかけたのか、全て。


「……だから、俺は今からお前の催眠を解いて、今まで付き合ってきたことを全てなかったことにしようと思う。お前はきちんと、真実の愛を手に入れるべきだ」
 そう締めくくると、じっとりとした沈黙が部屋を満たす。静寂を切り裂いたのは、光忠の溜息だった。
「……長谷部くん、」
 びくりと肩が跳ねる。
「長谷部くん、今の僕の正直な感想を言おうか」
 ごくりと唾を飲む。どんな非難や罵倒でも、俺は受け入れる覚悟があった。
「……真面目な長谷部くんがそんな手段を使ってまで僕を欲しがってくれたなんて嬉しい、だよ」
「……は?」
 何を言われたのかわからなくて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「大体、なかったことにするって、催眠をかけたとしてもどうするの? 僕のスマホには電話やメッセージの履歴もあるんだよ?」
 膝の上で拳を握ったままの俺に、光忠は淡々と事実を突き付けてくる。

「それとも、正気に戻った僕に全部説明してみる? でも正気に戻った僕は、きっと君を糾弾するだろうね。ありったけの嫌悪と軽蔑をぶつけて君の前から去るはずだ。大事な友人に心を踏みにじられて、恋愛不信どころか人間不信になってしまうかもしれない。一生物のトラウマになること請け合いだよ。おそらく僕は今後恋人どころか親しい友人すら作れなくなる」

 つきつけられた現実。わかっていたことを本人にぐりぐりと抉るように示されて、息が苦しくなる。
「長谷部くんの方も僕に拒絶されてとても苦しむだろうね。君は優しくて真面目だから、自分の犯した罪に向き合ってこれから一生恋なんてしないってひとり寂しく暮らそうとするだろう。でも僕は――今の僕は、そんな君を見たくない」
 長谷部くん。甘い甘い蜂蜜のような声が俺を呼ぶ。
「前にも言ったとおり、僕は今すごく幸せだ。これまで恋愛で悩んでたのが嘘みたいなくらい、君と過ごす日々が愛しくて楽しくてたまらない」
 光忠の手がテーブル越しにそっと俺の手に触れる。
「ねえ、この状況の一体何が問題だって言うんだい? 僕は君という最愛のパートナーを得て毎日が充実しているし、君も長年の恋が叶って僕を手に入れられた訳だ。それの何がいけないって言うのかな」
「…………それは俺が植えつけた心で、本当のお前の心じゃない。俺は、お前がこの先本当に愛せる人と会うための機会を奪っている。そんなのは不幸だろう」
「不幸?」
 くっと光忠が唇を歪ませた。
「……不幸って言うならね、せっかく心から愛せる人を見つけたっていうのに、いきなりそれを奪われるほうがよっぽど不幸だよ」
 光忠の指にぐっと力が入り、捕まれた俺の手がみしみしと軋む。
「光忠、痛い、やめ、」
「君は気まぐれで僕に恋心を与えておいて、今度はちっぽけな罪悪感のためにそれを勝手に取り上げようとする。僕にとって、それがもうどれほど大事なものであるかも理解せずに」
「っ、みつただ、」
「僕が不幸っていうなら。君がどうしても贖罪をしたいっていうなら、君は最後まで責任をもって僕を幸福にするべきだ――君自身の手で」
 そう言ってふっと手の力が緩められる。と同時に、俺の瞼が段々とろとろと降りてくる。急速に意識がぼんやりと霞みだす。
 これは。この兆候は。なんで。
 理解の追いつかない頭で、それでも慌てて光忠を見れば、俺の恋人はにこりと温度のない笑みを浮かべてみせた。
「もしかして、と思ってグラスは交換させて貰ってたんだけど、案の定だったみたいだね」
 くすくすと光忠が嗤う。
「君って本当に馬鹿だよね。勿論そんなところも可愛いんだけど」
「み、…ただ」

「愛してるよ。僕の、僕だけの長谷部くん」

 その声を皮切りに、俺の意識はすうっと闇に落ちた。

◆ ◆ ◆

「……長谷部くん、起きた?」
「ん……寝てたのか、俺は」
 なぜか頭がガンガンと痛む。たしか俺は光忠を家に招いて酒盛りをして、それで、それで――? 思い出そうとすると頭痛がひどくなるような気がした。俺ともあろうものが、飲みすぎたのだろうか。
「少しだけね。気分はどう?」
「頭が痛い」
「飲みすぎかな。大丈夫?」
「ほっとけば治るだろ」
 ソファから体を起こして頭を左右に振る。ローテーブルの上にはいつの間にか見覚えのない小瓶が置かれていた。光忠の私物だろうか。見ているとなぜか胸がざわざわするようなその瓶から無理矢理視線を外し、愛しい男の顔の方を見る。
「長谷部くん、」
 光忠は内緒話をする時のように声をひそめ、そうっと俺の頬を撫でた。
「僕のこと、好き?」
 急な問いかけに俺は首を傾げた。
 なんでいきなりそんなことを聞くんだろう。答えなら決まりきっているというのに。
「好きだ。愛してる」
 蜜色の瞳が嬉しそうに細められ、うっとりと俺を見つめる。
「……うん。僕も愛してるよ、長谷部くん」
 ずっと、ずっと昔から。

 俺はこの男に『溺れるように恋をしている』。

 壁際の水槽の底で、二匹の金魚がこぽりこぽりと真珠のような泡を四つ吐いた。


『溺れるように恋をしたの
 唇からダイスキの泡を四つ吐いて
 あなたと水底でふたりぼっち
 そんな恋がしたかったの』

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