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【5】
俺は生まれてこのかた他人とデートというものをしたことがない。ないので、比較対象がフィクションから得た漠然としたイメージくらいしかないのだが、現在結構いい感じにデートできてるのではないかと思う。
「このカニ、変わった名前ですね」
水槽横に展示された文章を読んだ俺の言葉を聞いて、長船さんもどれどれと解説文を覗き込んでくる。
「スベスベマンジュウガニかぁ」
「そもそも饅頭って全部表面がすべすべしてませんか?」
「そうかなぁ。意外とこう、つるつるもちもちしてない?」
「もちもちはつまんだ時の擬音じゃないですか」
「表面だけの話かい? なら、僕はつるつる派かな。少なくともこのカニの表面はつるつるに見える」
「ツルツルマンジュウガニ?」
「言葉にしてみると結構間抜けだね」
「マンジュウってワードがそもそもちょっと間が抜けてませんか? ないほうがいいのかも」
「じゃあツルツルガニ?」
「……それはそれで微妙ですね。鶴なのか蟹なのか」
「うん、この子はスベスベマンジュウガニなのが一番いいのかもしれない」
展示を見てそんな他愛もない冗談を言い合ったり。
「あ、お土産屋さんがあるよ。記念になにか買って行く?」
「いえ、特には」
「え、本当? 意外と食品も種類豊富みたいだけどいいの? いわしせんべいとかシーフードカレーとかもあるみたいだよ」
「長船さん、俺が食事にしか興味ないと思ってませんか?」
「じゃあ何に興味あるのかな」
「……この中だったら、あのマンボウのぬいぐるみとか」
なら買ってきてあげようか、とぬいぐるみに手を伸ばす長船さんを慌てて引き止める。
「そうやってすぐ奢ろうとしないでください!」
「慰謝料が余ってるからね」
この人、そう言えば俺がなんでも言うこと聞くと思ってるんじゃないだろうか。実際そうなので悔しい。
「……わかりました。じゃあそこの高級ツナ缶とシーフードカレーもお願いします」
「ふふ。オーケー、任せてくれ」
お土産屋で大量にお土産を買い込んで自宅に配送してもらったり。
他にも、イルカショーを見て一緒に生のドルフィンジャンプに歓声をあげたり、売店で売っていた塩ミルクソフトとやらを食べたりしているうちに、あっという間に夕方になってしまった。
今のところ、ごくごく普通の順調なデートができている気がする。
初めはガチガチに緊張していた俺だったが、長船さんと会話しているうちに自然といつもの調子を取り戻してきた。
繫いだ手の温度にはまだドキドキするものの、それでも水族館の展示やショーを楽しむ余裕もある。
いたっていい感じだ。あくまでも今のところは。
問題はここからどうやって長船さんと既成事実を作るかだ。どうすればこう、うまいことラブホなり俺の家なりに連れ込めるだろう。初体験がネカフェとか公衆トイレというのはさすがに良識的にどうかと思うし、普通に嫌すぎる。せめて屋根のある完全個室かつベッドの上でお願いしたい。
しかしいきなり「この後ラブホテル行きませんか?」なんて発言は、いかな俺と言えど暴投もいいところだろう。ムードもへったくれもあったものじゃない。かといって他に自然な流れで一緒にラブホテルへ入るための発言も思いつかない。どうしよう。詰んだ。
そんなことをぐるぐると考えているうちに、夕飯の時間になってしまった。ディナーを取るために入ったのは水族館と同じエリアにあるモッツァレラチーズ専門店とやらで、店内は薄暗く、テーブルの上に置かれたキャンドルの灯りが俺と長船さんの間でゆらゆらと揺れている。長船さんの金色の瞳に炎が映りこんで、ちらちらと燃えるように瞬いた。あの瞳に俺だけを映してもらうために、俺は一体どうすればいいんだろう。こんな時になっても具体的な方法が思いつかない。
とりあえずおすすめのワインと呪文のような名前のモッツァレラチーズの食べ比べセットを頼んではみたものの、緊張してもう名前も味もまったく頭に入ってこない。全部美味いことしかわからない。
ボトルで注文したワインは、混乱した俺がいたたまれなくなって水のように飲んでいるせいで既になくなりそうだ。それなのに俺はまったく酔えていない。自分の優秀な肝臓が恨めしい。ワイン美味しい。
「長谷部くん、ペース早いけど大丈夫?」
長船さんからかけられた言葉に、俺はパッと閃いた。俺が古代ギリシア人だったらきっとエウレカと叫んでいたことだろう。
「……すみません、あんまり大丈夫じゃないです」
「そっか、気づかなくてごめんね。それじゃあ早めにここを出て解散にしようか」
その後店員を呼んだ長船さんがスムーズに会計を済ませてくれ、二人で店の外に出た。
「目の下にうっすらクマもできてるし、早く帰って寝たほうがいい。大丈夫かい? 家には帰れそう? タクシー呼ぼうか?」
心配そうに俺の顔を覗き込んでくる長船さんにほんのり罪悪感を覚えつつも、俺は意を決してキッと長船さんを見つめて口を開く。
「帰れないって言ったら、どうしますか?」
「うん? それならタクシーで送って――」
「……帰りたくない、です」
長船さんの服の裾をぎゅっと握る。我ながらあざとい。さらにできるだけ上目遣いになるよう、長船さんの瞳を覗き込む。
「まだ長船さんといたいんです。一緒にホテルに泊まってもらえませんか?」
俺の渾身の剛速球に、長船さんは一瞬だけ目を丸くしてからくしゃりと苦笑を浮かべる。そしてふうっと長いため息をついた。
「……困った子だな。最初からそれが狙いだった?」
俺の策略が見破られるのも、まあ想定内だ。離婚を知らされたあの夜も似たような騙し討ちをしたわけだし。
「駄目ですか?」
「駄目とは言わないけど、正直捨て身の戦法すぎて不安になるね。そんなことしてるといつか悪い大人に騙されてしまうよ?」
長船さんがぽんと俺の頭に手を置き、わしゃわしゃと髪をかき回すように撫でる。
まずいと脳内で警鐘が鳴った。このままでは完全に説教されて解散コースだ。何か話題の方向を逸らさないと。慌てて口を開く。
「長船さんはそんな人じゃないと思ってますし、」
八年前のあの日、俺を助けてくれた長船さんの姿を思い出す。それから、これまで近くで見てきた長船さんの優しく誠実な態度も。
「……それに、俺は長船さんにだったら騙されても構わないです」
長船さんの顔からすっと表情が消えた。普段から笑みを絶やさない人なので知らなかったが、そうすると途端に整いすぎているほど整ったきつめの顔立ちが目立つ。これはこれでかっこいいな、と頭の片隅で思う。綺麗だ。
俺は直感的にいけると判断して、長船さんの手を握った。
「……自分のこと知ってほしいって言いましたよね? 俺も長船さんのこともっと知りたいし、俺のことも知ってほしいです。……できれば、ベッドの上でも」
まっさらの童貞処女にしては結構色っぽい台詞を決められたのではないだろうか。
内心でガッツポーズを取っていると、俺の頭に乗せられていた長船さんの手が、そのままするりと滑るように俺の頬を撫でた。
「一応聞くけど、経験はあるの?」
「男同士のやり方は調べましたし、一人で試してみたことはあります」
「…………本当に、困った子だな」
仕方ないなぁ、というように長船さんが眉を下げて笑う。
「わかったよ。ホテル、行こうか」
勝った、と思った。
そう、思ったのに。
「………………騙された」
俺は枕にぼふりと顔を埋めた。
現在俺はとあるホテルのベッドの上にいる。低反発の枕、肌触りのいいリネン。落ち着いた色合いで統一された部屋に並ぶ、二台のセミダブルベッド。
「嘘は言ってないよ。ちゃんとホテルに連れてきてあげただろう?」
俺の視線の先ではシャワーを浴びてパジャマに着替え終わった長船さんが、部屋に備え付けのカプセルタイプのコーヒーマシンで優雅にエスプレッソを淹れている。
おかしいと思ったのだ。あの後、てっきりラブホテルの建ち並ぶ駅の反対側のエリアに移動するのかと思っていたら、すぐ近くの普通のホテルに連れて行かれたのである。
長船さんがフロントでチェックインを済ませている間、俺は「そうか、長船さんクラスになるとワンナイトでも場末のラブホテルなんて利用しないのか。かっこいいなぁ」などと尊敬と感動の気持ちを抱いてのんきにロビーのソファに座っていた。今思えば、興奮と緊張で完全に頭がばかになっていたのである。
宿泊の手続きを終わらせた長船さんとともにエレベーターに乗り込み、中層階の部屋へと入って部屋の電気をつけ、そこでようやく俺は長船さんの意図に気づいた。思わず「やられた」と手で顔を覆ってしまう。
部屋の中央にはセミダブルのベッドが二台並んでいた。つまり、ダブルではなくツインの部屋だったのである。
「ゆっくり休憩できていいだろう?」
「まさか本当の意味での『ご休憩』用だとは思わないじゃないですか!」
そう、長船さんは俺を休ませるため、ラブホテルではない一般のホテルのツインベッドルームに連れ込んでくれたのである。はなから俺と同衾してくれるつもりなどなかったのだ。
シャワーを浴びて着替え終わってもまだ文句の収まらない俺へ、長船さんは「エスプレッソ美味しいよ。長谷部くんも飲むかい?」と優しく声をかけてくる。その優しさが憎い。憎いけど嫌いにはなれない。畜生。
「…………せっかくなので、いただきます」
そう返す俺の横、ふたつのベッドの間にあるサイドボードの上に、しばらくしてデミタスカップがことりと置かれた。
「あのままあそこで君を帰すのも心配だったし、そもそも長谷部くんはああでも言わないと絶対に引きさがらなさそうだったからね」
俺の必殺のストレートは長船さんによって軽々と打ち返されてしまったのである。さよなら満塁ホームラン。歓声の中で悠々と球場を走り、華々しくホームベースへと帰還する長船さんのイメージが脳裏に浮かぶ。
「……ちなみに、俺もそっちのベッドで寝かせてくれたりは……?」
「しないねぇ」
完全に今夜の負けが確定してしまった。未だ納得はいかないが、渋々と体を起こしてエスプレッソを飲むことにする。脳髄が痺れるくらいの苦みと、芳醇な香りが疲れた頭にガツンと染み渡っていく。美味い。それだけになんだか無性に悔しかった。
「……俺の気持ちを弄ばれた……」
思わず零したぼやきに対し、長船さんはあのねぇと呆れた様子で俺の方を向いた。
「本当に弄ぶ気だったら、今頃君は適当につまみ食いされてポイされてるよ」
「つまみ食いしてくれたっていいんですよ?」
隣のベッドに腰をおろした長船さんにちらりと視線をやると、「嫌だよ」と意外なくらいきっぱりと否定された。落ち込む間もなく続く言葉に、俺は声を失う。
「君のこと、しっかり味わいたいもの」
我ながらちょろいと思いながらも、心臓は馬鹿正直に高鳴った。顔がかあっと赤くなるのが自分でもわかる。
「だから、今夜僕が譲歩できる境界線はここまで。勝手にこっちのベッドに入って来ないと約束してくれるなら、夜通しのおしゃべりにも付き合ってあげる」
そうして「オーケー?」とどこか凄みのある笑みを向けられては、イエスサーと頷くほかない。
「……今夜は長船さんとの初のお泊りデートが達成できたと思うことにします」
そう言って俺はとうとう降参を決めることにする。やっと大人しくエスプレッソを味わいだした俺を長船さんは「いい子だね」と褒めた。
そんな褒め言葉にさえ内心勝手に尻尾を振って喜んでしまうのだから、本当にまったく、我ながら驚きのちょろさである。
そうして中身を飲み干したカップをサイドボードに置いてから、俺は再びベッドにごろりと横になった。
「あれ? おしゃべりしないの?」
「修学旅行中の学生じゃあるまいし。ベッド越しに夜通し何を話すんです?」
「そこはほら、恋バナとか」
「長船さん、どうせ聞いても肝心なところははぐらかして教えてくれないんでしょう?」
きっとこっちが一番知りたいことを真っ向から聞いたって、のらりくらりと躱して教えてくれないに違いない。それに。
「……それに、長船さんの過去の恋愛話なんか聞きたくないです」
そんなことを聞いてしまったら、嫉妬心で俺がどうにかなってしまう。耐えられない。無理だ。既に想像だけで胸の奥が嫉妬の炎でじりじりと焦げているというのに。
「長船さんの過去の恋愛遍歴も好きなタイプも、知らなくていいです。好きなタイプにはこれから俺がなっていけばいいし、俺はこれからの長船さんをまるごともらえればそれで満足なので」
そんな強がりを口にしながらごろりと寝返りを打ち、俺は長船さんに背を向けた。白い壁を睨みつけながらこれで終わりだと示すために「おやすみなさい」と口にする。心安らかに眠れる気はしないけれど、目を閉じていればいつかは朝になっているだろう。
下ろした瞼、その薄闇越しに長船さんがぽつりとこぼすのが聞こえる。
「……僕は知りたいけどなぁ。長谷部くんのこと」
もう本日の営業は終了だ。どんなに長船さんから声をかけられようと、今日はもう寝る。寝るのだ。寝るったら寝る。
俺は狸寝入りを決め込んだまま呼吸することだけに集中する。
「大学でどんな勉強をして、どんな経験を積んできたのかなとか。どうしてうちの会社を受けたのかなとか」
面接か! 思わず心の中でツッコむ。
大体そんなの新人の時に飲み会で散々喋らされたじゃないか。長船さんだってその場で聞いていたはずだ。二度手間だ。タイムパフォーマンスが悪い。長船さんらしくもない。
目を瞑ったままそんなことを考える俺の耳に、次の瞬間信じられないような台詞が飛び込んできた。
「受験の日にあんなアクシデントがあったからずっと心配してたんだけど、君ってば一度お礼を言ったきり結局その後連絡くれなかったし。かと思えばいきなりうちを受けて入社してくるし。名刺渡してたのになんで就職にあたって何も連絡くれなかったのかなとか。――そのへん、もっと詳しく聞きたいんだけどな」
「…………………………は?」
がばりと起き上がって振り返ると、長船さんはサイドボード上に設置された電源パネルに手を伸ばしたところだった。
「まあ話したくないことを無理に聞く趣味もないから、これでこの話は終わりだね。おやすみ」
「まままま待ってください!! 待て!!」
部屋の電気を消そうと伸ばされていた長船さんの手を慌てて抑える。
「なあに?」
「『なあに?』じゃないんですよ! 今のどういうことですか!? 長船さん、俺のこと覚えてたんですか!? なのになんで入社式で『はじめまして』なんて言ったんですか!?」
長船さんの金の瞳が俺を映し、ゆっくりと瞬いた。
「あの時は周りに人もいたからね。どうして知り合いなのかって聞かれて、痴漢されてたところを助けた仲だなんて勝手に言われるの、君も嫌かなと思ったからぼかしたつもりだったんだけど」
ぼかしすぎだ。現に俺は今の今まで普通に忘れられているのだと思っていた。
「後からきちんと話をしようと思ったら翌日から急に君は僕を避けだすし」
「そ、れは……」
覚えがある。長船さんに忘れられていたことと、既婚者だったという二重のショックで、入社後しばらくは長船さんの顔が見られなかった時期があった。
「かと思えば入社後研修の時のアンケートで希望配属先にうちの部署の名前書いたっていうじゃないか。一体何考えてるんだろうこの子って、あの時は空恐ろしささえ覚えたね」
「だっ……て、そんなの、忘れられてると思って、俺、」
舌が縺れる。きちんと話さなきゃとそう思うのに、気持ちばかりが先走る。
あうあうと混乱して半泣きになる俺に、長船さんは感情の読めない瞳で淡々と告げてくる。
「配属後は配属後で、今度は打って変わって僕の後を仔犬みたいにくっついて懐いてみせるから、もう意味がわからなかった。なんで、なんてそんなのこっちの台詞だよ」
淡々と、あくまでも淡々と告げられる真実の数々に、俺の感情はとうとう爆発した。
「っ……そんなの、長船さんのこと好きだからに決まってるじゃないですか!!!!」
涙とともにぶわりと言葉が溢れてくる。
「あの日からずっと貴方に憧れてて! だからまた会えるかなって同じ会社を受けて! 忘れられてると思ったからショックで顔が見られなくて、でも一緒に働いてみたらやっぱり好きだなって思って、」
全部、長船さんが好きだからなのに。
「なのに貴方いつのまにか結婚してたし、付き合えないならせめて使える部下になりたかったから、頑張って、俺、ずっと頑張ってたのに、なんで……っ」
歯を食いしばって俯くと、ぼとぼとと音を立てて涙がカーペットへと落ち、歪な染みを作っていく。
「なんで、そんなひどいこと言うんですか……?」
実はずっと俺の気持ちを疑われてたなんてこと、知りたくなかった。
長船さんの手をきつく握ったまましゃくりあげていると、はあと溜め息が聞こえた。
「……ちょっと意地悪しすぎたね。ごめん」
空いていた左手が俺の頭の上に乗せられ、髪を梳くように撫でてくる。
「君が新人の頃はね、実は君の気持ちのこと、ちょっと疑ってた」
ずきんと胸が痛む。
「でもね。君を知るうちに、君は君なりに僕のことを本当に好きなんだろうなって確信できたから、僕は今ここにいるんだ」
のろのろと顔を上げる。涙で潤む視界の向こうで満月色の瞳が優しく光っている。
「……慰謝料を使ってほしいなんて、本当は最初からただの口実だったよ。僕はね、長谷部くん。君のことが知りたくて、君に近づきたくて、――君と恋がしてみたくて、だからあの夜君を飲みに誘ったんだ」
髪を撫でていた手のひらが包むように頬に触れる。手のひらの熱がじんわりと肌から移ってくるかのように、俺の頬がじわじわと赤くなってくるのが自分でもわかった。
あ、ぅ、と喃語のような呻きが唇から漏れる。長船さんの親指が漏れた声をたしかめるように俺の唇をなぞる。
「長谷部くん、」
咄嗟に焦点が合わないくらい近くに長船さんの瞳があった。今まで見たことのないくらい近くで見る蜂蜜色の瞳の奥には、たしかな熱情の炎が灯っているのが見えた。俺の心臓が大きくどくんと脈を打つ。
どっ、どっ、どっ。痛いくらいに激しい脈動を打つ心臓の音がうるさくて邪魔だ。今は長船さんの声しか聞きたくないのに。
「君のことがすきです。僕とお付き合いしてください」
それでも、続けられた言葉はどこまでもまっすぐに俺の胸を射抜いた。
「…………はい」
頷きながらの返事は情けなくも掠れて裏返ってしまったけれど、長船さんにはきちんと届いてくれたらしい。長船さんの纏っていた雰囲気がふわりと緩むのがわかった。
「……嬉しいな。ありがとう」
ふわりと浮かんだ笑み。ゆっくりと俺の唇の輪郭をなぞっていた指が、唇の端をやわらかく押してくる。
「キスしてもいい?」
もうろくに言葉も出せない俺は、わずかに顎を引いて頷くことで返事をした。ふっと笑み混じりの吐息が顔に当たる。反射的に目を瞑ると、やがてやわらかいものが唇に押し当てられ、すぐに離れていく。生まれて初めてのキスに心臓が痛いくらい脈打つ。
長船さんは体を強張らせる俺を安心させるように抱きしめ、そのままゆっくりと俺の体をベッドへと押し倒し、そして。
「おやすみ。また明日」
そう言って俺に布団をかけ、また自分のベッドへと戻っていった。
「電気消すね」
ぱちんとスイッチが押される音ととともに部屋の電気が消える。
「…………………え?」
まぶたを開いても、そこには闇が広がるばかりで。
「……長船さん?」
「朝食会場は九時までやってるらしいから、それまでに起きようね」
「いや、あの、」
「なぁに?」
「えっと……今のは俺とセックスする流れでは?」
「しないよ?」
「えっ」
しないの? マジで?
顔を横に向け、呆然と闇の向こうを見つめていると、しれっとした長船さんの声。
「さっきも言ったじゃないか。今日は泊まるだけ。一度宣言した以上それを曲げる気はないよ」
そして「おやすみ」ともう一度言ったきり、長船さんはそれから何度呼びかけてもうんともすんとも返事をしなくなった。
頭の中をクエスチョンマークと悲鳴と舌打ちが一瞬で同時に駆け巡る。
「っ…………長船さんのばか! ケチ! 朴念仁!」
俺の罵声に対してももう何も反応がない。なんだか裏切られたような、逆にすこしほっとしたような、相反する感情がまだらに胸の内を彩る。
鼻の奥がつんとなる。じわじわと浮かんでくる涙が、どの感情を起点にしているのか自分でももうわからなかった。
だけどこれ以上足掻いても長船さんから期待の反応を得られないだろうことは、今までの経験からわかってしまった。そうなると、もはや俺が選べるのは睡眠という選択肢だけである。
言いしれぬ悔しさを感じながら、俺はすごすごと布団をかけ直して眠る体勢に入った。
「……長船さんのばか」
天井に向かってぽつりとつぶやく。
「ばか、石頭、意地悪、けちんぼ」
思いつくかぎりの罵倒をぽつぽつとつぶやいてから、ぎゅっと目を閉じる。
「………………でも、すきです」
そうしておとなしく瞼を下ろすと、そのうち睡魔がやってきて意識が闇に溶け出した。夢うつつに「僕もだよ」と優しい声が聞こえた、気がした。
「じゃあ、ここまででいいです。ありがとうございました」
チェックアウトの後、長船さんは結局俺の自宅のあるマンションの前まで一緒に来てくれた。マンションの入り口に入ろうとした俺を、長船さんはちょいちょいと手招きする。
「長谷部くん、ちょっと耳を貸してくれないかな」
不思議に思いつつも素直に長船さんの口元に耳を近づけると。
「…………次に一緒に泊まる時は、必ず抱くよ。覚悟していてね」
そっと囁かれた色気たっぷりの声。
あまりのことに固まっている俺から長船さんはぱっと体を離し、休日の朝にふさわしい爽やかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、また月曜にね」
そうして長船さんと別れてからの記憶はあやふやだ。どうにかこうにか自宅まで辿り着き、ドアを開けて後ろ手に鍵を閉めて、俺はへなへなと冷たい三和土の上へと座り込んだ。
昨夜からさっきまでにかけての怒涛の長船さん供給で思考回路が焼け付いてショートを起こしかけている。そんな中でようやく出てきた言葉と言えば。
「大人って、怖…………」
今回ばかりは俺の完敗だった。
しかしそれはとても幸福な、満ち足りた敗北だった。
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