3日目
「倶利ちゃん、聞いてる?」
「聞いてない」
「聞いてよ!こんな事相談できるの倶利ちゃんだけなんだよ!」
「うるさい。一昨日国重からも聞いたが、意地張らずにとっとと話し合ってくればいいだろう」
ぐいっと頭を押されて、長船光忠28歳はバランスを崩してごろりとカーペットの上に転がる。そのまま部屋に置いてあったクッションを抱えこみながら体を丸めた。
「……もうやだ……長谷部くんとは喧嘩しちゃうし倶利ちゃんは冷たいし長谷部くんは土日とも出かけててろくに顔見てないし死にたい……」
「おい、死ぬなら出て行け。迷惑だ」
年下の幼馴染は読んでいた本から顔を上げずにそう言った。お互いかれこれ10数年来の付き合いなので遠慮などない。
「君そういう所ほんとに長谷部くんそっくりだよね……」
「血縁だからな」
入社式で一目惚れして長年アタックし続けた長谷部が、自分の幼馴染である倶利伽羅廣光の叔父であることが発覚したのは、つい2年程前のことである。付き合い始めてからすぐの頃、長谷部本人がどうしても紹介しておきたい相手がいると言うので、嫉妬と警戒心を隠しながら待ち合わせ場所に行った時のことは今でもよく覚えている。見慣れた顔との対面に、しばらく長谷部を挟んで2人とも呆然としたものだ。
始めは兄弟のように仲の良い恋人と幼馴染の様子に妬いたりもしたが、長谷部との関係をあまり公にしていない現状、光忠とも長谷部とも親しい倶利伽羅は、貴重な相談相手として重宝している。
「長谷部くんと一緒に住めて今すっごい幸せな筈なのに、なんでこんなにうまくいかないんだろう……」
「いつまでも猫を被ってるからだ。そろそろ観念して素を出せばいい」
「僕は長谷部くんの前ではいつでもかっこよく決めたいんだよ!倶利ちゃんも知ってるくせに!」
光忠は外面がいい。それは光忠の、光忠にしかわからない美学によるものだったが、小さい頃から隣に住んでいた倶利伽羅の前ではこのように素が出てしまう。長谷部の前で外向けのデキる男の顔で振舞うのを見せる度、光忠は倶利伽羅から「誰だお前」と言わんばかりの冷たい視線を浴びている。
交際してからは勿論、同棲してからもそのポーズを崩すことはなかったが、家でも外でも気を張っている生活というのは、思いの外光忠のメンタルを削っていたらしい。先日とうとう本当になんでもないことでカチンときてしまい、長谷部と口論になってしまった。そのままつい意地を張ってしまって数日間口を聞かないでいたらこのざまだ。長谷部成分が圧倒的に不足していて、光忠は息も絶え絶えだった。
「喧嘩の時思わず怒鳴っちゃったけど、長谷部くんに嫌われてたらどうしよう……今日の出かけ先は粟田口くんの所って書き置きあったけど、浮気だったらどうしよう……平日だけじゃ飽きたらず、休日の長谷部くんまで独り占めとか秘書課爆発すればいいのに……」
「あんた本当にどうしようもないな」
「……最悪の場合長谷部くん殺して僕も死ぬしか……!」
「警察に突き出すぞ」
倶利伽羅は光忠をじろりと睨んでため息をついた。
クッションを抱えて床に転がって泣き言を零す姿は、お世辞にもかっこいいとは言えないだろうことは光忠も十分に自覚している。はっきり言って女々しい。無様だ。こんな姿を他人、特に大好きな恋人に見せる訳にはいかなかった。倶利伽羅は幼馴染なので例外だ。
読書を続行することを諦めたのか、倶利伽羅が本にしおりを挟んで閉じた。
「国重は、光忠が素を見せたくらいで嫌うような奴じゃない。ここで悩んでるくらいならとっとと帰って仲直りでもなんでもして来い」
ゴツ、と閉じたハードカバーの背表紙で頭を叩かれる。
「いたっ……もう、倶利ちゃんは長谷部くんと僕のどっちが大事なの?」
「国重」
「は、長谷部くんは僕のだからね!」
「あんたもう早く帰れ」
◆ ◆ ◆
長谷部は買ってきた食材をテーブルの上に置いて、ふう、と息を吐いた。
この土日、宗三と薬研に付きっきりで教えてもらったおかげで、なんとかまともな料理が作れるようになった。あの2人には感謝してもしきれない。食事は勿論だが、今度ケーキでも差し入れよう。
光忠は夕方まで廣光の家に行っていると朝に書き置きがあったので、作るなら今のうちだ。
同棲しだした頃に光忠が買ってきた揃いのエプロンの片割れを着け、シャツの袖を捲る。作るのはカレーライスとサラダだ。
ライスストッカーから3合分の米をザルに移す。米を教わった通りに研ぎ、水を捨てる。生ぬるい暑さの続くこの季節、冷水に手を入れてじゃくじゃくと米を洗うのは涼しくて心地が良い。
思えば、光忠はいつも自分の為に心を砕いてくれていた。
デートの時も目的地までの運賃やルート、食事場所までばっちり下調べをしてから、ごくスマートにエスコートをしてくれる。
同棲を開始して家事を分担する時も、始めは料理と洗濯が光忠、掃除と洗い物が長谷部という分担だった筈なのに、光忠は「ついでにやっておいたから」と長谷部の分の家事まで終わらせていることが多い。気づけばいつの間にかほぼ全ての家事を光忠がこなしていた。
光忠の愛情は心地の良いぬるま湯のようで、今まで長谷部は何も考えずそれに揺蕩っていればいいだけだった。
それでも、今回のことで、さすがにそれではいけないと反省した。
きっかけは些細なことだったが、喧嘩した時の様子からすると、きっと普段から色々溜め込んでいたものがあったのだろうと思う。
今回挑戦してみた料理は、やってみると大変だった。いつも光忠は簡単そうにこなしていたが、きっと迷惑もかけていた筈だ。
自分が光忠からもたらされる安寧を無頓着に貪っていた裏で、光忠は無理や我慢をしていたのではないのだろうか。もっと自分にして欲しいこと、自分が光忠にしてやれることはないのだろうか。
長谷部にとってそうであるように、光忠にとっても長谷部との暮らしが心安らぐものになるよう、自分からも何かを返したかった。甘えるだけではなく、甘えてもらえるようになりたかった。
光忠のことが好きだから。
長谷部の手の中で、皮を剥かれた野菜がゆっくりと乱切りにされていく。宗三に散々叱られ、薬研に励まされ、不格好ではあるが乱切りだけならそこそこできるようになった。
フライパンをコンロに置き、油を敷いて火をつける。教わった通り全開にしないように注意しながらつまみを回し、火加減を調整する。
手をかざしてフライパンが温まってきたと感じたら玉ねぎを投入し、透き通るまで炒めていく。本当は飴色になるまで炒めた方がいいらしいのだが、同僚2人から固く禁じられていた。フライ返しを細かく動かしながら、焦げがつかないように注意して火を通す。
目に眩しい純白の玉ねぎからうっすらと色が抜けてきた辺りで、肉(これは薬研の提案でカレー用のカット済の豚肉を購入した)を新たに投入する。肉の色が変わってきた頃にじゃがいもと人参を入れ、数分炒めた後にカレールウの袋に書いてある通りの量の水を鍋に注ぐ。特訓の際、目分量で水を入れたら物凄く薄味のカレーが出来上がったので、必ず量を計ってから入れるよう、これも宗三と薬研からきつく言われている。
鍋が沸くまでに、レタスとトマトを洗い、レタスは手で千切って水を張ったボウルの中に入れていく。トマトを6等分のくし切りにした辺りで鍋から湯気が立ってきたので、長谷部は一旦包丁を置いて軽く手を洗う。鍋の中には泡混じりの灰汁が浮いている。これを大まかにアク取りで掬っていくのだが、あんまり丹念に取り過ぎても味が良くならないそうだ。多少アバウトでもいいらしいので助かる。
おたまで野菜をいくつか掬い上げ、小皿に移して摘んでみる。人参がまだ固い。鍋に蓋をして、サラダの続きに取り掛かる。
水に放ったレタスをザルに開けて水を切り、木製のサラダボウルの中に入れる。光忠が普段やっていた盛り付けを思い出しながら、トマトと、汁気を切った缶詰のツナとコーンを上から盛りつけた。レタスの明るい黄緑に、トマトの瑞々しい赤と、コーンの弾けるような黄色が目に鮮やかだ。少し具材が偏ってしまった部分を簡単に菜箸で調整し、食べる寸前までラップをかけて冷蔵庫に入れておく。ドレッシングは光忠お手製のイタリアンドレッシングがあるので、食べる時にかけよう。
もう一度鍋から人参を掬って食べると、今度はちょうど良い硬さだった。長谷部は一旦コンロの火を止め、カレールウをぼちゃぼちゃと鍋に落としていく。普段光忠が作っていたルウのメーカーがわからなかったので、今回は宗三おすすめのカレールウを買ってきた。フレークタイプなので扱いも簡単で溶けるのも早いらしい。
ぐるぐるとおたまでかき混ぜていくと、透明だった鍋の色が段々とカレーの色に変わっていくのが面白い。キッチンにカレーの匂いが充満していく。
やればできるじゃないか。鍋を目の前にして長谷部は満足気に頷いた。あとはもうひと煮立ちすれば完成だ。
なんとなくキッチンにあるバルサミコ酢だとかアンチョビだとかを入れてみたい欲求に駆られるが、それも我慢する。
料理は難しい。美味しいものと美味しいものを足しても、必ずしも美味しくなるとは限らないとこの数日で学んだ。光忠はよく冷蔵庫やキッチンにあるものを組み合わせて、ささっと料理を作るが、あれは料理上級者の技らしい。
この土日で宗三には一生分怒鳴られた気がするな、と思っていると、玄関のドアが開く音がした。
「えっ……カレーの匂い?ちょっと長谷部くん!?」
慌てた声と共にリビングのドアが開かれる。光忠はぽかりと口を開けてキッチンに立つ長谷部を眺めている。
「………………長谷部くんが、料理してる………………」
信じられないようなものを見た顔をしている光忠がなんだか面白くて、長谷部はにやりと笑った。5日ぶりの会話だった。意地を張って無言を貫いていた光忠が、動転して自主的に話しかけてしまうほどには衝撃的な光景だったらしい。
「おかえり。なんだ、俺が料理しているとまずいのか?」
「ただいま。いや、そんなことないけど……え、長谷部くん無事?怪我とか火傷とかしてない?」
光忠はキッチンまで足早に歩いてきて長谷部の手を掴み、「怪我してるじゃないか!」と悲鳴に近い声を上げた。特訓の最中に包丁で切った傷だった。とっくに血は止まっているし、痛みもないのだが、光忠は自分が怪我したかのようにきゅっと眉根を寄せてつらそうな顔をした。少しばかり罪悪感を覚える。
「キッチンは焦がしてないぞ」
「そんなのはどうでもいいよ。長谷部くん、ここまでやってくれて本当に嬉しいけど、あとは僕がやっておくから」
持っていたおたまを取り上げられそうになって、長谷部は慌てて手を振り払った。
「やめろ。今日は俺が作ると決めたんだ。最後まで俺にやらせろ」
「けど、」
「お前に言っておきたいことがある」
真剣な声色に何かを感じたのか、光忠が姿勢を正した。
「まず、この間は悪かった。俺ももっと歩み寄るべきだった。あと、キッチンを勝手に使ってすまない」
光忠が口を開きかけたのを軽く手で制し、長谷部は言葉を繋げる。
「カレーは俺からの詫びだ。お前と一緒に食べたくて作った。いつもお前に作ってもらっているから、俺からも何か返したかったんだ」
おたまを持っているのとは逆の手で光忠の頬に手を伸ばす。伝わって欲しいと、そう思う。
「料理は難しかった。お前、すごかったんだな。今回のことで、今までお前に甘えすぎていたと反省した。迷惑をかけてすまなかった」
「迷惑だなんて、そんなこと思ったことないよ。僕がやりたいからやってるんだ。君が好きだから、僕にできることは全部してあげたいんだよ」
ああ、これはわかってないな、と思いながら、長谷部は恋人の頭を撫でる。光忠、と名前を呼ぶと、蜂蜜の色をした瞳がゆらりと揺れた。
ふと、カレーの隠し味に蜂蜜を入れるのもいいという薬研のアドバイスを思い出した。今度ぜひ挑戦してみたい。
「これからは俺も、俺だってお前に何かしてやりたい。もっと甘えて欲しい。対等でありたい」
それが恋人ってやつなんじゃないのか、と言うと、目の前の光忠の左目からぼたぼたと涙がこぼれ落ちた。
「長谷部くんんんん!」
ガバリ、と抱きしめられて、服にカレーの纏わりついたおたまが付きそうになったので、長谷部は慌てて後ろ手で流しにおたまを放り込んだ。ガラゴロンと金属音が響く。シンクが凹んだかもしれないのであとで謝ろう。
「ごめん、ごめんね。僕自分のことしか考えてなかった!長谷部くん、ごめん。大好き」
ごめん、すき、ごめん、と交互に囁かれ、痛いほど抱きしめられる。苦しい、と呟くと力は緩められたものの、背に回った腕はそのままだ。
「この間喧嘩しちゃって、ずっと謝ろうと思ってたんだけど、僕もなんだか意地張っちゃって、5日も長谷部くんの声聞いてなかったし、土日ともいないし、僕、ずっと寂しくて、」
えぐ、えぐ、としゃくりあげながら光忠が言う。喧嘩したのも今回が初めてなら、光忠が泣くのも初めて見た。いつも完璧に整った光忠の、初めて見る泣き顔はなんだか不格好で、それでもとても愛おしかった。
思わず指で涙を拭うと、その手をそっと取られて口付けられる。
「でも長谷部くんが、僕のためにこんなに頑張ってくれたの、すっごく嬉しいよ。ありがとう」
「おい、勘違いするな。お前の為じゃない。俺達の為だ」
そうだったね、と光忠が泣きながら笑う。
「あのね、長谷部くん。僕、これからもっと君に甘えてみようと思う」
「ああ」
「かっこ悪い所とかも、沢山見せちゃうかもしれない。それでもいい?」
「二言はない」
「ありがとう。大好き」
そう言って降りてくる唇を、長谷部はゆっくりと目を閉じて迎え入れた。
できた料理をテーブルに並べると、光忠はいつにないハイテンションで「すごい」「嬉しい」を連呼した。作ったこちらとしても悪い気はしない。
湯気を立てるぴかぴかつやつやの白米に、とろりとかかった具の大きめなカレー。トマトとツナとコーンの乗ったサラダには、光忠特製のドレッシングを回し入れる。
「長谷部くん、本当に頑張ったんだね」
偉い偉い、と頭を撫でられる。いつもだったら子ども扱いするなと振り払う所だったが、今日はそのままにしておく。なんだか気恥ずかしくて、ごまかすように咳払いをする。
「この土日は宗三と薬研の家でこのために特訓を受けてきたからな」
ぴた、と一瞬光忠の動きが止まる。
「……………………あれ、長谷部くん、その2人って苗字で呼んでなかった?」
「ああ、昨日から成り行きで名前で呼ぶことになってな。どうかしたか?」
「……ううん、なんでもない。ほら、早くご飯食べよう」
今日は本当にいつにもましておかしいなこいつ、と首をひねりつつ、長谷部は光忠と向かい合わせになって手を合わせる。
「「いただきます」」
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