シーソーゲームは終わらない

短編
     

46098文字(全9ページ合計)

【3】

 後日、コンペで見事に契約を勝ち取ってきた長谷部くんは、投げたフリスビーをキャッチして戻った忠犬のごとき誇らしげな様相で僕の前に現れた。
「部長、やりました!」
「おつかれさま。さっき先方からも正式な依頼のメールが来たよ。よく頑張ったね、長谷部くん」
 僕の言葉に長谷部くんはぱっと表情を明るくし、深々と礼をする。
「ありがとうございます」
 こちらへ向けられた長谷部くんの頭頂部、煤色の髪の中につむじが見えた。それほど頭を下げなくてもいいのにと思わず苦笑するが、あまりの喜びようになんだかこちらまで嬉しくなってくる。
 今回のコンペでの長谷部くんの頑張りぶりは、サポートに回らせていた部下達からも聞いていた。
 最終チェック段階で僕も目を通させてもらったが、長谷部くんの作成したプレゼン資料は見事な出来栄えだった。契約を取れたということは会場でのプレゼンもうまくやれたのだろう。
 ついこの間まで新入社員だった子が、ここまで仕事ができるように成長したことは、上司として素直に誇らしく、喜ばしいものだ。
「長谷部くんも疲れただろう。報告書と今後の計画書の提出は明日以降で構わないから、今日は帰ってゆっくり休むといい」
 折しも今日はちょうど定時退社デーで、オフィスにいる社員は皆既に帰り支度を始めている。
 労いの言葉をかけた僕に、長谷部くんは顔を上げて「部長」と僕を呼んだ。
「焼き肉、行きませんか」
 唐突な提案に目を丸くする。
「一緒に出かけてくれるって約束でしたよね。美味い肉、食べさせてください」
 そう言ってにっと笑う顔は、やはりどことなく犬を思わせた。優秀で賢い我が部下は、今すぐ例のご褒美とやらをご所望らしかった。
 正直もっと色気のあるデート先でも指定されるかと覚悟していたので、すこしばかり拍子抜けする。それと同時にそんな自分に呆れてしまった。こんなの、まるで僕のほうが期待していたみたいじゃないか。
 そりゃあ、まったく期待してなかったと言えば嘘になるけれど。でも。
「……それとも、なにか予定ありましたか?」
 さっきとは打って変わってシュンと萎れる長谷部くんに、僕はふっと息を吐いて首を横に振ってみせた。
「ないよ。なにせ寂しい独身の身だからね」
 自分で言ってて笑えてくる。
「コンペ成功のお祝いにご馳走するよ。とびきりのいい肉、食べに行こうか」

 ◆◆◆

 A5ランクのカルビは口の中でとろりと解けるように消える。まったりと濃厚な脂とじわりと染み渡るような旨みはさすが国産和牛といったところだろう。芳醇かつ濃厚で美味だけれど、四十代の胃袋にはちょっとばかり重い。
 早々にタン塩やハラミといったあっさりめの肉に切り替え、口の中の脂を卵スープで洗い流すように飲み込む僕とは対象的に、長谷部くんは既に何枚ものカルビを焼いて熱々の白米と共に頬張り、さらになにか追加で頼もうかなとメニューとにらめっこしている。
「うーん、冷麺にするか石焼ビビンバにするか悩みますね……。部長もなにか頼みますか?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
 なんなら食後のジェラートは何味にしようかなと考えていたところだったが、そんなことはおくびにも出さない。おじさんにはおじさんなりのプライドがあるのである。
 僕の返答を聞いて、長谷部くんの視線は再びメニューに戻った。口から溢れているつぶやきから察するに、どうやらカルビクッパも追加候補に入ったらしかった。
 店の入口でスーツのジャケットを預けていて、今はお互いワイシャツ姿だ。僕は食べる前にネクタイを外して椅子の背もたれにかけていたが、長谷部くんはゆるめたネクタイの先を胸ポケットへ無造作に突っ込んでいる。長袖のワイシャツは肘のあたりまで捲っていて、ほどよく筋肉のついた引き締まった腕が見えていた。
 長谷部くんはけして華奢ではないし、どちらかといえば筋肉質な方だけれど、全体的に細くて薄い。
 そんな体のどこにあれだけの量の食べ物が消えていってるのだろうと不思議になる。あれだけ大食漢なら普通はもう少し脂肪がつきそうなものなのに。
 代謝がいいのか、何か運動しているのか。それとも単純に若さだろうか。ジム通いの目的が鍛錬ではなく健康維持になってきた僕にとってみれば、どちらにせよ羨ましい話である。
 ジョッキを傾けてぐびぐびと生ビールを煽る長谷部くんを眺めながら、僕もハイボールに口をつける。絞り入れたレモンの酸味が爽やかでありがたい。
「決めた。冷麺とチヂミにします」
 宣言してから店員の呼び出しボタンを押す長谷部くんに、ふっと笑みが零れた。
「どうかしましたか?」
「いや、気持ちのいい食べっぷりだなぁと思って。お気に召したようなら良かったよ」
「美味いですよ。なにせ頑張った俺へのご褒美なので」
 長谷部くんはそう言って新しい肉をトングで網の上に手早く広げていく。
「……それに、好きな相手と食べてるので、なおさら美味しいです」
 炭酸が喉でむせなかったのは奇跡に近かった。不意打ちのストレート剛速球を受けて一瞬だけ固まった僕に、長谷部くんは悪戯が成功した時のこどものようににやっと笑った。
「ドキドキしてもらえました?」
「……あまり年上をからかうものじゃないよ」
 溜め息をつき、誤魔化すようにキムチの小皿に箸を伸ばす。本日のおすすめだというごぼうのキムチは、想像に反してしっかり味が染み込んでいて美味しい。
「君がこんなに恋愛に積極的なタイプとは知らなかったよ」
 苦笑とともに告げれば、長谷部くんは不満げに唇を尖らせた。
「だって部長と駆け引き勝負したら、経験値で負けそうじゃないですか。いまのところ俺の恋愛における部長へのアドバンテージは若さと勢いなので、そこは有効に使わないと」
 つまり、これまでの捨て身にも思える長谷部くんの猛攻は、彼なりに自己分析した結果の戦略的特攻作戦というわけらしい。
 そういえば長谷部くんの恋愛観は聞いたことがなかった。程よく回ってきたアルコールの勢いに乗せられ、気づけば僕はひとつの質問を口にしていた。
「君にとっての恋愛って勝ち負けなんだ?」
 僕からの問いに、長谷部くんは不思議そうに首傾げる。
「好きな相手に振り向いてもらえなければ負けじゃないですか? 少なくとも俺はそう思います」
「なるほど」
「だから相手に勝つ……いえ、手に入れるためにはなんでもするし、勝利を収めるなら早いほうがいい」
 そうして長谷部くんは熱を孕んだ眼差しをまっすぐに僕に向けた。
「部長は違うんでしょうか」
 こうして真正面から口説かれるのは随分久しぶりの感覚で、今はもう随分遠くに置いてきた青い春の甘酸っぱさを思い出す。鼻の奥がツンとするような不思議な切なさを覚えて、僕はそれを誤魔化すように笑みを浮かべた。
「…………歳を取るとね、知恵や経験を積んだ分だけずるくなるし、案外臆病になるものなんだよ」
 少なくとも、僕にはもう長谷部くんのように体当たりな恋愛はできない。
「だから、そうだね。君の恋愛観と僕のそれとは、多分結構違ってるよ。それだけ言っておこうかな」
 長谷部くんが口を開きかけた時、ちょうど個室の扉がノックされた。店員が注文を取りに来たのだ。
 期せずして話を腰を折られる形になった長谷部くんは、それきり何かを考え込むようにめっきり口数を減らし、もそもそと目の前の食事を片付けることに集中し始めた。
 食後のジェラートまで食べ終えてから会計を済ませて店を出ると、夜風がするりと頬を撫でた。炭火と酒精の熱気で火照った肌には心地よい温度だった。
 帰りの路線は逆方向だったけれど、店からの最寄り駅までは一緒だ。共通の短い帰路を僕たちは並んで歩く。何気なく隣の長谷部くんに目をやると、こころなしかしょんぼりと肩を落としているように見えた。
 長谷部くんのおろしたてのスーツからは焼肉屋独特の脂と煙の匂いがした。きっと僕からも同じ香りがしているのだろう。
「せっかくの新しいスーツだったのに、煙の匂いがついちゃったね」
 気まずい空気を変えるために声をかける。
「……どっちにしろ帰ったらすぐクリーニングに出すつもりだったので大丈夫です」
「そうか。なら良かった」
「……今日のプレゼンがうまくいったのはこのスーツのおかげです。ありがとうございます」
「スーツはおまけだよ。君の資料を見せてもらったけど、とてもいい出来だった。今日の成功は君自身の努力の成果だ。もっと誇っていい」
 よく頑張ったね、と微笑みを向けた途端、長谷部くんの瞳からぼろりと大粒の涙が溢れた。
「長谷部くん、」
 慌てて声をかけると、長谷部くんはそれには応えずにたった一言を口にした。
「すきです」
 無理やり喉の奥から絞り出しているような、苦しげな声だった。
「……長谷部くん、」
「ずっと前からすきでした。今もすきです。これからだって、ずっと。長船部長、あなたがすきです」
 どうしたら俺のことすきになってくれますか。
 そう言って長谷部くんはぽろぽろと真珠みたいな涙を流して歯を食いしばり、ぐいと拳で目元を拭った。
「…………すみません、今日はここで解散させてください。ご馳走さまでした。ありがとうございます」
 口早にそう告げて駅へと駆け出そうとする背中へ、名前を呼んで足を止めさせる。
「待って、長谷部くん」
 そこできちんと足を止めてしまう彼の素直さがいじらしい。

「妻に捨てられたばかりのおじさんが何を言ってるのかと思われるかもだけど、これだけは言わせて」

 怪訝そうな顔をして振り返る長谷部くんに投げる、僕の渾身の一球。

「僕がこれから恋愛をするなら、相手は君がいい」

 曲がりくねった変化球は、はたして長谷部くんのミットにきちんと届いてくれたらしい。
 大きく目を見開き、口をぱくぱくと開閉する長谷部くんへ、僕から大股で歩み寄る。震える手をそっと握って笑いかける。

「こんな僕でよければ、君に恋をさせてほしい」
「…………その言い方は、ずるいです」

 唇を震わせ真っ赤な顔でうつむく長谷部くんに、僕は笑い声をあげた。

「何度も言ってるだろう? 大人ってずるいんだよ」
「それにしたって卑怯です」
「見損なったかな」

 顔を覗き込んでみると、いつも凜々しく立っている眉がへにゃっと下がっていた。
「……見損ないました」
 迷子のこどものような、どこか途方に暮れた表情だった。
 握っていたままの手をきゅっと握り返される。抗議のように爪がやんわりと僕の肌に立てられ、拗ねるような声で長谷部くんが言う。

「でも、そんなのどうだっていいくらい、あなたのことがすきなんです」

 飾らないその言葉に、僕はなんだか胸がいっぱいになってしまう。言うつもりだったはずの言葉がうまく出てこない。どうしよう。こんなに心臓がうるさく鳴っているのは生まれて初めてかもしれない。
「……――――うん、」
 やっとのことで僕は頷いて長谷部くんの手を持ち上げ、そこへゆっくりと唇を落とした。

「君の気持ちに報いたいと、僕も思う」
「……具体的には?」
「よかったら、今度デートをしてくれないかな。もっと君のことを知りたいし、僕のことも知ってほしい」
 僕の提案を聞いた長谷部くんは、眦を緩めてふわりと笑って見せた。

 そうして僕たちは手を繋いだまま駅まで歩き、改札の中で別れた。
 名残惜しそうな顔を隠さずに「じゃあ、また」と控えめに頭を下げて去っていく長谷部くんの背中を見送ってから、僕も反対側のホームへの階段を登る。
 年甲斐もなく足取りが軽い。こんなに心が浮き立つようなことは何年ぶりだろう。
 ホームの中ほどまで歩いてから横を向くと、線路を挟んだ向かいに長谷部くんが立っているのが見えた。彼もこちらに気づいたようではにかんだように笑って手を振ってくる。
 僕が手を振り返したのと同じくらいのタイミングでこちらのホームに電車が到着した。足早に乗り込んだけれど、それなりに混んでいる車内からは人混みが邪魔で外の景色は見えそうにない。
 残念に思いながら吊り革の下がるステンレスのバーを掴んでいると、突然腰元が振動し始めた。慌ててポケットからスマホを取り出す。手のひらの上の液晶画面には、長谷部くんからのメッセージが浮かんでいた。

『今日は楽しかったです。おやすみなさい。大好きです』

 思わず笑みが溢れてしまう。指をすいすいと動かして、僕もすぐにメッセージを返した。

 『僕もすごく楽しかったよ。おやすみ、良い夢を』

 食後に食べたフランボワーズのジェラートよりも甘酸っぱい気持ちが胸をじんわりと満たす。メッセージが既読になったことを確認してからも、スマホの画面をなんとなく眺めては別れ際の彼の顔を思い浮かべてしまう。そうすると自然と口元が緩んできてしまい、頬の内側の肉を噛んでどうにか抑え込んだ。きっと明日には口内炎になっているに違いない。
 けれど、そんなことどうだってよくなるくらい気分が高揚していた。

 僕は今、恋をしている。

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