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【1】
「他に好きな人ができたの。離婚して頂戴」
先日妻からそんなことを言われて、言われた通りに離婚届に判を捺してきた。
飲み会で部下にそんな話をしたところ、「バカなんですか?」と盛大に呆れられた。名刀のごとき切れ味のツッコミには返す言葉もない。完膚なきまでの正論だった。もし僕も他人から同じことを言われていたら、やはり「お人好しが過ぎる」と苦言を呈していたことだろう。それくらい馬鹿馬鹿しい話である。
自然と浮かんでくる苦笑を生ビールと共に喉に流し込み、僕はふうっと息を吐いた。
「……我ながら馬鹿だとは思うけど、心変わりばかりは責められないじゃないか。他に好きな相手がいる人をこの先一生縛りつけるのも気の毒だし」
僕の言葉に、目の前の彼はまるで無理矢理エスプレッソを飲まされたでもしたかのように苦々しい顔をした。なだらかだった眉間にぎゅっと皺が寄る。
「部長は人が良すぎます。慰謝料はちゃんともぎ取ったんでしょうね?」
「貰ったから、今日はパーッと使っちゃおうかと思ってこうして君にご馳走してるんだよ、長谷部くん」
そう言うと、僕の自慢の部下である長谷部国重くんは深く深く溜め息をついてから、汗をかいたジョッキをおもむろに持ち上げた。そうしてほとんど噛みつくような勢いで唇をつけ、それを一気に傾けてみせる。ゴッゴッという低い嚥下音とともに彼の喉仏が上下し、ジョッキ内の黄金の液体がみるみるうちに減っていく。
気持ちのいい飲みっぷりに感心していると、長谷部くんはあっという間に空になったジョッキをダン!とテーブルに叩きつけるように置いた。
「そういうことなら付き合います。高い酒頼んでもいいですか?」
「どうぞ」
僕がアルコールのメニューを渡すと、長谷部くんは真剣な目つきで品定めを始める。
「ここ、十四代置いてるんですね。じゃあこれを二合……いや、九平次と飛露喜も捨てがたいな……ここからここまで全部一合ずつ頼みましょう」
はたしてそれだけの量を頼んで、本当に飲みきれるだろうか。不安になってきた僕を見透かすように長谷部くんが「余ったら俺が飲むので安心してください」と言い添えてきた。頼もしい。
「あとなんかつまみも追加しましょう。とりあえず唐揚げと金目鯛の煮付けと……部長はご飯物要ります?」
「うーん、僕はいいかな」
見てるだけで既にお腹いっぱいになってきた。二十代の胃袋ってすごい。
しばらくして卓の上に所狭しと並べられた徳利と皿を目の前に、長谷部くんはにっと唇を吊り上げた。
「部長の慰謝料、俺が飲み干してやるのでご安心ください」
その言葉のとおり、長谷部くんは二時間かけて追加のおつまみとともに大量の日本酒を飲み干してみせた。支払いはもちろん慰謝料満額には届かなかったけれど、当初想定していた予算は大幅に上回った。
いかな酒豪の長谷部くんとはいえ、店を出た頃には少々足元がふらついていた。一升近い量を飲めばそれはそうだろう。彼がここまで酔っ払ってしまったのは僕のせいでもあるので、肩を貸しながら大通りへタクシーを拾いに向かう。車道側をキープするのも忘れない。
途中自販機で買ったペットボトルの水を飲みながら、長谷部くんが口を開いた。
「…………そういえば、指輪、まだしてるんですね」
「え? ああ、うん。いきなり外して社内で変な噂になるのも困るしね。まあ、おいおい外していくよ」
もう何年もつけていて、すっかり薬指に馴染んでいた指輪。苦い笑みを浮かべながらつるりとしたそれを親指でなぞる。これが外せるのは一体いつになることだろう。
「部長は再婚とかしないんですか」
「うーん、もう結婚はいいかなぁ。今回ので向いてないってわかったし」
「じゃあ、恋愛も?」
「それくらいは、まあ、いいかな……」
いつになくこちらのプライベートに踏み込んでくるような、いささか不躾な発言をされるのが意外だった。いつもの長谷部くんならざっくばらんな言動をしていてもここまで距離を詰めてはこないので、これは結構酔っているのかもしれない。
元から駅までは送るつもりだったけれど、この様子だとタクシーで家まで送っていった方がいいかもしれない。そんなことを考え始めていると、長谷部くんは「じゃあ、」と口を開いた。
「じゃあ――俺と恋愛してください」
驚いて隣を見れば、いつの間にか長谷部くんが顔を上げて僕をじっと見つめていた。これまでにないくらい至近距離で見る長谷部くんの瞳は、どこまでもまっすぐで澄んでいる。
「あなたがすきです、長船部長」
言葉もなく固まってしまった僕に、長谷部くんは重ねてこう告げた。
「ずっと前からあなたのことがすきでした。部長は既婚者だったのでただそばにいられればいいと、そう思ってたんですけど……」
酒精の香る吐息が僕の頬に当たる。
「離婚したなら、もう遠慮することないですよね」
そう言って、長谷部くんは初めて見る笑みを浮かべた。蕾が綻ぶような、星が瞬くような。蠱惑的と呼ぶにはまだ瑞々しい、けれど人を惹きつけて止まない、そんな笑顔。
「……は、せべ、くん、」
いつの間にか口の中はからからに乾いていた。上顎に貼りついていた舌をどうにか動かして彼の名前を呼ぶ。
酒精に混じって香るこれは、長谷部くんのつけている香水の匂いだろうか。ただでさえ酔っている頭ではまともにものが考えられない。
長谷部くんは黙ったままの僕を見て笑みを深くすると、押しつけるように体を寄せてきた。服越しに感じる体温と香りが強くなる。五感を容赦なく刺激してくるそれらにくらりと眩暈を感じた。眼前の薄い唇から赤い舌が覗く。
「…………部長、」
その時、通りかかったタクシーが僕らの近くで停車し、乗客を降ろし始めた。それを見て長谷部くんはさっと僕から身を離し、今まで千鳥足だったとは思えないほどしっかりした足取りですたすたとタクシーの方へと向かう。
「すみません、○○駅方面までお願いします」
降りた客と入れ替わるようにして車内に乗り込みながら、長谷部くんは運転手へと行き先を告げる。
部長、と長谷部くんがタクシーの窓を開け、ドア越しにこちらへ顔を向けた。
「今夜はもう遅いので、俺はこれで帰ります。ご馳走様でした」
「え、あ、うん」
「来週の部内ミーティングの資料、明日の昼までには完成させるので、午後一で確認お願いします」
そこにはつい数分前に告白してきたとは思えない、いつもの長谷部くんがいた。いつも会社で見せているような、有能な若手社員、僕の自慢の部下の長谷部国重くん。
「ああ、うん。任せてくれ」
もしかしてさっきのは冗談だったのだろうか。彼の真意が読めず、目を白黒させつつ受け答えをする僕へ、長谷部くんは駄目押しのように言い添える。
「――さっきの、俺は本気なので」
そう言い終わると同時に目の前でバタンとドアが閉まり、タクシーはゆっくりと動き出した。
車体が遠ざかっていき完全に見えなくなった頃になって、ようやく僕の鈍った脳味噌が事態を咀嚼し始めた。し始めたけれど、たかが十分程度で飲み込める気は到底しない。
たったひとつ、僕にわかることと言えば。
「…………若い子って、怖…………」
片手で顔を覆い、道路脇の閉まっているシャッターにガシャンと寄りかかる。火照った体に冷えた金属の温度が心地よかった。
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