【五】
借りていた文を返却するため、僕はまたあのよその本丸を訪れていた。
あれほど爛漫に咲き誇っていた椿の花は今は跡形もなく、今は黄色い蝋梅の花がひっそりと庭に彩りを添えていた。地面に落ちたはずの花はきっと掃除されてしまったのだろう。応接室のある離れへと通じる玉砂利の道は、雪解けの水で濡れててらてらと光っていた。
「よく来たな。今日は光忠が買い物に出ていてしばらく戻らん。俺が相手で悪いが我慢してくれ」
以前の燭台切と似たようなことを言って向こうのへし切長谷部が僕を出迎えてくれた。
手紙を返却して応接室であたたかいコーヒーを出されながら、僕は既に何度目かわからない質問をされる。
「恋文とやらはどんな調子だ」
「駄目だね。……というか、僕は先に恋をしなければならないのじゃないかと思って」
「今更か。貴様随分と鈍いタチのようだな」
燭台切光忠のくせに、と笑われて肩をすくめる。こう誰も彼もに鈍いと言われるとさすがに自信が無くなってくる。元が刀であるからして、鈍いよりは鋭いと言われたほうが嬉しいのだが。
「参考までに君--ええと、」
「呼びにくいならへし切でもへっくんでも好きに呼べ」
「……へし切くんが燭台切くんを好きになったきっかけを聞いても?」
へし切くんは手元のコーヒーにミルクと砂糖を二杯ずつ入れてぐるぐるとかき回し、ふふ、とおかしげに口の端を上げた。
「俺はな、あれが戦場で敵の大将首を跳ね飛ばす姿を見て惚れた。最初は全然好きでもなんでもなかったのに」
「好きじゃなかったのかい?」
「ああ。むしろ鬱陶しいやつだとすら思っていた。だが今じゃこの有様だ。刃生どう転ぶかわからんな」
そう言ってへし切くんは幸せそうに微笑んだ。それが昔視線が合って微笑んでくれたときの長谷部くんの笑顔と重なり、胸のあたりがなんだか苦しくなる。僕はもう随分長いこと、あの笑顔を見ていなかった。
手の中のカップに視線を落とす。まるで夜の海のように黒々とした水面は、僕の腕のわずかな動きで表面にさざなみを立てた。口をつけると後悔のように苦い。
「…………長谷部くんがいっそ僕以外の相手を選んでいたら良かったのに」
ぽつり、とそんな言葉を漏らすと、藤色の瞳がぱちぱちと瞬いた。
「僕のせいで長谷部くんはこのところずっと暗い顔をしているから」
「……他のやつの隣で笑っている長谷部を見て、貴様それで満足するのか」
「彼があんな顔しているより、そのほうがずっといい」
はあーっと大きなため息をついて、へし切くんがテーブルに頬杖をついた。
「おまえ、手のかかるやつだなあ」
「……すまないね」
「そこは謝るところじゃない」
他にも互いの近況を報告しているうちに予定の滞在時間が過ぎてしまい、僕はへし切くんに送られながら帰路へと着く。うちの本丸へのゲート前まで来て、へし切くんはちらりと視線を動かしにんまりと笑った。
と思ったらいきなり頬にへし切くんの手のひらが触れる。いつかの長谷部くんほどではないが、こちらもやはりひやりと冷たい。
「どう思う?」
「どうって……」
へし切くんが吐息の触れる距離まで顔を近づけてくる。
「……ちょっと近すぎないかい?」
「これがおまえの長谷部くんだったらどうだ?」
言われて想像する。これがもし長谷部くんだったら、僕は――
とん、と肩を押された。
たいして強い力ではなかったけれど、よろりと一歩下がるとそこはゲートの境界線だった。ぶうん、と低い唸りを立ててゲートが起動する。周囲の景色が陽炎のように揺らめいて、段々と白く染まっていく。
「そのあたりを、もうすこしよく考えてみろ」
気づけば僕は自分の本丸の門の前に立っていた。後ろを振り返るとゲートの中にはまだ向こうの本丸の様子が映っている。へし切くんがひらひらとこちらに手を振ってきたので僕も振り返すと、満足したようにくるりと踵を返してあちらの本丸のほうに戻っていった。
あれが長谷部くんなら、僕は――
「燭台切」
夕餉までの時間、自室で恋文の続きでも書こうかと濡れた雪の上をぱしゃぱしゃと歩いて玄関に向かっていると、後ろから声をかけられた。
「長谷部くん?」
「最近、よその本丸のやつらと懇意にしているようだな」
「……いろいろと用事があってね」
理由の一端を目の前にして正直に応えられるほど僕の面の皮は厚くはない。
僕の言い訳にふうん、と長谷部くんはじっとりとした眼差しを向けてくる。
「おまえは、あのへし切長谷部と付き合うのか? あいつが好きなのか?」
「違うよ。いや、好きは好きだけど恋愛感情ではないよ。大体、彼には相手がいるし」
なんで僕はこんなに必死になって弁解してるんだろう、と答えながら思う。長谷部くんは僕の返答には納得しかねるようで、苛立たしげに吐き捨てる。
「付き合ってないのに口吸いはできると」
「口吸い?」
「してただろう、さっき」
「してないよ」
「……本当か」
「ああ」
そう言うと、長谷部くんはきゅっと自分の胸元を握りしめ、俯いた。
「…………俺は、まだおまえが好きだ」
僕が驚きのあまり固まっていると、長谷部くんはさらに言葉を重ねていく。
「あんなことがあったのに未練たらしいと思われるかもしれない。それでも、たとえおまえに好かれていなくても、俺は、やはりおまえが好きだ」
顔を上げた長谷部くんの藤色の瞳が不安げにゆらゆらと揺れる。
「もしおまえがあの長谷部に興味があるなら、俺では駄目だろうか。それとも……もう俺では無理か?」
なにか長谷部くんに言わなきゃと思って、僕の脳裏にあるものが浮かぶ。
今しかないと、そう思った。
「ねえ、君に渡したいものがあるんだ。すこし待っていてくれないか」
そう言って、僕は部屋に向かって駆け出した。
◆ ◆ ◆ ◆
「燭台切、俺を抱いてくれないか」
長谷部くんがそう言って僕を訪ねてきたのは、体の芯から冷えるような冬の晩のことだった。
「おまえも、その、男の身ならば溜まることもあるだろう。俺の体で発散して構わないから」
いくら部屋の中は暖房が効いているとはいえ、薄い浴衣一枚、羽織りも着ずに。
僕が長谷部くんの手に触れると、びくりと震えられた。僕も彼も湯浴みの後だから触れるのは素肌だ。白く滑らかな肌は予想通り、氷のように冷たかった。
「君はもうすこし自分の身を大事にするべきなんじゃないのか」
あれほどあたたかくするよう言ったのに、こんなことで自分の身を損なうなんて。
僕はなぜだか無性にイライラして、その冷えきった手を握りたくなるのをこらえ、そっと長谷部くんを押し返した。
「想われてもいない相手に、そう簡単に身体を差し出すべきじゃない」
「だが、嫌いではないから交際を了承したのだろう?」
長谷部くんが震える指で僕の服の裾を掴んで食い下がる。
「欠片ほどでも俺に情があるのなら、頼む。俺に情けをかけてくれ」
「………………僕は、」
僕の脳裏に今までの長谷部くんの姿が浮かぶ。
長谷部くんはいつだって強くて、かっこよくて、しゃんと背筋を伸ばしてまっすぐに前を見て、笑った顔がかわいくて、僕はそんな彼を好ましいと思っていた。それなのに今はどうだ。小動物のように背筋を丸めて、小さく震えている。僕の施しを求めて、惨めたらしく。
僕は長谷部くんにかっこよくいて欲しかった。僕が好ましいと思う長谷部くんの姿が見たかった。だから言った。
「僕は君のそんな無様な姿を見たくない」
藤色の瞳が大きく見開かれ、きらりと光を弾いて揺らいだ。膝の上で手が白くなるほど拳を握りしめて長谷部くんが口を開く。
「っ……俺を、」
長谷部くんが僕の胸元を掴む。バランスを崩して後ろに倒れると、そのまま馬乗りにされる。
「おまえを慕う俺を、おまえは無様だと言うのか!」
ぱたり、と僕の頬に水滴が落ちる。ぱたぱたと続けざまに落ちてくる雨は、長谷部くんの涙だった。
長谷部くんが泣いている。僕はその事実に雷に打たれたような衝撃を受けた。何故。どうして。なんで長谷部くんは泣いているのだろう。
「俺はっ……!」
ぱく、ぱく、と長谷部くんの口が酸欠の金魚のように開いては閉じられる。それを何度か繰り返したあと、長谷部くんは僕の上から降りた。ふらふらと立ち上がって障子に手をかける。
「…………全部、俺の勘違いだったんだな」
それだけ言って長谷部くんは部屋を出ていった。
なにが悪かったのかはさっぱりわからない。けれど、僕の言動が長谷部くんを決定的に傷つけてしまったのだけは理解できた。
どうしよう。どうすればいい。気ばかり焦って打開策が見つからない。そっとしてやるべきなのか、今すぐ追いかけて弁明すべきなのか。
-弁明? 何を弁明するのだというのだろう。僕は彼が何に傷ついたのかすらわかっていないというのに。
僕はそのとき自分が感情に疎いことを心の底から悔やんだ。生まれて初めて人の心を知りたいと本気で願った。
その日から長谷部くんは僕の前で笑わなくなった。
長谷部くんが笑顔を見せなくなってから、数日後。
僕は浦島くんから頼まれて亀吉探しを手伝っていた。風通しのため戸を開いていた空き部屋の押入れで僕は亀吉くんを発見し、彼を連れて浦島くんのところに戻るべく腰をあげたところで、隣室から聞き覚えのある声が響いてきた。
「乱! 加州! おまえらそろそろ出陣だろうが!」
「長谷部、待ってよ! あと5分! 今話がいいところなの!」
「いいところ?」
「主人公がね、遠い所に旅立つ好きな人から別れ際にメール……んーと、恋文をもらって相手の気持ちを知ったところなんだよ」
「…………恋文」
「なになに? 長谷部さんも恋文もらってみたい?」
「うるさい。とっとと行け!」
はーいと、いかにも渋々といった様子で乱くんと加州くんの足音が遠ざかっていく。
「…………俺だって、もらえるものならもらってみたいさ」
ぽつり、と。そんな呟きを残して、長谷部くんは部屋を立ち去っていく。僕は縫い止められたようにその場を動けなかった。
やがてもぞもぞと手足を動かす亀吉くんの感触に僕は当初の目的を思い出し、再び腰を上げる。
答えの出ない薄闇の中、一筋の光明が見えたような気がした。
恋文を送ったら、長谷部くんはまた前のように笑ってくれるだろうか。
以前のようにやわらかくあたたかな笑みを僕に向けてくれるだろうか。
僕は恋なんてわからない。長谷部くんが僕に抱いている感情を、僕は知らない。それでも彼にもう一度笑いかけて欲しい。そのためならなんだってできる気がした。
だから、僕は恋文を書かなければならない。
◆ ◆ ◆ ◆
「長谷部くん!!」
僕は息を切らしながら長谷部くんに持ってきた文箱を差し出した。
中に入っているのは手紙未満の書き損じだ。恋文になりきれず、けれど捨てることもできなかった言葉の断片たち。僕は結局、恋文を完成させることができなかった。
『君のいつだって真っ直ぐな眼差しはとても綺麗だと思う』
『長谷部くんはどんなことを書いたら喜ぶんだろう。毎日そんなことばかり考えている』
『長谷部くんの笑顔が見られなくて、すこし胸が薄ら寒くなるような心地がする。これが寂しいってことなんだろうか』
『長谷部くんが』『長谷部くんの』『長谷部くんと』
「僕、君に恋文を渡したかったんだ。君が喜んでくれるかと思って。でも何を書いていいかわからなかった。そんなものしか書けなくて、毎日必死だった」
長谷部くんは無言で文箱のなかから紙切れを取り出し、一枚一枚丁寧に広げて目を通していく。
「僕は君に笑っていてほしいんだ」
なにを言うのが正解なのかちっともわからない。それでも僕は一生懸命言葉を紡ぐ。これを逃したら、二度と長谷部くんは僕に笑ってくれなくなる気がした。
「君は笑った顔がいっとう素敵だと思う。つらそうな顔や泣きそうな顔は似合わない。君を散々傷つけておいて勝手かもしれないけど、恋文を書いて渡せば君がもう一度笑ってくれるんじゃないかと、そう思って、」
長谷部くんの瞳から涙がこぼれた。一筋、二筋。頬を伝って顎へと滑り落ちたそれが、長谷部くんの服を濡らす。
ああ、僕はまたなにか間違ってしまったのだろうか。
「ありがとう、燭台切」
長谷部くんがはらはらと涙を流しながら言うので、僕は息が止まりそうなくらい驚いた。
「俺が初めて体調を崩した日のことを覚えているか? 俺は、あの夜のおまえの手のあたたかさに惚れたんだ」
「……体温が高いひとが好みということ?」
「体温が高くて不器用で優しくて、このうえなく鈍感なおまえが好きなんだ」
そう言って長谷部くんが目もとを拭う。
「ありがとう。こんなに嬉しい恋文をもらったのは初めてだ」
「そんなの全然恋文じゃないよ。だって、僕はまだ君に恋してない」
僕は長谷部くんの冷たい手を掴んで、そっと胸元に引き寄せた。
「ねえ、長谷部くん。どうかもうすこしだけ待っていてくれないか。きっと君に恋をして、もっと素敵な恋文を書いてみせるから」
藤色の瞳が大きく見開かれ、やがて見る見るうちに再び潤み、決壊した。
「……ああ、」
ふたたび目元を拭いながら、長谷部くんが言う。袖口を濡らして顔を上げる。
「待てと言うのなら、いつまでも」
そこに浮かんでいたのは、今まで見た中で一番綺麗な笑顔だった。
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