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本編
長船光忠は小さい頃、祖父の家に遊びに行くとよく遊んでくれた優しいお兄さんが大好きだった。名前は長谷部国重くん。兄弟のいない光忠にとって、長谷部くんはまるで本当のお兄さんのようだった。けれど、何故か長谷部くんと遊ぶ時、両親はどちらも良い顔をしなかった。
長谷部くんと別れて帰宅するのが嫌で両親に一度だけ我儘を言ったことがある。
「おかあさん、おとうさん、僕長谷部くんが欲しい」
その時のことはよく覚えている。泣き叫び床に崩れ落ちる母、怒鳴る父、耳障りな罵声の数々。
それ以来、光忠が長谷部くんと表立って会うことはなくなった。
祖父の家に行っても、すぐ席を外したり、用事があるといって外出したりしていて、明らかに長谷部くんから避けられるようになった。
ショックだったけど、でも諦めきれなくて、ある日光忠はみんなが寝静まった夜にこっそり祖父の家の裏口から忍び込んだ。ちょうど十一歳の頃だった。
静まりきった長い廊下を進んでいくと、押し殺した悲鳴のような声が聞こえた。声の方向に向かうと、祖父の寝室のドアの前に辿り着く。中からは長谷部くんと祖父の声がした。何か後ろめたいような気持ちがありつつも、好奇心に負けてそうっとドアノブを回し、隙間から覗き込むと、ベッドの上で裸の二人が何かをしていた。
「ぁ、先生、もっと、」
国重くん、と呼びながら祖父が腰を動かすと、ああっと長谷部くんの唇から声が漏れた。二人分の荒い息遣いに、ギシギシと鳴るベッドの音。見てはいけないものを見ていると直感的にわかった。あれは、あれは――セックスだ。
祖父と長谷部くんがセックスをしていた。
そこからのことはよく覚えていない。泣きながら家に戻り、自室で布団を被りながら熱くなって形を変えていた幼い性器をがむしゃらに擦る。頭の中で裸の長谷部くんがぐるぐると回る中、痺れるような快感と共に生まれて初めての射精をした。
それ以来、長谷部くんとは長い間会っていなかった。祖父と会うのも、年に一、二度程度に減った。明らかに安堵する両親の姿に、子供ながらになんとなく祖父と長谷部くんの事情を察してしまった。
中学生から高校生、高校生から大学生になり、女の子や、時には男の子とも付き合ってみた。セックスも何度かしてみたけれど、思い出すのはいつもあの夜の長谷部くんの痴態だった。
祖父の体調がよくないと聞いたのは、大学四年生の卒業式直前の時期だった。卒論も就活も終えてほっとしていた頃、複雑そうな顔で話しあう両親の姿を見て、光忠が真っ先に考えたのは長谷部くんのことだった。
彼は、祖父が亡くなったら一体どうなってしまうんだろう。祖父以外に身寄りのない八つ年上の幼馴染のことを思うと、居ても立っても居られなかった。
両親に言ったら反対されそうだったので、バイトに行くふりをして祖父の入院する病院に見舞いに行くことにする。
受付で教えられた個室の病室に辿り着くと、ちょうどドアから人影が出てくるところだった。煤色の髪が蛍光灯の光を反射して鈍く光る。「あ」と思わず声をあげる。長谷部くんだった。あの頃より輪郭から柔らかさが抜け、背も伸びている。愁いを帯びた藤色の瞳だけがあの頃からすこしも変わらない。長谷部くんはこちらを見てはっとしたように表情を変えた。
「光忠……か?」
「うん。久しぶり」
十年ぶりに会った幼馴染に対する言葉がそれかと自分でも呆れる。
「……長谷部くんもお見舞い?」
「……ああ。先生は中だ。俺は帰るから、見舞ってやってくれ」
そう言うと、長谷部くんは足早に去っていった。お互いにもう子供ではない。自分ももう長谷部と祖父の関係に気づいていた。長谷部は祖父の愛人だ。
久しぶりに会う祖父は、記憶の中よりもひとまわり小さくなっていた。祖父の孫の中で、若い頃の祖父に一番似ていると言われているのが光忠なので、自分も年を取ったらこうなるのかな、となんとなく思う。
祖父には就職が決まったことを報告して、取り留めもない会話をした。病室は清潔で、花が飾ってあった。ピンクのガーベラや白いカスミソウを活ける長谷部くんの姿を想像して、胸が締めつけられた。
「……おじいちゃん」
「なんだい」
「もしおじいちゃんが死んだらさ、」
「縁起でもないことを言うなぁ。それで?」
祖父は特に傷ついた風でもなく鷹揚に笑って先を促した。心臓がどくどくとうるさい。
「……長谷部くんを、僕に頂戴」
祖父は一瞬だけ目を丸くし、その金色の瞳を細めた。
「……そんなに欲しいのかい」
彼以外欲しくないのだと、他には何もいらないのだと、再び出会ってその思いはますます強くなった。力強く頷いてみせる。
「長谷部くんが欲しい」
人生で二度目の我儘は、思ったよりもするりと口から出た。
祖父は溜め息とも深呼吸とも取れるような長い息を吐いて、窓の外を見た。夕暮れが祖父の顔を照らして、もうほとんど白に近い髪がきらきらと光った。
祖父はそのまま是とも否とも答えずに穏やかに微笑んだ。
「……もう日が暮れる。そろそろ帰りなさい」
「うん。また、来るから」
そう言って病室を出て行く。
――それが祖父と交わした最後の言葉になった。
それなりに資産家だった祖父の遺言を聞こうと親戚が集まる中で、弁護士によって土地と家は行政に寄付する、と一文が読み上げられると、落胆の溜め息があちらこちらから上がった。
「そして、もうひとつ。最後に――」
弁護士がすこし言いづらそうに口を開く。
「『僕の愛する長谷部国重くんの処遇を、孫・光忠に託す』」
その言葉を聞いて両親が悲鳴を上げたが、そんなことは気にならなかった。急いで部屋から出て行き、光忠は記憶にある長谷部くんの自室に向かう。早く、早く。焦りでもつれそうになる足をどうにか進めていく。
ノックをして開いた扉から、神経質そうな藤色の瞳が見えた瞬間、押し入るようにして強引に部屋に入った。
「光忠、なに、」
「長谷部くん、」
長谷部くん、長谷部くん、長谷部くん。何度も何度も、会えなかった分を埋めるように名前を呼んで抱きしめる。小さい頃はあんなに大きく見えた体なのに、今となっては腕の中にすっぽりと収まるくらいだった。
戸惑いに揺れる藤色の瞳は、潤んで赤くなっていて、きっと先ほどまで泣いていたのだろう。長谷部くん。光忠はその唇にそっと自分の唇を重ねた。今までのどのキスよりも頭がくらくらした。
「っ、なんだ、おまえ、」
突き飛ばそうともがく体を押さえ込みながら、光忠は長谷部にそっと耳うちした。
「今日から君は僕のものだ」
◆ ◆ ◆ ◆
長谷部国重はいらない子供だった。
物心ついた頃からずっと、母から「おまえなんかいなければよかったのに」と言われて育った。父はどこの誰だかもわからない。珍しい髪と瞳の色で周囲からからかわれ、いじめられた。友達なんてできるわけもなかった。
ある雪の夜、母から裸足で家を追い出された。冷えきったコンクリートは歩くたびに針が刺すような痛みを長谷部に与えた。栄養不足の荒れた唇がひゅうひゅうと白い息を吐く。石に躓いて転んで、切れた唇から血の味がした。近所で有名な放置子の長谷部を助ける者は誰もいない。
(…このまま、死ぬのかな)
涙も出なかった。このまま雪に埋もれて死んでも、きっと誰も悲しまないだろう。
(もういいや)
長谷部にとって生きることはつらいことで、楽しみなんて何ひとつなかった。だから、もういい。もう楽になりたい。
その時だった。
「君、大丈夫かい!?」
そっと体を抱き起こされ、顔を覗きこまれる。満月のような金色の瞳が綺麗な、初老の男性だった。
「お母さんはどこ? ああ、それより病院が先かな」
力なく首を横に振る。痩せ細った手足と、傷だらけの裸足を見て、男性は何かを悟ったらしかった。
「……君、お名前は?」
「…………長谷部、国重」
「そうか……国重くん、もう大丈夫だからね」
そう言うと、男性は長谷部に自分のコートをかけ、小さな体を抱えて病院へとひた走った。
それが長谷部と「先生」の出会いだった。
どういう手を使ったのか、それからあれよあれよという間に長谷部は男性の家に引き取られることになった。
「僕のことは先生と呼んでくれ。若い頃教師をしていてね」
そう言って先生は長谷部に色んなことを教えてくれた。算数や国語だけでなく、庭に咲く花の名前もその込められた意味も、夜空に散る星の名前も、全部先生から教わった。
目の色を気にする長谷部に、「僕も変わった目の色をしてるだろう。お揃いだね」と笑ってみせてくれた。若い頃事故で失ったという右目には眼帯がつけられていて、ひとつきりの金の目はやはり満月のようで綺麗だった。
親愛が敬愛に、敬愛が思慕に変わるのにそう時間はかからなかった。
「先生が好きです」
初めて告げたのは中学生の時だった。
「悪いけど、君のことは孫みたいにしか思えないよ」
そう言ってやんわりとつき離そうとする先生を何年もかけてようやく説得して、ようやく抱いて貰えた時は夢みたいだった。
先生と長谷部のただならぬ関係に気づかれ、親類縁者から散々に批難されたけれど、長谷部は構わなかった。どうせいらない子供だったのだ。今更誰にいらないと言われてもそれでいい。先生がいてくれれば、それで。
そんな長谷部にも、先生の他に一人だけ特別な相手ができた。先生の孫の光忠だ。アルバムで見た先生の若い頃によく似た面ざしで、にこにこと長谷部の後をくっついて歩く年下の少年はかわいらしかった。
「長谷部くん、あそぼ!」
先生は長谷部の過去を思いやって、長谷部のことは「長谷部くん」ではなく「国重くん」と呼ぶ。光忠に呼ばれる「長谷部」の響きは嫌いではなかった。長谷部は初めて自分の名字がすこしだけ好きになれた。
兄弟も友達もいなかった長谷部にとって、光忠はまるで宝物みたいな存在だった。大好きな先生の血を引いた、誰からも愛された幸せな子供。今までもこれからもずっとずっとこのまま幸せであってほしいと、そう思っていた。
長谷部が身の程を思い知ったのは、光忠の母親に頬を打たれた時だった。
「この……売女! お父さんだけじゃなくて光忠まで誑かして……!」
おまえなんかいなければ。聞き飽きた筈の言葉が、やけに胸に刺さった。泣きわめく光忠の母親に、自分の母親の姿が重なる。
母親をどうにか追い出した後、先生は長谷部に泣きながら謝った。
「全部僕のせいだ。君は何も悪くない」
違います、と長谷部も震える声で否定した。
「俺が、悪いんです。俺が、いなければ」
かわいそうな先生、かわいそうな光忠。自分なんかの為に傷つく彼らが哀れでいとおしくて、それゆえに申し訳なかった。自分が、全て狂わせてしまったのだ。
そのまま泣きながら体を重ねて、もうこれで最後にしようと言われた。
「明日から、僕と君はただの養父と子供だ」
最後のキスは涙の味がした。
光忠とは距離を置くようにしているうちに、向こうも何か察するものがあったのだろう、次第に先生の家から足が遠のき、会うことも少なくなった。それでいい、自分のいない世界で幸せになってほしいと思った。
老化と病気でゆっくりと弱っていく先生の面倒を見ながら、それでも長谷部は幸せだった。
先生は変わらずに優しかったし、長谷部を慈しんでくれた。開発された若い体と性欲を持て余す夜もあったけれど、それでも先生と光忠のことを思えば我慢できた。
「……君は、もうどこにだって行けるんだよ」
そう苦笑する先生に、長谷部は頑なに首を横に振った。
「俺が居たいのは先生の隣なんです」
たとえ、それが養子としての立場であったとしても、長谷部を初めていらない子ではなくしてくれた先生の側にずっと居たかった。それだけは、どうしても譲れなかった。
とうとう先生が入院することになり、長谷部が病院に見舞いに行くのが日課になった頃、光忠と再会した。
成長した光忠は、うつくしい青年になっていた。先生があと数十年若かったらこんな感じだろうという容貌に、思わずはっと息を飲む。ふたつの金の瞳が見開かれ、長谷部を見ていた。
風の噂で、光忠が元気にやっているらしいということは聞いていた。大きくなったな、とか、元気か、とか、言いたいことは沢山あったけれど、長谷部の脳裏にかつての言葉が蘇る。
――おまえなんかいなければ。
自分は、もう光忠に関わるべきではない。
短く言葉を交わし、足早にその場を去る。次からは、見舞いの時間をずらした方がいいかもしれない。
――そう思っていた矢先に、先生が亡くなった。
病院から先生の死を聞かされたけれど、親族の反対で葬儀に出ることはできなかった。愛する先生の死が、そしてその先生ときちんとお別れもできないことが悲しくて、悔しくて、何日も自室でひとり泣き暮らしていると、部屋のドアがノックされた。誰だろうか。わずかに開けると、自分よりすこし高い位置に燃えるような金の目がふたつ光っていた。
後ずさると同時に中に踏み入れられる。
「光忠、なに、」
「長谷部くん、」
長谷部くん、長谷部くんと何度も名前を呼ばれ抱きしめられる。突き飛ばそうともがいたけれど、たやすく封じ込められてしまう。あんなに小さかった光忠と、いまや力の差は歴然だった。
「長谷部くん」
唇を塞がれる。十年ぶりに味わう他人の熱に頭が混乱する。なんで。どうして。先生とよく似た声が耳元で囁かれる。
「今日から君は僕のものだ」
おまえなんかいなければ、と叫ぶ声がどこかで聞こえた気がした。
「……どういう、ことだ」
カラカラに乾いた喉を震わせる。
「おじいちゃんの遺言にあったんだ。君の処遇を僕に託すって」
たくましい腕で腰を抱かれて引き寄せられる。下腹部に当たった固い感触に思わず顔を赤くする。
「お、まえ、なんで」
ねえ長谷部くん。甘く名前を呼ばれてぞくりとしたものが背筋を走る。
「おじいちゃんとも、寝てただろう。見たんだ、僕」
「なに、」
「セックス、してただろう。おじいちゃんの寝室で」
かつての先生との情事が、よりにもよって光忠に見られていたことに頭が真っ白になる。
「ねえ、僕にも抱かれてよ」
そう告げる光忠の目にはたしかに情欲が滲んでいて。
ああ、と手で顔を覆いたかったけれど、光忠の腕にきつく抱きしめられていて身動きが取れない。
あんなに大切だった子供を、自分が歪めてしまった。その衝撃は長谷部を打ちのめすには充分だった。
「ずっと君が欲しかった。小さい頃から、ずっと」
もう一度唇を重ねられる。悲嘆と絶望で目の前が真っ暗なのに、それでも求められることに長谷部は弱かった。それが光忠なら、なおさら。
それに、これが先生の遺言だというなら、長谷部には叶える義務があった。
「僕のだ。僕の長谷部くん…」
うっとりと名前を呼ばれ、ベッドに押し倒される。
自分が運命を狂わせてしまった光忠が哀れだった。光忠のことを思うなら、きっと今すぐ光忠を突き飛ばして、そのまま行方をくらますのが正しいのだろう。だけど。
こんな自分を欲しいと言って貰えることが、嬉しい気持ちもたしかにあった。自分の浅ましさに涙が出る。
「……泣くほど嫌?」
光忠は一瞬顔を曇らせたが、振り切るように首を振った。
「……でも、関係ない。もう君は僕のものだ」
シャツのボタンをぶちぶちと引きちぎられる。あらわになった胸元を撫でながら、光忠ははあと溜め息をついた。
「綺麗だ、長谷部くん…」
――国重くん、綺麗だよ。
いつかの先生の言葉を思い出す。やはりふたりはよく似ていた。どちらも長谷部が心を寄せ、長谷部が人生を狂わせた相手だった。
ぼろりと溢れた涙を舐めとられながら、長谷部はその長い睫毛をそっと伏せた。
十年ぶりに拓かれた体は、しかし一度種火を灯されると燃え上がるのは早かった。
「ぁ、あっ、あ、」
乳首を吸われながら後ろをぐちぐちと指でかき回される。光忠は明らかに男を抱きなれていた。中の弱いところも的確に探り当てられ刺激されると、長谷部の口からは意味のない音がぽろぽろと溢れた。
ひたすらに長谷部を高めようとしていた先生の抱き方とは違う、若く性急な愛撫だった。
「……何、考えてるの?」
「ぁ!」
がり、と乳首に歯を立てられ、痛みとそれだけでない感覚に背筋を反らせる。
「はは、中、きゅんってしたね。痛い方が好き?」
指を引き抜かれ、熱いものがひたりと押し当てられる
「光忠、駄目だ」
これ以上は、おまえが戻れなくなる。そんなつもりで名前を呼んだが、光忠は怒ったように唇を引き結んだ。
「……やめないよ」
そのままぐりっと腰を進められる。熱い肉がめりめりと長谷部を引き裂いていく。
「っあ、ぁああ、あ!」
長谷部の顔中にキスを降らせながら、光忠はうっとりと呟いた。
「っは、ぁ……長谷部くん、わかる? 僕の、君の中に入ってる……」
受け入れている部分の縁をぐるりとなぞられて、甘い痺れが全身を走った。
「ぁ、や、」
「嫌じゃないだろう、前もこんなにしちゃってさ」
「ぅあ、あ、ん、ぁ!」
立ち上がってだらだらと先走りを零していた性器を握られ、上下に扱かれるともうたまらなかった。同時にゆるゆると腰も動かされ、喉の奥からひっきりなしに甘い声が溢れてくる。
「……動くよ、」
そう宣言すると、光忠は長谷部の足を抱えてがつがつと腰を使い始めた。
「んっ、ぁ、や、あぁあっ」
「長谷部くん、長谷部くんっ……」
ずるずると抜かれ、奥まで差し入れられる。それだけの単純な動きにどうしようもなく翻弄される。シーツを掴みながら快楽の波に振り落とされないようにするのが精一杯だった。
やがて長谷部が達するのとほぼ同時に、光忠も低く呻いて長谷部の中に思いの丈を吐き出した。
快感と涙で滲む視界の向こうで、大好きだった金色の瞳が光っている。二度と見ることはないと思っていた色に、せんせい、と思わず名前を呼ぶ。
「……っ」
ぐん、と体の裡に埋められていた肉杭が再び力を持ち始めた。
「……今君を抱いてるのは、僕だよ」
触れている体の熱さとは対象的な、冷え切った声だった。再びずんずんと律動を再開される。
「っ、やめ、」
「光忠、だよ。光忠って言って」
みつただ、と一度呼んだだけでは足りず、何回も名前を言わされる。
「あ、みつ、みつただ、あぅっ」
「もっとだよ、もっと……」
そのまま夜が更け喉が涸れるまで求められ、最後の方は記憶にない。
◆ ◆ ◆ ◆
あれ以来、長谷部は光忠が一人暮らしをしているマンションに引っ越しをした。させられた。
「……あそこよりは大分狭いけど、我慢して。もっと稼げるようになったら、もうすこし広い家に引っ越すから」
昼間、光忠が会社に行っている間は家事をして過ごした。一人暮らしのサラリーマンの家なのでひととおりの家事はすぐに終わってしまい、しまいには窓の棧まで拭いていたら帰宅した光忠に呆れられた。
「……何か、他に趣味とかないの」
庭いじりが好きだったことを話すと、次の日に鉢植えを買ってきてベランダに置いてくれた
紫色の、金魚のしっぽに似た花をつけるリナリアだった。
「……ありがとう」
小さく礼を言うと、光忠は「別に、このくらい大したことじゃない」と言って、そのままベッドに連れ込まれた。抱かれるのかと思って身を固くすると、光忠は長谷部を抱き寄せたまま眠ってしまった。
光忠は、あれ以来長谷部をあまり抱かなくなった。頻度が減っただけで、時折ひどく抱かれることもあったけれど、それでも、おおむね優しい。
――長谷部くん、あそぼ!
小さかった頃の光忠のことを思い出す。曇りのない眼差しで長谷部を見つめ、笑いかけてくれた幸福なこども。
顔にかかった長い前髪をかき分けてやると、端正な顔立ちがあらわになる。華やかで、それでいて男らしく整った顔立ちは、やはり先生によく似ていた。
「……俺達は、どこで間違ったんだろうな」
溢れた問いは部屋の中にがらんどうに響いた。
あの後弁護士から連絡があって、長谷部も先生の遺言の内容を知らされていた。
「僕の愛する長谷部国重くんの処遇を、孫・光忠に託す」
どんな意味であっても、それが遺言状の記載であっても、たしかに先生に愛されていたという事実が長谷部の心の支えだった。
長谷部に対する先生の遺言は、法的拘束力を持たない。長谷部は、出て行く気ならばいつでもこの小さな部屋を出て行けた。
「ん……」
光忠が顔を顰めながら長谷部の体を抱き寄せる。今ではすっかり慣れた光忠の香りに包まれて、長谷部は小さく息を吐いた。
光忠は、先生に似て優しい。優しいからこそ、きっと長谷部のことで傷ついているのだろうと思う。自分が側にいることですこしでも光忠の心が癒やされるなら、たとえ思い上がりに過ぎなくてもそうしたかった。
それに、と思う。
欲しいと、言ってくれたから。
親からも周囲からもいらないと言われた長谷部を、心の底から欲しいと、必要なんだと必死に乞い願う光忠に、たしかに心が揺れた自分がいた。
「……みつただ、」
この部屋がいつか割れることのわかっている卵の中だとしても、まだもうすこし、ふたりで微睡んでいたかった。
◆ ◆ ◆ ◆
長谷部を無理矢理抱いて以来、光忠は後悔していた。祖父を失った悲しみにくれる長谷部を、あんな風に強引に奪うなんて、どうかしていた。だけど、どんなに長谷部に優しくしようとしても、長谷部の言動から滲む祖父への思慕を見つけると、凶暴な気持ちが抑えられない。
淹れられたコーヒーに当たり前のように足されるミルク、買ってきた花を慈しむ手つき。寝ぼけて光忠を先生と呼んだ時など、胸の中で炎が燃え上がるような心地がした。
(……わかってる。長谷部くんが好きなのは、僕じゃない。おじいちゃんだ。僕は、長谷部くんにとっておじいちゃんの代わりに過ぎない)
惨めで、情けなかった。だけど長谷部の手を離すことはできなくて、ままならない気持ちを燻らせ、持て余していた。
「すこし、出かけてくる」
長谷部がそう告げてきたのは、ちょうど祖父が亡くなって三ヶ月が経った頃だった。
今まで買い物や銀行などには行っていたので、「買い物?」と聞くと、言葉を濁された。
「僕には言えないところ?」
すこしきつめに問い質すと、長谷部は唇を引き結んで瞳を揺らした。
「答えてよ。どこに行くつもり?」
「……それは」
「じゃあ体にでも聞こうかな」
長谷部に手を伸ばそうとすると、この三ヶ月で初めて、長谷部に手を叩き落とされた。驚いて言葉を失っていると、長谷部はようやく口を開いた。
「……先生の、墓参りに行きたい」
長谷部は親族の反対にあって、通夜にも葬儀にも出られなかった。あれだけ祖父を慕っていた長谷部が、祖父の墓参りをしたいというのは至極当然のことだろう。
だけど、――だけど、どうしても許せなかった。
「……行かせない」
ぎり、と奥歯を噛みしめ、怯えた顔の長谷部の腕を掴み、そのまま床に押さえつける。
「やめろ、光忠、っ」
いつになく反抗的な長谷部の服を破り捨てるように脱がせていき、慣らしもせずに挿入した。
「っっっ!」
「はは、ここだって悦んでるじゃないか。ぐっぽり咥え込んじゃってさ。君をこの三ヶ月抱いてきたのは誰? 答えてよ、ほら」
やだ、やめろ、と長谷部が抵抗すればするほど乱暴な気持ちが湧き上がってくる。
それなのに、悲しくて悔しくてたまらなかった。
なんで。どうして。なんで――、
「…………光忠?」
不意に動きを止めた光忠を怪訝そうに見上げた長谷部が、はっとしたように目を見開いた。
光忠はふたつの金の目からぼろぼろと涙を零していた。
「光忠、」
「……もういい」
ずるりと陰茎を抜くと、長谷部が「ぁう」と声を上げる。
床に散らばっていた服をばさりと長谷部に投げつけ、光忠は言い放った。
「どこにでも行くといい。君は自由だ」
凍りついた長谷部を見ないふりをして身支度を整える。
「……外で頭を冷やしてくるから、その間に出て行く支度しておいて」
「っみつ、」
追い縋る声を背中に聞きながら、後ろ手に玄関のドアを閉めた。
◆ ◆ ◆ ◆
それは、光忠が酔っ払って帰って来た日のことだ。
玄関先で珍しく酒の匂いをさせる光忠に水のペットボトルを手渡そうとすると、ぎゅうと抱きしめられた。
「長谷部くんだぁ」
首筋に顔を埋められたけれど、性的な触れ方ではなく、犬が飼い主にじゃれつくような動きだった。
「……随分飲んできたんだな」
「んー? うん、そうだね。結構酔ってる、かも」
酔っているという自覚はあるらしい。苦笑しながら「風呂でも入れ」と促すと、やだ、と返された。
「プリンがね、あるんだ」
「プリン?」
光忠は持っていたコンビニのレジ袋をがさがさと慣らして、そこからプリンの容器を取り出した。
「一緒に食べようと思って」
それは光忠がまだ小さな頃、よく一緒に食べたメーカーのプリンで、「……懐かしいな」とつい口にしてしまった。
「君、好きだったろう」
「……うん。ありがとう」
少年の日の思い出に目元を緩ませる長谷部を見て、光忠は嬉しそうに相好を崩した。今日はやけに機嫌がいい。
「ふふ。長谷部くん大好き」
「………………え」
思わず固まってしまった。
「好き。大好き。僕の長谷部くん」
光忠は長谷部の首筋にちゅ、ちゅ、と口づけている。じわじわと顔が熱くなってくる。
「お……まえ、」
「うん?」
「俺のこと、好きなのか」
身を離して問いかけると、光忠は不思議そうな顔で首を捻った。
「昔からずっと好きだけど?」
聞いてない。
てっきり肉欲とか所有欲とかそういう気持ちだと思っていたのに、純粋に好きだと言われて混乱する。随分酔っているようだから嘘だとも思えない。
「ねえ、長谷部くんは? 長谷部くんは僕のこと、好き?」
据わった目の光忠にぐいと顔を寄せられる。アルコールの匂いの奥に、嗅ぎ慣れた光忠の香りがして頭がくらくらする。
「…………俺、俺も、」
「うん」
「……………………俺も、好きだ」
気づいたら、そう言っていた。
えへへ、と光忠が笑う。
「僕も好きー」
その笑顔に小さな頃の光忠の面影が重なり、きゅうと胸が締めつけられた。
ずっと大切に思っていた。幸福を願っていた。そんな相手が、自分を好きだと言って、好きだと言われて、幸せそうに笑っている。
「好きだ」
確かめるようにもう一度言うと、キスをされた
その後は、夢のようだった。好きだと言い合いながら互いに服を脱がせ合い高め合い、共に果てた。好きな相手との、思いを通じ合わせた交合はこんなにも気持ちいいのだと、久々に思い出した。
光忠の腕の中で微睡みながら、長谷部は思った。もう、こんな関係は終わりにしよう。
一度全てにきっちりと片をつけて、精算が終わったら、改めて素面の光忠と向き合おう。
翌朝起きた光忠は昨夜のことを何も覚えておらず、それは長谷部にとっても都合が良かった。綺麗に咲いているリナリアの花を切って小さな花束にして、線香を買ってくる。
(……先生に、きちんとお別れを言おう)
今までの感謝と謝罪を墓前に供えて、それでケジメをつけよう。これからは光忠と生きていくと伝えたら、優しい先生はきっと笑って許してくれるだろうと思う。
そのつもりだったのに、光忠は長谷部が墓参りに行くと告げるとひどく怒り、長谷部を突き放した。こちらを傷つけて、そのくせ返す刃で自分の心を傷つけているような顔をしていた。
無事な服を拾い集めて袖を通し、急いで光忠の後を追う。
「光忠!」
走りには自信があった。交差点の横断歩道を渡る光忠の背中を見つけ、さらに足を早める。信号の色を見ている暇なんてなかった。
「っ、光忠!」
振り返る光忠の目が驚愕に見開かれる。
「長谷部くん!!」
――甲高いブレーキ音と共に、ドン、と長谷部の体に衝撃が走った。
◆ ◆ ◆ ◆
病院の待合室で光忠は項垂れて拳を握っていた。
外傷はそれほどではなかったが、頭を強く打っていて、出血もひどかった。このまま目覚めない可能性もある、と医師に告げられて目の前が真っ暗になった。
(僕のせいだ)
(僕が長谷部くんを欲しがったりしなければ、こんなことにはならなかった)
両手で顔を覆う。自分の我儘で、長谷部を振り回して、とうとう命さえ危険に晒してしまった。
(……お願いします。誰か、神様、おじいちゃん、)
どうか長谷部くんを連れて行かないでください。
◆ ◆ ◆ ◆
気づいたら、花畑にいた。向日葵に竜胆、チューリップにスノードロップ。咲く季節がばらばらの筈の花達が一斉に咲き誇る、非現実的な花畑の真ん中に長谷部は立っていた。
(あ、これは死んだかな)
まずいな、と思ってどうにか出口を見つけようとあたりを見渡すと、人影を見つけた。そちらの方へ慌てて駆け寄ると、人影が振り返る。
「国重くん」
聞き覚えのある声と呼び名に、雷に打たれたような衝撃が走る。
「……せんせい、」
「やあ、久しぶりだね」
鷹揚に微笑む姿は間違いなく先生そのひとで、長谷部は懐かしさに胸が締めつけられた。
反射的に前に一歩踏み出そうとして、どうにか踏みとどまる。
「国重くん?」
「先生、俺、駄目です。まだ死ねません」
だって、多分、長谷部が死んだら光忠は泣く。
「俺、光忠が好きなんです。貴方のことも愛しているけど、あいつのことも大事なんです。だから、まだ死ねません」
「……国重くん、」
「大好きです。愛してます、ずっと。ごめんなさい。俺を救ってくれてありがとうございます。……でも、俺は貴方とは行けない。あいつと生きていきたい」
溢れる涙を拭いもせずにそう告げる長谷部に、先生は眉を下げて微笑んだ。
「……うん。光忠を、よろしく頼むよ」
そうして、額にやわらかなものが触れる。
「幸せになりなさい」
◆ ◆ ◆ ◆
線香の煙が風に乗って流れて行く。花立に活けられたピンクのカーネーションを眺めながら、光忠は複雑そうな顔をした。
「ピンクのカーネーション、かぁ」
「文句があるのか?」
「ないけど、ある」
どっちだ、と長谷部が笑ってみせると、光忠は面白くなさそうに唇を尖らせた。
「『あなたを決して忘れません』だろう? わかってるけど、複雑」
「なんだ。おまえに赤い薔薇でも贈れば満足か?」
「999本持ってきてくれたらね」
馬鹿、と返すと、光忠はようやく笑みを見せた。
事故から一命をとりとめて、最初に見たのは光忠の泣き顔だった。長谷部くん、ごめん、ごめんね、と泣く光忠の頭を撫でて、「泣くな」と掠れた声で言うと光忠はますます泣いた。
そこからまあ、色々、本当に色々あって、リハビリ生活をしながらお互いの気持ちを話し合って、ようやく誤解が解けたのがつい一週間前のこと。ようやく晴れてふたりで墓参りに来ている。
「おじいちゃんには悪いけど、死んでも長谷部くんのことは渡さないから」
墓の前でそんなことを言いながら長谷部を抱きしめる腕を無言で抓る。
「故人の前だぞ。慎め」
「だから見せつけてるんだよ。死人に口なしって言うだろう」
口さがない光忠の態度に苦笑する。想いを通じ合わせても、未だに光忠は先生にライバル心を抱いているらしい。
「長谷部くんの恋人は僕だろう?」
口調だけは自信満々に、それでもちらりと不安を覗かせた顔でそんなことを言うものだから、長谷部はくすりと笑って、少し高いところにある光忠の後頭部を掴んで、ぐいと引き寄せた。
「おまえが好きだよ」
そう言って軽く触れるだけのキスをする。光忠ははーっと深い溜め息をついて、長谷部の肩にぐりぐりと頭を擦りつけた。
「……家に帰ったら絶対抱く。無理。僕の長谷部くんがかわいい。無理」
ぶつぶつとそんなことを言う光忠がおかしくて、長谷部は久々に声を上げて笑った。
長谷部国重はいらない子供だった。
だけど、長谷部を必要としてくれる人に、ふたりも出会った。どちらもいとしくて大切な、長谷部の宝物だ。
先生との思い出を胸に、光忠の手を取って生きていく。それが長谷部の選んだ生き方だった。
未だに、光忠の人生を狂わせてしまったのでは、と不安が胸に押し寄せる夜もあるけれど、それを口にする度に光忠にそれはもう情熱的なやり口で否定されるので、まあ、破れ鍋に綴じ蓋というやつなのだろう、多分。
「愛してるよ、長谷部くん」
いとおしげに細められる金の瞳をうっとりと見返しながら、長谷部は口を開いた。
「俺も、愛してるよ」
ふたりは今、幸せだ。
【了】
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