こころなしとて春を知る

こころなしてとて春を知る
     

【四】

 真珠のような蕾を枝いっぱいにつけた木々を見つめて、歌仙くんがほうとため息をついた。
「やはり梅だったか。いいねえ。身を切る寒さの中でも、梅の香が漂えばこの先の春の訪れを信じられる」
「おいおい、いきなり走りだすから敵襲かと思ったじゃねえか」
 和泉守くんがぜいぜいと息を切らしながら後ろからやって来た。
「君たちも見給えよ。実に見事な梅林じゃないか。もうすこししたら梅見と洒落込みたいところだ」
 そう言っていきいきと目を輝かせる歌仙くんに、僕は堀川くんと顔を見合わせて苦笑した。

 遠征先で資材の回収を終えて帰城する直前、梅の香がすると山の中へ走り出した歌仙くんをみんなで追いかけると、そこには梅林が広がっていた。
 重そうに雪を被りながらも開花のときを待っている梅の木々たちはたしかに歌仙くんの言うとおり見事で、和泉守くんも文句を言うのを諦めたらしく周りを見回した。
「梅かあ。いいよな。『梅の花 何輪咲いても――」
「その句は雅じゃない」
「ひでえこと言うなよ、之定。いい句じゃねえか。なあ国広?」
「僕からはノーコメントで」
 梅の枝を持ち帰りたいと主張する歌仙くんを全員でなんとか説得し、再び帰城の途につく。
「梅は忠義の花とも言われているんだよ。かの道真公が流刑に遭った際、京から太宰府まで主を慕った梅が飛んで追いかけてきたという言い伝えがあってね」
「はあ。主のために京からはるばるねえ。長谷部みたいなやつだな」
「はは、そうだね。実際、長谷部のいた所は太宰府ともそう遠くないし、何か縁があるのかもしれない」
「たしか松も同じことしようとして途中で力尽きちゃったんだよね」
「そうなのか? 根性ねえなあ」
「そこで根性論が出るあたりが兼さんだよね」
「うるせえ」
 四人でそんなことを話しながら歩いていると、歌仙くんがそういえば、と僕のほうに話を向けてきた。
「燭台切、君のいた所にも梅の名所があったんじゃないか?」
「偕楽園だね。あれは壮観だよ。見渡す限り紅や白、薄紅色の梅が咲き誇ってね、屋台なんかも出て、みんな笑顔で……あ、」
「どうした」
 和泉守くんと堀川くんは既に前で別な話題で盛り上がっている。僕はすこしだけ声をひそめて歌仙くんの問いに答えた。
「いや、手紙に書くことを思いついて」
「それは重畳。進捗はどうだい?」
「相変わらずだよ」
「そうか。僕にできることがあれば言ってくれ」
 ありがとう、と返しながら、僕はまだ雪のうっすらと残る地面を踏みしめて歩く。
 梅の蕾は綻び始めてはいるものの、いまだ風は身を切るような寒さを運んでくる。春が来るとはにわかには信じがたかった。

 帰城して主に結果を報告して解散すると、僕には馬当番の仕事が待っている。
 一度部屋に戻って着替えてから厩舎へと向かうと、厩舎の前に見覚えのある紫と白のジャージが見えた。僕はひとつ深呼吸をして冷たい空気を目一杯体の中に取り入れると、できるだけにこやかに声をかける。
「やあ」
 振り返った顔はやけに不機嫌そうだ。内番表の名前を見て覚悟はしていたが、今日の馬当番は長谷部くんとだった。
「今日はよろしく」
「ああ」
 ぎこちない挨拶もそこそこに作業の分担について相談し、僕たちは厩舎の扉を開け放った。むわっとした馬の匂いがあたりに広がり、寒気が入ったことを抗議するかのように馬たちが不満げにいなないた。
 馬房の掃除に、それぞれの馬のブラッシングや蹄の手入れ、餌や水の入れ替え。やるべきことは山程ある。すべて終わる頃にはこちらもすっかり汗だくだ。
「いつもありがとう。今日も君はかっこいいね。今度の戦ではよろしく頼むよ」
 最後の一頭にブラシをかけて話しかけてやっていると、脱がし終えた馬着を抱えた長谷部くんが僕をじっと見ていた。
「……どうしたの?」
「なんでもない。片付けてくる」
 馬着を納屋にしまいに行く長谷部くんの背中を僕は慌てて追いかけた。
「なんでついて来るんだ」
 僕にもよくわからない。なんとなく、と答えると、長谷部くんはきゅっと眉根を寄せた。
「……俺のことなど、どうでもいいだろう。放っておいてくれ。大したことじゃない」
 頭上からずず、と重く濡れたものが引きずられるような音が耳に届き、僕は反射的に長谷部くんの腕を掴み、引き寄せた。
「長谷部くん!」
「っなに……」
 長谷部くんは僕の腕の中でもがいたが、どさりと音がしたのを聞いて恐る恐るうしろを振り返る。僕の正面、長谷部くんの背後。先程まで長谷部くんがいた場所には、湿った雪と氷の塊が積み上がっていた。
 屋根からの落雪だ。当たっていれば軽傷は免れなかっただろう。
「…………礼を言う。おかげで助かった」
 長谷部くんが僕の胸を押した。僕はそれに逆らわず長谷部くんを掴んでいた腕を離す。作業のために袖を捲っていた腕は、手袋の上からでもわかるほど冷たく冷えていた。
「歌仙とはうまくやっているのか」
 不意に長谷部くんがそんなことを言ってきた。
「彼とはそんなんじゃないよ」
 僕が否定すると、長谷部くんは眉根を寄せて唇を歪ませようとして、失敗していた。涙をこぼす寸前のような顔だった。
「………………そうだったな。おまえはきっと誰かに恋をするなんてことはないんだろう」
 失礼する、と言って長谷部くんが僕の脇を通り抜ける。いつかのように長谷部くんの腕を掴もうとして、けれど一瞬怯んでしまう。
 怯んでしまった理由は単純で、僕は自分がいまだに恋をしていないと認識していたからだった。長谷部くんのあの言葉に対する否定材料を、僕は持っていなかった。彼のあの冷えきった手をあたためてあげるには、僕達の間には深すぎる溝が横たわっていた。
 僕が迷っている間にも長谷部くんはどんどん玄関へと足を進めている。
「長谷部くん」
 気づけば、僕は彼の名前を呼んでいた。
「手、いいの」
 長谷部くんが振り返り、瞳が雲越しに降り注ぐ陽光を反射してきらりと光った。長谷部くんはやがてゆっくりと目を伏せる。煤色の睫毛が頬に影を落とす。
「結構だ」
 そう言って、長谷部くんは唇を無理矢理釣り上げる。
「俺の手はひゃっこいからな」
 まだ雪が降りしきる前に話したことを、彼はしっかり覚えてくれていたらしい。それが嬉しいのか悲しいのかよくわからなかった。
 あの頃繋げていた手が今はなんだか遠くて、それを思うと僕の胸の奥がなんだか隙間風が入ったかのようにすうすうと冷えてどうしようもない。
 僕は遠ざかる長谷部くんの背中を追いかけることもできず、ただ見つめていた。
 やはり僕は恋文を書かなければならない。でも、きっとそのまえに。
 僕は彼に恋をしたいと、そう思った。

◆ ◆ ◆ ◆

 僕は長谷部くんのことをおおむね好ましいと思っているが、あまり好きではないところもある。そのひとつが彼の手の温度だった。
「燭台切、頼む」
 誰もいない納屋の裏、周りにひとがいない時だけ、長谷部くんはすこしだけ申し訳なさそうに、けれどどこかわくわくした様子で僕に手袋を外した手を差し出す。
 冬場の長谷部くんの手は冷たい。本当に血が通っているのか疑わしくなるほどだ。
 単に寒いからなのか、それとも付き合い始めたからなのか、指先が芯まで冷えて痛みを感じるようになるたびに長谷部くんは僕と手を繋ごうとするようになった。以前長谷部くんの看病で一晩触れていたせいで、僕の手があたたかいことはとっくに知られてしまっていた。僕は思わず深いため息をつく。
「また? 仕方ないなあ」
 手袋を外して長谷部くんの手を握る。繋いだことをちょっと後悔するほど冷たい指先に思わず手を引きかけたが、ぐっとこらえた。こういうのを冷え性というのだと薬研くんから聞いたことがある。長谷部くんはどうもひどい冷え性のようだった。
 屋外でこんなことをしたって、焼け石に水、いや万年雪にお湯のようなものだろう。早く屋敷の中に入って、炬燵でもストーブでもいいからあたたまればいいのに、と僕は思うが、何故か長谷部くんはこのあたたまり方を好んだ。
 二人揃って休憩用の長椅子に腰掛け、どんよりと曇った空を見る。鼻の奥がつんと冷たくなる寒さだった。もうすぐ雪が降るのだろう。長椅子は屋根の下にあったから、もうすこし寒くなったら危なくてここには来られないだろうな、と思った。屋根からの落雪に巻き込まれて亡くなる人を僕は奥州にいた頃何度か見たことがある。
 それにしても寒い。長谷部くんの手に温度を吸い取られているからだろうか。
 長谷部くんひゃっこい、と僕がぼやくと、長谷部くんが不思議そうな顔をした。
「百恋? なんだそれは」
「ひゃっこいって言わない? じゃあ方言かな……冷たいってことなんだけど」
「俺は初めて聞いた」
 ひゃっこい、ひゃっこい、と教わった言葉を幼子のように何度か繰り返し、長谷部くんはふは、と笑った。
「なんだかかわいいな」
「そう? それより、君はもうすこしその冷え性どうにかしたらどうだい」
「自分じゃどうにもならん。……それに、おまえがいるから、いい」
 実は僕は恋人ではなくカイロとして彼に求められているんじゃないだろうか。僕の手でぬくぬくと暖を取っている長谷部くんを横目でちらりと見ると、ばちりと視線が合った。なぜか長谷部くんはわたわたとして、そのあと照れくさそうに微笑んだ。硬く結ばれた蕾が綻ぶような笑みだった。
 だんだんと温んでいく手のひらと、長谷部くんの笑顔。
 長谷部くんと付き合って良かったと思うのは、こういう時だった。
 悪くないな、と思った。冷たいのは勘弁だけど、こういうのは悪くない。胸のあたりがなんだかぽかぽかする。
 初雪のちらつき始める、年の終わりのことだった。

◆ ◆ ◆ ◆

『遠征先で見事な梅林を見たんだ。開花する頃になったら長谷部くんと見に行ってみたい。君の知る梅ほど見事ではないかもしれないけど、そうしたら、君はまた笑ってくれるだろうか』

『君の手の冷たいことは正直苦手だけど、僕は君の手が僕の手の中で段々あたたかくなっていくのは嫌いじゃない』

『僕は君に、』

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