夜半、男の夢を見る。

短編
     

12148文字(全6ページ合計)

 まともな食事が喉を通らなくなって三日が経った。

 厨当番達から差し入れられた粥は、匂いを感じると同時に胃が痙攣を起こして受け付けなかったのでいつものようにこっそり処分した。処方された薬湯を空きっ腹に流し込み、ゼリー状の携帯食料をストローで吸い上げて飲み込む。人工の甘味料の味がいつまでも口の中に残って吐き気がする。

 長谷部の体を心配した審神者からは、出陣、内番、遠征、書類仕事の一切に至るまでを取り上げられた。「今は少しでも心と身体を休めてください」との心遣いが今の長谷部には痛かった。

 いまや本丸の皆が長谷部を腫れ物に触るように扱う。廊下で会えばどう声をかけていいのか迷うような視線を向け、「何かあったら何でも言ってほしい」と控えめな声をかけて去っていく。
 何かを言ったところで何が変わると言うのだろう。良心の呵責からとうとう頭がおかしくなって折れた刀のまぼろしに苦しめられてるのだと、吐き出したところでどうなると言うのだ。どうせ何も変わらないし変えられない。これは自分だけの問題なのだ。

 あの時審神者の手を取って駆け出した事、敵の只中に恋人を置き去りにした事。たとえ何度あの選択を迫られようと長谷部は同じ結末を選ぶだろう。刀剣男士とは、へし切長谷部とはそういうものだ。

 けれどどうしたって飲み込めない。あれは望んで折れたのだと、もし反対の立場でもきっと互いに同じ選択をしただろうと、わかっているのに、心の奥で長谷部を詰る声がするのだ。「おまえは恋人を見殺しにしたのだ」と。
 鍛錬不足だ。わかっている。心が弱い。その通りだ。自分は自分が思っているほどちっとも強くなんてなかった。

「長谷部くん」

 耳元で男の声がする。たかがまぼろしのくせに、どうしてこんなに俺を苦しめるんだ。これが罰だとでも言うのだろうか。
 この声の持ち主がいっそ本当に悪霊で、自分を道連れにする為にこうして現れていたのならどんなに良かっただろう。だけどそんな男じゃない事を長谷部は誰よりも知っていた。

 自分が情けなかった。良心の呵責にいつまで経っても苛まれ続ける弱い己、最愛の恋人の決死の覚悟を汚すような己。押し当てただけで切れると、その切れ味を誇った自分が、まるでなまくら以下の鉄屑だ。耐えられない。これならもう折れてしまった方がマシじゃないか。

 そう思って長谷部ははたと気づいた。

 そうだ、折れてしまえばいい。優しい主はきっと刀解の許可など出してくださらないだろう。ならば刀らしく、戦場で果ててしまえば。こんな自分でも少しは刀らしさを取り戻す事ができるだろうか。

 幸い審神者は今は現世の用事の為に外出中だ。長谷部は急いで書き置きを残した。自分の現状と、この状況にもはや耐えられそうにないという事。せめて刀の誇りを取り戻す為、戦場で戦って折れたいと。勝手な事をする自分をどうか許さないで欲しいという事を淡々と書いた。やるべき行動が決まってしまえば不思議と気分は明るくなった。こんなに晴れやかな気分になったのはいつぶりだろう。

 それから誰にも見つからないよう鍛刀部屋に寄って目当てのものを回収すると、こっそり審神者の部屋に忍び込み、端末を起動して出陣状況を確認する。第一部隊以外はみな遠征に出ているようだった。
 部隊長は折れない。ならば、と長谷部が取り出したのは顕現前の短刀だった。その短刀を部隊長として登録し、長谷部は戦場へと向かうゲートに向かった。ゲート起動のためのパスワードは近侍を長く務めていた為に知っていた。

 戦装束を纏って本体を握るのはあの日以来だった。あの日を境に全員に配られたお守りは自室に置いて来た。あとはそう、戦って折れるだけだ。
 足の速い槍の一撃が脇腹を掠める。灼熱の痛みに笑みさえ浮かべながら、長谷部は刃を振るった。
 「戦に倒れるのは刀の倣い」と、いつかあの男は言っていた。ならば、自分だって。
 苦無の攻撃が長谷部の頬に朱色の線を描く。振りかぶった己を不気味に発光する苦無の頭に叩き込む。

「圧し斬る!!!」

 裂帛の気合と共に薙刀の懐へ飛び込み左切り上げに切り込んだ。薙刀が黒い断面を見せた後に炭のように崩れて消えるのを最後まで見ることなく、長谷部はそのままこちらへ振りかぶろうと構えていた背後の大太刀の胴を左薙ぎにした。
「どうした遡行軍! 俺の首はここだぞ! しっかり狙え!」
 中脇差の蜘蛛に似た足を切り落とし、頭部から真っ二つに切り下ろす。足元の死角から攻撃を仕掛けてきた短刀に蹴りを叩き込む。打刀の一撃を左手の鞘で受け止め、右手で太刀の首を落とす。
 まだだ。こんなものではまだ足りない。あの男が戦って散った時の敵の質や量は、こんなものではなかった。
「貴様らの本気はそんなものか!!」
 長谷部が吠えるとほぼ同時に、遡行軍達の背後の空間がぐにゃりと歪んだ。増援が送られてきたのだろう。思わず口の端が上がる。

 ああ、これで、やっと――――、
 長谷部は穢刀の血で汚れた白手袋を口で銜えて付け直し、刀を握り直した。

 それからどれくらい戦っただろう。幾振りもの短刀を砕き脇差を壊し打刀を折った。太刀を討ち大太刀を割り槍と薙刀を断った。
「はあっ……は、はっ……」
 肩で息をする長谷部の手から刀がすり抜けて地面へと落ちた。血と脂に塗れぼろぼろになった皆焼刃が小石に当たってガランと音を立てる。
 それでも一歩を踏み出そうとした足から感覚が消え、ぐにゃりとその場へと崩れ落ちる。どしゃ、と濡れた砂袋を落としたような音がした。
 敵はまだ残っている。けれど、もう指一本だって動かせる気がしなかった。刀だって目の前に転がったままだ。

(…………これまでだな)

 長谷部は苦笑して目を閉じた。これまでだ。自分の刃生も、あの男への罪悪感も恋情も、何もかも。
 最後に自分を討つ敵の姿くらい見て置こうかと瞼を上げて視線を上に向けると、黒い影が立っていた。逆光で顔は見えない。

「長谷部くん」

 ああ、こんな時でも自分は自分を責める事を忘れないのか、と思う。馬鹿みたいだ。
 それでも、たとえまぼろしでも最後に見るのが好いた男の姿なのが嬉しくて、視界が歪む。

「……みつただ、」

 あの日以来、初めて男の名前を呼ぶ。光忠、光忠。頑張った。自分はずっと頑張ってきた。だけどもう頑張れそうにない。だから、なあ、もうそちらへ逝っても許されるだろう?
 そんな思いを込めて男の姿をじっと見つめるが、男はゆっくりと首を横に振り、長谷部の傍らに転がる刀を指さした。

「刀を取れ」

 無理だ、と反射的に思う。もう無理だ。体力も疲労も限界で、血だって大量に流れた。今だって遠のきそうになる意識をなんとか気力だけで支えているのだ。
 けれど、男の声は長谷部の思いを真っ向から否定する。

「そんな終わりを僕は認めない」

 力強い言葉が耳朶を打って、長谷部の指がぴくりと動く。
 何故だ。どうして、そんな事を言うんだ。

「そんなものの為に僕は折れたんじゃない」

 あれが、あの男が何の為に折れたか? 自問すると即座に答えは返ってきた。決まっている。主と、本丸の仲間達と、そして長谷部が生きる明日の為だ。
 「僕が折れた後の事を、頼む」――。一瞬だけ交錯した視線の中で、確かにそう言っていた事を思い出す。
 あの日あの時託された事を、今になってようやく思い知る。そうだ、自分は――――。

「僕が愛した君が、そんななまくらなんかであるものか!」

 そうだ。あいつは、あの男は、戦場で駆ける自分の事を好ましいと、そう言っていた。どんな劣勢でも最後まで諦めずに敵に食らいつくさまに惚れ惚れすると。
 指を伸ばす。視界の端に映る敵の刃はすぐそこに迫っている。あとほんの少し、あと、少し――――!

「立て、へし切長谷部!」

 気づけば、己の本体を手に、敵を一閃していた。
 皆焼刃が敵の首を刎ねると同時に五感が徐々に戻ってくる。血と土埃の匂い、ずきずきと痛む傷。戦場を吹く風の音と共に、遠くから馬のいななく声が聞こえて思わず気が抜ける。援軍が来たのだ。

「長谷部さん!!」
「長谷部!!」

 傷だらけの長谷部の隣に馬を停め、馬上からひらりと青年が降りてくる。
「無事!? 敵は!?」
「……今ので最後だ」
 無事で良かった、と青年は呟くと、ぼろりと大きな涙をその紅い瞳から流した。そのままぼろぼろと泣き出す青年を前に、長谷部はどうしたらいいかわからずにおろおろと行き場のない手を上げ下げした。
「……おまえは、俺など折れた方がいいと思っているのかと」
「っ……ああもう! 馬鹿! 馬鹿馬鹿! 長谷部の大馬鹿野郎!! 怪我人じゃなかったら一発と言わず何発かぶん殴ってたのに!」
 長谷部の言葉に青年が頭をかきむしって地面をだんだんと踏みしめた。
「んな訳ないじゃん!! 俺はもう、仲間を失うのは御免だよ……!」
「……仲、間」
「そうですよ、長谷部さん」
 あの日折れた破片を差し出してきた、虎を連れた短刀が長谷部の手をそっと握った。
「僕達は、仲間です」
 少年の言葉を肯定するように、虎が長谷部の周りをぐるりと囲むように動き、ごろごろと喉を鳴らしながら頭や尾を擦りつけてきた。
「だ、だから、長谷部さんだけ辛い思いをするのは、なしです。お願いですから、一緒に悲しませてください……!」

 息を呑む。
 辛い、と言ってもいいのだろうか。弱音を吐いても呆れられないだろうか。この胸に巣食うどろどろとした遣る方無い気持ちを、形にしても許されるだろうか。
「……五虎退、加州」
 震える声で少年と青年の名を呼ぶ。二人は涙まじりの笑みを浮かべて長谷部に手を差し伸べている。

「…………燭台切を、俺は捨て駒にした」

 自分がここに残ると視線だけで伝えてきた、あの日最後に見た眼差しを思い出す。強くて優しくて温かい、長谷部の愛した金の瞳に宿った決意と覚悟を、長谷部はきっともう一生忘れることはないだろう。

「今生で唯一無二の相手だと誓ったあいつを、俺はっ……」

 乾いた地面に水滴がぼたりと落ちる。始めは一滴、二滴、それから何滴も立て続けに雫が落ちる。
 それ以上言葉にできず、歯を食いしばって俯く長谷部の肩を二人がそっと抱き、それから三人で抱きしめ合ってわんわん泣いた。
 そうしてひとしきり泣き終わった頃、紅い眼をさらに充血させた青年がぐいと袖口で涙を拭う。
「……そろそろ戻ろっか。主も心配してるし、早く長谷部を手入れ部屋に突っ込まなきゃ」
「あ……! 長谷部さん、加州さん、あれ……!」
 少年が指差す方に視線を向けると、先程敵が立っていた辺りに真新しい太刀が落ちているのに気づく。

 燭台切光忠だった。

◆ ◆ ◆ ◆

 長谷部達が本丸に戻ると、既に報を受けていた男士達が一斉に長谷部を囲み、もみくちゃにした。
 無事で良かった、心配したと、口々にそう言われ、締めた筈の涙腺が再びじわりと緩み出したので、涙を止めるのに苦労した。
「長谷部さん!」
 高い声が発されると共に人垣が分かれ、審神者がこちらに駆け寄ってくる。
「無事で良かった……! 貴方まで折れてしまうんじゃないかと思って、私、私……!」
 そう言ってぽろぽろと泣き出す審神者を、後ろから現れた短刀がぽんぽんと背中を叩いて宥めた。

「ほら、大将。早く手入れ部屋の準備しようぜ」
「……ええ、そうですね。すぐに支度を、」
「主、」

 長谷部は力を振り絞って審神者に深く深く頭を下げた。
「勝手な事をして、大変申し訳ありませんでした」
「……その事については、手入れが終わってからみっちり叱らせて貰いますからね」
 目元をぐいと拭いながら審神者が長谷部に不器用な笑みを向けた。元来泣き虫で情の厚い審神者に多大なる心配をかけてしまった事に改めて思い至り、長谷部はもう一度頭を下げた。
「長谷部! あれ、忘れんなよ」
 背後からの加州の言葉にハッとして、長谷部馬の鞍に括り付けていた刀を審神者の前に差し出した。周囲がそれを見て一斉にどよめく。

「長谷部さん、それは……!」
「燭台切光忠です。先程戦場で拾いました。どうか、こいつを顕現してやってください」
「……よろしいのですか」
「……俺も、もういい加減前に進まねばなりませんから」

 そう告げると、審神者は眼を伏せてそうですか、と頷いた。
「長谷部さんの手入れが済み次第、顕現の儀を行います。それでよろしいでしょうか?」
「ええ」
 力強く首肯する長谷部をどこか眩しいものを見るように眼を細めると、審神者は少しだけ寂しげに微笑んだ。

 その後すぐに体の大きな物達に抱えられて手入れ部屋に放り込まれ、長谷部は一晩の安静を審神者から命じられた。
 手入れ部屋に敷かれた布団の上に体を横たえ、静かに瞼を閉じる。

 あの時、戦場で挫けそうになった自分を叱咤した声を思い出す。力強く、まっすぐな声だった。
 まったく、奴が生きていたら言いそうな事だと、そう自嘲する。
 けれど、あれは、あれはもしかしたら本当に――――。

「…………ありがとう、光忠」

 深く息を吸うと眠りの気配はすぐにやって来た。長谷部は逆らわずその波に身を委ね、意識を手放した。

「長谷部さん、少しよろしいでしょうか」
 障子の向こうから審神者に声をかけられて目が覚めた。窓の外はまだ暗く、壁の時計を見るとまだ明け方だった。
 半身を起き上がらせ、どうぞと促すとすぐにすっと障子が開かれ、審神者の隣に見慣れた男が立っていて息を呑む。
「燭台切光忠を顕現しました」
 夜色の髪、陶器のような肌、右目を覆う眼帯、ほつれ一つない燕尾服と鈍く光る武装。

「僕は燭台切光忠。青銅の燭台だって切れるんだよ」

 いつかと同じ口上を上げて、男は長谷部に笑いかける。
 自分は今、うまく笑えているだろうか。
 布団の上で上半身を起き上がらせた姿勢の長谷部に視線を合わせようと、男が畳に膝をついてこちらの顔を覗き込んでくる。
 居心地の悪さを誤魔化すように早口で要件を述べる。
「……俺はへし切長谷部だ。ここの近侍をしている。へし切ではなく長谷部と呼べ」
 男はそれを聞いてにっこり笑うと、長谷部の耳元に唇を寄せて、こう言った。

「――今度はもう見捨てないでね、長谷部くん」

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