夜半、男の夢を見る。

短編
     

12148文字(全6ページ合計)

 たった一振りが欠けただけで、これほどまでに本丸の空気というのは変わるものなのだろうか。明るく笑い声に溢れていた本丸が、今はしんと静まり返り、時折すすり泣きや折れた刀を偲ぶ声が聞こえてくる。

 長谷部が廊下を歩いていると、ぴりっと肌を刺すような敵意の籠もった視線を向けられて思わずそちらを向く。視線の主はあの日長谷部に掴みかかってきた青年だった。両手に野菜がこんもりと入った籠を持っている。
「……何の用だ」
「別に。厨に向かう途中なだけだけど」
 そういえば青年が畑当番だったことに思い当たり、長谷部は廊下の端によって道を開けた。

「厨に行くならさっさと行け。こんなところで油を売ってる場合か」
「……そうだね。燭台切がいなくなって厨当番もてんてこ舞いだって聞いてるし」
「こら!」

 舌打ちをする青年の後ろからするりと白い腕が伸び、青年の首をがっと掴んでずるずると引きずっていく。
「ほらほら、とっとと厨に行くよ」
「おいこら! 離せって!」
 文句を言う青年を引きずるのは、青年と仲のいい男士だった。長谷部に軽く頭を下げ、人一人引きずったままその脇を通り過ぎていく。
 通り過ぎる瞬間、青年の友人は顔を伏せてぼそりと告げた。

「長谷部さん、ごめんね」
「……何のことだ」
「わかんないならいいけどさ。それでも、やっぱり、ごめん」

 そう言い残すと、二人は廊下の奥に姿を消した。
 長谷部はしばらくそちらの方向を見つめていたが、ひとつ息をつくと踵を返しその場を後にした。

◆ ◆ ◆ ◆

 ――これは、夢だ。

 噎せ返るような甘い香りに包まれながら、藤の花が咲き乱れる藤棚の下を二人で歩く。
「見て、この樹は樹齢百五十年だってさ」
「なんだ、まだまだひよっこだな」
 手厳しいな、と笑いながら、男が流れるような動作で手指を絡めてくる。
「おい、」
「誰も見てないよ」
 言われて周りを見渡せば、花見客は皆頭上の藤に夢中でこちらの事など少しも気に留めていないようだった。
「しかしだな、」
「ねえ、長谷部くん、知ってる?」
 男の視線の先には、藤の花々の間を忙しなく飛び回り蜜を集めている熊蜂の姿があった。

「藤の花の構造って特殊で、熊蜂以外には蜜を吸えないような仕組みになっているんだって」
「……それが?」

 居心地悪そうにきょろきょろと視線を泳がせる長谷部に、男はにっこりと微笑む。

「藤の花の甘い蜜の入った部分は熊蜂の力でないとこじ開ける事ができないそうだよ。それに、熊蜂が蜜を吸う時は、隠れていた花弁が開いて花粉を熊蜂につけるような仕組みになっているとか。彼らは互いにとってなくてはならない存在なんだね」

 男が何を言いたいのかわからず、ぱちぱちと瞳を瞬かせていると、男は少しだけ言いよどんでから口を開く。

「ああ、ええと、その。……願わくば、僕は君にとっての熊蜂でありたいな」

 そこまで言われてから男が言わんとしている事がじわじわと理解できてきて、顔に血が集まってくる。
「長谷部くん、好きだよ」
 動揺して思わず振りほどこうとした手は、反対にがしりと痛いほどの力で掴まれた。
「みつ」

「なのにどうして僕を置いて行ったの?」

「っ…………!」
 飛び起きると、見慣れた自室の布団の上だった。は、は、と浅い息を繰り返しながらどうにか息を整え、枕元の水差しからいつものように水を飲む。
 窓の外はまだ暗く、朝の訪れは遥か遠くに思われた。

 あの男が折れた日から、男の夢を見ない夜はなかった。時に戦場で、時に本丸で、時に何もない真っ白な空間で。男は常に現れて長谷部を苛んだ。
 じっと恨めしげにこちらを見つめる時もあった。ひたすらに折れた際の傷の痛みを切々と訴える時もあった。名前を呼ぶだけの日も、今日のように思い出に混じって恨み言を言う日もあった。

 もし仮に付喪神の幽霊なんてものがあったとしても、あの男がそんな事を言う訳がないのは百も承知だった。あの日、あの時、あの視線を交わした瞬間に互いの決死の覚悟は間違いなく伝わっていた。あの男は望んで折れたのだ。ただひとり主の為に。
 だからこれは長谷部の安っぽい罪悪感の見せる幻に他ならなかった。心も体も交わした無二の相手を主君の為に見殺しにしたという、誰も裁けない罪を裁いて欲しい。そんな身勝手な願望の見せる亡霊だ。あの男本人である筈がない。自ら望んで折れたあの男に対する最大限の侮辱を、自分はしている。わかっている。わかっているのだ。全部。

 ふらふらと立ち上がり窓に近寄る。月明かりの反射する庭は死んだようにひっそりとしていた。
「………………ただ」
 小さく男の名前を口にする。水を飲んだばかりの筈なのに口の中は既にからからで、舌が貼り付いてうまく音にならない。
 答える声はどこにもなかった。

 夜半、男の夢を見る。

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