シーソーゲームは終わらない

短編
     

46098文字(全9ページ合計)

【4】

『人を好きになるのに理由がいるんですか』
 
 あの日咄嗟にそんなことを言って誤魔化したけれど、長船部長を好きになったきっかけは、実はある。
 あれは、まだ俺が高校生だった時のことだ。

 ◆◆◆

 その日俺は第一志望の大学を受験するために、あまり乗り慣れていない路線の電車に乗っていた。
 高校へは基本自転車通学だったため、朝の満員電車というものは俺にとって不慣れで、ひどく不快だった。まず人との距離が近い。ただでさえ暖房の効いた車内で見知らぬ他人と密着するのはどうにも暑苦しいし、息苦しい。
 吊り革を掴んで足を踏ん張り、不規則な振動で体勢を崩さないように慎重にバランスを取っていた俺は、不意に首筋にかかってくるどこかのおっさんの息を感じて盛大に顔を顰めた。
 横にずれて回避しようとしても、乗車率の高い車内ではろくな身動きが取れない。数センチ動くのでさえやっとで、生温い息はいまだ俺の肌に当たり続けている。
 ただでさえこれから受験を控えて気が立っているというのに、何が悲しくてよそのおっさんとこれほどまで密着せねばならないのか。はっきり言ってかなりストレスだった。
 仮に大学に受かったとしても、この時間のこの路線だけは使うまいと心に決めていると、不意に尻のあたりに違和感を覚えた。
 尻に何かがするりと触れる感触がした。初めは鞄でも当たったのかと思ったが、時間が経つにつれてそれが手の感触であることがわかってきた。尻に触れていたものがさわさわと撫でるような動きから、次第に揉むような動きに変わったからだ。

 これはもしかして世に言う痴漢というやつなのではないだろうか。

 なかなか確信が持てなかったのは、俺が身長百八十センチ近い男だからだった。ごく幼い頃ならいざ知らず、まさか選挙権も持っている男子高校生が見知らぬおっさんの性愛対象になるとは今まで考えたこともなかった。まさか、そんな。
 ぐるぐると考えている間にも首筋に当たる息はどんどん荒くなっていき、尻を揉みしだく手の動きの無遠慮さも増している。思わずぞわりと鳥肌が立った。気持ちが悪い。
 普段の俺ならば振り返って胸ぐらでも掴んでいるところだが、受験会場の最寄り駅まではあと数駅で、試験の受付時間までもそれほど余裕がない。この痴漢を駅員に突き出して警察に連絡して……などの対応をすれば、大事な試験に遅れてしまうことは明白だった。
 俺は自分のプライドと受験を天秤にかけ、目的地まで我慢することを選択した。こんな変態のために第一志望を諦めることだけはどうしても嫌だった。
 唇を噛んで俯き、気持ち悪さと痴漢に目をつけられてしまった情けなさに必死に耐えていると、突然ぐえっと蛙が踏み潰されたような呻き声が背後から聞こえた。

「この人、痴漢です」

 低音の美声が控えめに車内に響いた。
 驚いて振り返ると、これまた見知らぬスーツ姿の男が、見るからに冴えないおっさんの腕を捻じりあげていた。
「君、大丈夫?」
 琥珀色の瞳が気遣わしげに俺を見ていた。助けられたのだ、と気づいて、安心のあまり力が抜ける。その人は俺がこくこくと頷いたのを確認してほっとした顔をし、次いで掴んでいたおっさんをぎろりと睨みつけた。
「自分のしたことがわかってるのかい。次の駅で一緒に降りてもらおうか」
 その人がすごむと、おっさんは観念したように項垂れる。
「君もそれでいいかな?」
 おっさんに向ける軽蔑の眼差しとはこれまた打って変わって、気遣わしげな視線がこちらへ向けられる。

「気持ち悪かっただろう。もっと早く気づいてあげられなくてごめんね」

 助けられたことへの安堵で思わず涙目になってしまった俺へ、その人は安心させるように微笑んだ。
「とりあえず次の駅で降りて通報するから、嫌だと思うけど君からも証言を、」
 その言葉で俺ははっと我に返った。
「あのっ! 俺、これから受験で、時間なくて、」
 俺の必死の訴えを聞いて、その人は「それは大変だ」と考え込むようにした。

「じゃあ僕からも口添えするから、駅員さんから受験先の大学に連絡してもらおう。こういう場合は多少遅れても配慮してもらえる筈だから」

 そうして俺は促されるまま、次の駅で痴漢野郎とサラリーマンと思しき男と三人で降車し、駅員室で駅員と警察から簡単な聞き取り調査を受けた。
 目撃者もいたことで比較的短時間で通報は済み、大学からも数時間遅れで別室で試験を受けることが認められた。まさに危機一髪の出来事だった。受験失敗を回避できた安心のあまりへなへなとその場に座りこみそうになり、慌てて自分を奮い立たせた。まだ試験を受ける権利を得ただけで、肝心なのはこれからなのである。
 痴漢を取り押さえてくれたサラリーマンは、俺が試験会場行きの電車に乗るまでずっと付き添ってくれ、別れ際に俺に一枚の名刺を差し出してきた。
「もし何かあったらここに連絡して。目撃者として最大限力になるよ」
 そうして気遣わしげに俺の顔を覗き込んでくる。
「つらかっただろう。がんばったね」
 受験がうまくいくように応援してるよ、と最後にそんな言葉を贈られて、俺はその人と別れた。
 試験を終えて改めて見た名刺には、誰でも知る一流企業の名前と、『長船光忠』という名前が書かれていた。

 その後俺はなんとか試験を終えて無事に志望大学に合格し、順調に進級して就職活動を迎えた。第一志望先は、四年間大事に持っていた名刺に書かれていた、あの企業にした。
 あの後お礼の電話を入れたきり、あの長船という人とは連絡を取っていなかった。電話越しに「必要ならいつでも頼ってほしい」とは言われたけれど、社交辞令を真に受けるほど俺も子どもではないのである。それに、あの日俺はインフル対策でマスクをしていたし、今となっては向こうもきっと俺のことなんて忘れているだろう。
 それでも、できることならまたあの人に会いたかった。会ってもう一度直接お礼が言いたかった。

 すこぶる不純な動機で受けた会社に無事内定が決まり、入社式後の懇談会であの人を見つけた時は飛び上がるくらい嬉しかった。事前に貰っていた社内報によると、俺が持っている四年前の名刺より肩書きが増えている。どうやらあれから順調に出世していたらしかった。人格が優れているだけでなく仕事もできるらしい。さすがだ。
 しかし思い切って話しかけてみると、彼は笑顔でこう言ったのである。

「はじめまして。君は……えーと、新入社員代表の長谷部国重くん、だったかな。何か用かい?」

 よりによって『はじめまして』。案の定忘れられていたことよりも、そう挨拶してきたあの人の薬指に銀色の指輪が嵌まっていることに気づいた時のほうがショックで、俺はそこで初めてずっとあの人にほのかな恋心を寄せていたことを自覚してしまった。

 自覚と共に失恋した俺だったが、研修後にあの人のいる部署に配属され、部長としての彼の下で働くうちに、失ったはずの恋心はどんどん育ち、日に日に制御が難しくなっていった。
 笑いかけられれば胸がときめくし、仕事ぶりを褒められれば嬉しくて。
 長船光忠という人を知れば知るほど、人間としても上司としても、恋愛対象としても好ましくなっていく。
 それでも既婚者に告白するほど俺も恥知らずではない。この恋心は鍵をかけて胸にしまいこみ、部下としてあの人の役に立とうと日々努力を重ねて数年が経った頃だった。

 たまたま誘われた仕事終わりの飲みで、本人から最近離婚したことをこっそり教えられたのである。
 正直、チャンスだと思った。既婚者だったから諦めていたものの、フリーなら話は別だ。何も言わずに諦めるはずだった恋心が再び燃え上がっていくのが自分でもわかった。
 どうせ一度失ったはずの恋だ。こうなったらきっちり振られるまでアタックしてみよう。俺はすぐにその場で部長に告白することを決めた。
 ただでさえ相手は元妻の心変わりで傷心の身だ。普通にアタックするよりかは勝算が高いはず。
 下手にぐだぐだと駆け引きを続けるうちに、部長が離婚の傷から立ち直ってしまえばこちらが不利だ。いささか卑怯だが、心の傷が塞がる前に勝負をつけるほうがいいだろう。
 そう判断して、俺は帰り道不意打ちで告白した。

「あなたがすきです、長船部長」

 嫌われていない自信はあった。部下として可愛がられている自負も。
 告白した時の態度からは嫌悪感は感じなかった。これはもしかするといけるかもしれないと判断して、そうして俺の涙ぐましい恋愛特攻作戦は始まったのだった。
 
 ◆◆◆

 今日のデートが楽しみすぎて、待ち合わせ場所には一時間前に着いてしまった。しかも昨夜は期待と興奮であまりよく眠れなかった。前回スーツを見立ててもらった時も似たようなコンディションだったが、今回は長船部長から誘われたのだからなおさらだ。
 時間つぶしのためにスマホで電子書籍アプリを開いてみるものの、視線は規則正しく並ぶ活字の上をつるつると滑っていくばかりだ。ちっとも頭に入らない。
 なにせ、この間は実質告白されたようなものである。
 あの夜の翌日から長船部長は一週間ほど地方に出張していたため、あれから直接顔を合わせるのは今日が初めてだ。

『これから恋愛をするなら、相手は君がいい』

 あの発言は完全に脈ありということと解釈して差し支えないだろう。俺の涙ぐましい努力がようやく報われつつあるということだ。
 しかし手放しで喜べないのは、あれが単に『長谷部国重を恋愛対象として見ることにした』という気持ちの切り替え宣言なのか、それとも普通に『長谷部国重を恋愛対象として見ているが、まだ交際には早いと思っているのでお試しさせてほしい』という交際前のプレ告白のようなものなのかが、俺には判別がつきかねることだった。できるなら後者がいいが、前者の場合まだまだ気が抜けない。

 なんたって部長は鬼のようにモテるのである。俺が入社してからだってワンナイト狙いでアタックする不届きな女性社員を何人も見た。既婚者であった頃だってそうだったのだから、フリーになった事実が大々的に知れ渡れば本格的にライバルが増えるだろう。
 妻帯者であった部長はおそらく元々異性愛者であるのだろうし、そうなった場合、年の離れた同性である俺はいささか不利だ。部長に好かれている自信はあれど、魅力的な女性たちに競り勝つ自信までは、ちょっとない。

 やはりここは一度既成事実でも作ってしまったほうがいいのだろうか。
 年齢と恋人いない歴がイコールの俺が部長を押し倒してあれそれすることはできるんだろうか。というかこの場合の既成事実ってどこまでを言うんだ。部長とキスをする想像までが精一杯の俺に、それ以上のことができるのか? 仮にできたとして俺は抱く側なのか抱かれる側なのか? もうなにもかもわからない。

 あの日部長には強がって駆け引きより体当たりを選択したようなことを言ってはみたものの、実のところ俺は体当たり以外のやり方を知らないのである。野球で例えるならばストレートしか投げられないヘボピッチャーだ。
 だから、せめて投げるタイミングだけは見極めなければならない。
 やはり今日の帰り際にどうにかラブホテルか自宅まで連れ込んで無理やりにでもベッドに押し倒そう。もし部長が俺には勃たないというなら、俺が抱く側に回ろう。だって俺は部長で勃つし。
 そう結論づけたところで「長谷部くん」と背後かつ至近距離で部長の声がして、俺は思わず飛び上がった。

「ひっっっっっっ!?」

 文字通り地面から五センチばかり飛び上がってから慌てて振り向くと、金色の瞳を呆然と見開いた長船部長がそこに立っていた。

「えっと……ごめん、驚かせちゃったね」
「いえ! あの! こちらこそすみません!! おはようございます!!!!」

 客先で謝罪する時よりも深くお辞儀をした俺に、部長は「おはよう」とやや困惑ぎみの表情で挨拶を返してきた。それはそうだろう。今のはどう考えても挙動不審すぎる。
「ごめんね。もしかして結構待たせちゃったかな」
「いえ、あの、俺が早く来すぎただけなのでお気になさらず」
 時計を見ればまだ待ち合わせの三十分前だった。もし時間通りに来ていたら部長を三十分待たせることになっていたと考えると恐ろしい。一時間前行動をしていて助かった。

「でもこんな日向にいたら暑かっただろう? 待たせちゃったお詫びに、とりあえず何かお茶でもご馳走するよ」
 言われてみれば喉はカラカラだった。
「で、でも、部長にはいつも奢ってもらってばかりですし」
「うーん……じゃあこう言おうかな」
 そう言って、部長はすこし悪戯っぽく目を細めた。

「僕の慰謝料、君に飲み干してほしいな」

 もうそろそろ聞き飽きそうな殺し文句。そもそも初めに発言したのが自分であるだけに、そう言われてしまうとやはり俺からノーは言えないのだった。

 結局カフェでフルーツジュースを頼んで一息ついた後、そのまま同じ商業施設に入っている水族館へと向かうことにした。カフェで休憩中に今日のおおまかな流れは説明されている。水族館を巡った後に夕飯を食べて解散というコースらしい。
 正直、どんな凝ったデートコースを巡るのかと身構えていたのだが、こう言ってはあれだけど結構ベタだ。ごく普通の、いたって定番のデートコースである。
 そんな考えが顔に出ていたのか、部長は「実はね」と内緒話をするようにすこしだけ声のボリュームを落とした。

「僕、若い頃は両親の仕事の都合で海外で生活していたものだから、こういう日本のデートスポットというものに来たことがなくてね」

 え、と思わず声を上げてしまう。
「でも、奥さ……いえ、元奥さんとデートとかしたんじゃ……」
「元妻はこういう定番のデートスポットより、サーフィンとかスノーボードとか、レジャースポーツの方を好む人でね。海や登山なんかには何度か付き合わされたことがあるけど、映画館とか水族館とか、そういういかにもって場所は、実は全然行ったことがない」

 以前、会社の創立パーティで一度だけ部長の元奥さんを見たことがある。頭から爪先まで一切の隙のない雰囲気を纏った華やかな容姿の女性で、部長と並べばまさに美男美女、部長の伴侶にはやはりああいった人しかなれないのだろうなと、言い知れぬ悔しさと敗北感を覚えたものだった。
 でも、部長のこの口ぶりだと、実は私生活ではあまり気が合わなかったりしたんだろうか。だとしたら――実に卑しく浅ましい考えではあるが――ちょっと嬉しい。

 しかしなんと口を挟んだものかわからず、そのまま部長の横顔を見る。俺の方からだと、部長の表情は長い前髪に隠れてうまく読めない。
「長谷部くんは、こういうところは来たことがある?」
「いえ、ないです」
「過去に恋人は?」
「恋愛的な意味で好きになったのは、部長が初めてです」
 我ながら今のはいい投球だったのではないだろうか。
「そうなんだ」
 けれど、そう告げる部長の声色はあくまでも穏やかで、特に動揺は見当たらない。失敗だったのだろうか。俺が不安になりかけた時、不意に部長がこちらに顔を向けた。

「嬉しいな。じゃあ、今日はお互い初めて巡るデートコースになるね」

 目元に照れを滲ませたやわらかい笑みだった。
 普段会社では見せないような、完全にプライベートでだけ見せるような表情に、俺の心臓は一気に高鳴った。

 かっこいい。すきだ。年齢を重ねた渋みのあるかっこよさの中に、こちらの父性本能をくすぐるようなかわいさがある。ずるい、こんなの惚れ直してしまう。あと目尻に寄った笑い皺がすごくセクシーだ。すき。

「長谷部くん?」
 思わず部長への好意で脳内が桃色に染まっている俺の顔を、部長が怪訝そうな顔で覗き込んできた。
 いつも会社で纏っているのとは違う香水の香りがしてドキドキする。
「あ……えっと、よろしくお願いします……」
 どんどん尻すぼみになっていく言葉を聞いて、部長はくすくすと笑った。

「長谷部くん、今日はなんだかいつもよりおとなしいね。調子が狂っちゃうな」
「……好きな人から誘われた初のデートですよ。さすがの俺だって緊張してます」

 じとりと俺より高い位置にある瞳を睨みつけると、部長は一瞬目を丸くした後、ふわりと微笑んだ。
「お互い初デートなんだから、条件は同じだよ。リラックスリラックス」
「無理ですよ。大体、部長のほうが絶対経験豊富なんだから、同じ条件なわけがないです」
「あ、それ。デート中くらいその呼び方はやめない? 会社にいるみたいで落ち着かないよ」
 呼び方を指摘されて、それはたしかにそのとおりかもと思う。プライベート――しかもデートだ――でまで役職名で呼ぶのは野暮というやつだろう。
 だが、かと言っていきなり二十も年上の相手を下の名前で呼び捨てできるほど俺の面の皮は厚くない。数秒間じっくり考えた結果、俺は絞り出すように隣の相手の名前を呼ぶ。

「…………長船さん」
「うーん、及第点……かな。本当は敬語も外してほしいけど」
「それは、さすがに」
「まあ、だよねぇ」
 部長――長船さんはひとり頷いてみせてから、くるりと俺に向き直った。
「長谷部くん、今日はよろしくね」
 そうして目の前に差し出されたてのひらの意図は、さすがの俺にだってわかる。
「こちらこそよろしくお願いします、長船さん」

 そうしておずおずと手を取ると、長船さんはきゅっと俺の手を握ってゆっくりと歩き出す。俺の心臓は先程からばくばくとうるさいくらいに鳴っていて、デート序盤からこれでは先が思いやられる。気を取り直すために深呼吸してから、俺も長船さんの手を握り返してみる。
 隣で長船さんがふふっと笑う気配がしたが、気にしないことにする。した。
 なんせ、俺にはどうにかこのデートを乗り越えた後に既成事実を作るというミッションが待っているのである。こんなところで気力を使い果たすわけにはいかない。
 
 ――さあ、デートのはじまりだ。

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