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【6】
そんなこんなで俺と長船さんのお付き合いが始まった。
俺たちはあれから三ヶ月かけて健全なデート――もちろん俺は不健全に持ち込もうとは努力してきた――を重ね、ようやく、向こうから「よかったら今度家に来ない?」と誘われるまで進展した。念願のおうちデート、というやつである。
奇しくも指定されたのは土曜日、翌日は日曜。
長船さんからは「パジャマも持ってきてね」とも言われていて、案にお泊まりデートであることも匂わせられている。さすが長船さんと言えど、恋人を自宅に泊まらせておいて、夜通し健全なパジャマパーティーを開催するなんてことはないだろう。ないと思いたい。ないって言ってくれ頼む。
初のお泊り用のパジャマとしては、以前デート中に「長谷部くんこういうの似合いそうだよね」と長船さんから言われたブランド物のもこもこしたルームウェアをこっそり購入してバッグに入れてきた。勝負下着ならぬ勝負パジャマである。実は下着もおろしたての勝負下着なのだが、それはそれ。
まるで気分は九回裏ツーアウト満塁でバッターボックスに入るピッチャーのようだった。ここで決めなければ後がない。
オートロックの高層マンションの入り口で大きく深呼吸をし、事前に言われていた部屋番号のボタンを押す。ピンポンという音がしてからすぐにスピーカーから長船さんの声が響いた。
『どうぞ。上がって』
その言葉と同時にマンション内へと繋がる自動ドアが開いた。ひらけゴマ。俺は今日、処女という財産と引き換えに、長船さんという財宝を手に入れる。
意気揚々とエントランスを通り抜け、エレベーターに乗り込む。こころなしか行先階ボタンを押す指が震えていた。
十数秒間の上昇感の後、ピンポンという音と共にエレベーターが止まる。こわごわと降りて周りを見渡すと、広いエレベーターホールには既に長船さんの姿があった。
まさかもう顔を合わせるとは思っておらず、心臓がどくんと跳ねる。
「あ、長谷部くん」
【おさふねみつただが あらわれた!】
RPGのラストダンジョンに入ったらいきなりラスボスとエンカウントした勇者の気分である。
思わず尻込みしそうになる気持ちを無理やりに奮い立たせ、俺は長船さんへと向かって足を踏み出した。
「こんにちは」
「こんにちは。待ちきれなくて迎えに来ちゃった」
ふふ、と長船さんが照れくさそうに微笑む。いかにも穏やかで人畜無害げなこの笑顔に、交際開始してからというもの何度敗北してきたことだろう。俺はこれまでの自分の奮闘ぶりを振り返って溜め息をつきそうになる。
デートのたびにどうにかしてホテルに誘おうとする俺へ長船さんはこのやわらかな笑みを向け、「だぁめ」「明日はお互い仕事だろう? 帰って早く寝ようね」「今日は食事だけって言っただろう?」と優しく、しかしきっぱりと断ってきた。俺がそれでも食い下がろうとすると、聞き分けのない飼い犬に躾でもしているかのような、辛抱強く言い聞かせる口調でこう言うのだ。
「長谷部くん、『待て』だよ。わかるかい?」
それなのにデート中は手も繋ぐし、人目がなければ触れるだけのキスだってする。生殺しである。あの夜の告白がなければ、そろそろ詐欺を疑い始めているところだ。
でも悔しいことに長船さんの手のひらで転がされているこの状況すら悪くないと思えてしまうのだから、あばたもえくぼ、恋は盲目とはよく言ったものである。
「さあ、入って」
「……おじゃまします」
初めて通された長船さんの自宅はかなり広く、玄関にはウォークインタイプのシュークローゼットらしきものまで設置されている。靴を脱ぎ、長船さんに先導されるままに廊下を通り過ぎると、これまた広いリビングに通された。
多分十畳以上ありそうなリビングにはシックな色合いの家具が置かれている。ベッドが見当たらないから、多分寝室は別にあるのだろう。既にリビングだけで俺の住んでいるワンルームより広い。嘘だろ。
「荷物はソファのあたりに置いて、こっちの椅子にかけてくれ。さっきちょうど料理ができたから並べるね」
リビングに入った瞬間鼻をくすぐってきた香ばしい匂いは長船さんの手料理の香りだったらしい。
手伝おうと長船さんの後ろについていこうとすると、「お客さんなんだから座っていて」と言われてしまった。すごすごと引き返して、勧められたダイニングテーブルの椅子におとなしく腰を下ろすことにする。
「この間のモッツァレラチーズのお店で、長谷部くんラザニアも気になってたみたいなのに食べそこねちゃっただろう? せっかくだからお店の味を再現してみたんだ」
そう言ってテーブルの真ん中に大きめのラザニア皿が置かれ、スープやサラダなんかも次々に運ばれてくる。そのへんのファミレスよりサービスがいい。並べられていく料理の盛り付けもプロ級だ。なんというか、彩りよく華やかで、SNS映えする感じである。長船さんの趣味が料理であることは知っていたが、まさかここまでの腕前とは知らなかったので素直に驚いた。
「……えっと、そういえば俺ワイン持って来たんですけど……」
手土産代わりに持ってきた、酒屋の定員のおすすめらしい赤ワインの瓶をおずおずと差し出す。「うーん、このワインは料理とのペアリングがちょっとね」とか言われたらどうしようと内心ビクビクしていたが、長船さんは普通に喜んでくれた。
「キャンティのクラッシコか。いいね。ラザニアに合いそうだ」
焼酎や日本酒ならそこそこ詳しいほうだと自負しているが、ワインになるとさっぱりお手上げだ。試飲した中で一番美味かったものを買ってはきたものの、正直フランスワインもチリワインもあまり違いがわからないし、なんならオレンジワインはオレンジで作られているわけじゃないことを最近知ったくらいである。
長船さんがワインを褒めてくれたので、俺はすこしだけほっとした。グッジョブ、酒屋の店員。あとでネットに口コミ高評価を書き込んでおこう。
長船さんが追加で二人分のワイングラスを持ってきてワインを注ぎ、そうしてようやく俺の向かいの席に長船さんが腰をおろした。
「それじゃあ、乾杯」
「……乾杯」
並べられた料理はどれもこれも素人の手料理のレベルを超えた美味さだった。生ハムと生マッシュルームと砕いたナッツが入ったロメインレタスのシーザーサラダに、具がひとつも入っていないのにものすごくいろんな出汁の味がするコンソメスープ。
メインのラザニアは言うまでもなく、めちゃめちゃ美味い。思わず語彙が消失するくらい美味い。なんだこれ。チーズも生地もミートソースもホワイトソースも全部美味い。
気づけば無言のままがつがつと料理を貪っていて、ラザニアが大皿から半分以上消えたあたりでふと我に返って気まずくなる。
「……すみません。あまりに美味しかったので、ついがっついてしまって」
「気にしないで。そんなに夢中になってもらえると、作った側としても嬉しいよ」
長船さんはにこにこと笑いながら優雅にグラスを傾けている。
長船さんがかっこいいことは周知の事実だし俺も昔からそう思ってはいたが、こういったプライベートな空間でもそのかっこよさっぷりをこれでもかと見せつけられてしまうと、惚れ直すよりむしろちょっと怖い。もしかしてこの人に欠点なんて存在しないんだろうか?
すごい人を好きになってしまったなぁと改めて思いながらスープをすする。この一見シンプルなスープ一食分でさえ、俺が普段食べている社食のランチセットより高価な気がする。せっかくなのでもう二杯くらいおかわりしたいし、テイクアウトして自宅で適当に白米をぶちこんで食べてみたい。絶対うまい。
そんなこんなで豪華なランチを終え、俺は三人がけの広いソファに座ってそわそわしていた。しばらくして食器を洗い終わった長船さんが俺の隣に腰をおろす。
「長谷部くん、」
名前を呼ばれてびくりと肩が跳ねる。もう昼食も済ませたことだし、これから恋人同士がやることなんてひとつしかないだろう。
「何か映画とか見るかい? 配信サービス系は一通り契約してるから、大体見たいものは見られると思うけど」
「……長船さん、」
「ああ、それともすこしこのあたりを散歩する? 近所に広い公園があってね、ドッグカフェやドッグランなんかも――」
「長船さん!」
二回目はほとんど叫ぶように名前を呼んだ。
「俺、もう三ヶ月待ちました」
「うん」
「長船さんの言うとおり、ちゃんと『待て』をしてきたんです」
くるりと横を向き、長船さんの膝の上に手を乗せる。
「……そろそろ、ご褒美をもらえないでしょうか?」
俺の精一杯のおねだりに、くすりと笑い声が返ってきた。
「…………いいよ」
長船さんが俺の体を抱き寄せる。包むように頬に触れられて、促されるままにすこしだけ上を向く。長船さんの顔が近づいてきたので、条件反射的にそっと目を閉じた。ちゅ、とやわらかく濡れた唇の感触がする。普段は一度だけで終わるのに、今日はそれが何度も続いた。
ちゅ、ちゅ、と角度や場所、強弱を変えて何度も口付けられ、びくつく体をなだめるように二の腕のあたりをやわやわと撫でられる。唇のやわらかい感触と服越しに感じる長船さんの体温で強張っていた肩の力が抜けてきた頃、長船が俺の鼻に自分の鼻筋をすり、と擦りつけてきた。
「口、開けられる?」
ぼんやりとした頭でなんとか意味を咀嚼し、わずかに唇を開く。するとすぐにぬるりとしたものが口内に侵入してきた。
長船さんの舌だ、と気づいて反射的に舌先を喉奥に引っ込める。けれど、長船さんは優しく、かつ有無を言わせない強引さでもって、俺のちぢこまった舌をやわらかく溶かして引き出していく。
「…ん、ぅ」
気づけば俺の舌は長船さんによってとろとろに蕩かされ、いつのまにか長船さんの口内に連れて行かれていた。じゅ、と音を立てて吸われて背筋に甘い痺れが走る。
「っん、ン、ぁ、」
次第に力が抜けて何も考えられなくなってくる。
長船さんは口づけの合間、とろとろと蕩けていく俺に刷り込みでもするかのように囁いてくる。
――鼻で息してみて。そう。上手だね、いい子。今度はもう少しだけ舌を絡められる? 上手上手。長谷部くんは本当に飲み込みが早いね――。
言われるがままに人生初のディープキスを終える頃には、俺の腰は完全に砕けていた。
そのまま後ろへ倒れてしまいそうな俺を、長船さんのたくましい腕が支えて抱き寄せる。
「……ご褒美、お気に召したかな?」
色気たっぷりにそう微笑まれては、俺はこくこくと頷くよりほかない。
どうしよう。かっこいい。俺の長船さんがすごくかっこいい。助けてほしい。
しかし俺を生かすも殺すももう長船さんだけである。本日の負けも目に見えているが、このままなし崩しに美味しくいただかれる前にせめて一矢報いたい。何かないか? 何か――、
そんなことを考えているうちに長船さんの顔が再び近づいてくる。
「……長谷部くん、かわいい」
――その時だった。
ピンポンピンポーン、と壁に取りつけられているインターホンの受話器が鳴った。
気まずい沈黙が俺と長船さんの間に落ちる。
「あの、気にせず見てきてください。宅配便とかかもしれないし」
「……ごめん、そうするよ。今の音だとそこの玄関から鳴ってるから、マンションの自治会かもしれない」
長船さんはのろのろと立ち上がり、こころなしかすこし不機嫌そうな顔で玄関の方に向かった。
俺は砕けていた腰にどうにかこうにか力を入れて起き上がり、深く息を吐いて吸う。何度か繰り返すうち、激しいビートを刻んでいた心臓の音がすこしずつ穏やかなリズムに変わっていく。
長船さん、まだかな。長船さんが出ていったドアの方をちらりと見ると、不意にドアの向こう、玄関の方から男女の言い争う声が聞こえた。
「……から、……は……てくれ!」
「な……よ。………れ…さ……」
さすがになにかただならぬものを感じ、俺は慌ててドアに近づき音を立てなようにそっと開く。
ドアの隙間から玄関の様子が見えた。そこにいたのは長船さんと、華やかな雰囲気を纏った美女だった。一度見たら忘れないようなその顔は、いつかパーティーで見かけた長船さんの元妻に間違いない。
「……あのねぇ、本当に今日は困るんだよ。いいから帰ってくれないか」
「あら、元妻に対して冷たいわね。そう言われるとますます中を見たくなっちゃうな」
「やめてくれ。遊びに来てもいいとは言ったけど今日は本当にだめ。勘弁してよ、美和子さん」
こちらに背中を向ける長船さんから、聞いたこともないくらい困り果てた声が出る。
気づけば俺はドアをガチャリと開け放っていた。
目を見開いてこちらを見つめる美男美女。たしかにこうして見ると実にお似合いだ。でも。
俺はすうっと大きく息を吸い込む。そして大股で廊下を進み、長船さんの腕をぐいと掴んでみせた。
「この人、もう俺のなので、そういうのやめてください」
長谷部くん、とどこか焦ったように名前を呼ばれるが知ったことか。
「俺たち今デート中なんです。長船さんは俺が幸せにするし、貰った慰謝料だって全部俺が使い切る予定なので、貴女はもう長船さんに関わらないでください」
元奥さんの長いまつげに縁取られた瞳がさらに大きく丸く見開かれた。
「慰謝料?」
信じられない、という目で長船さんに視線をやった元奥さんは、次いで俺を見て、再び長船さんに目を向けた。
「……呆れたわね。あなたまだなにもこの子に話してないの? しかも慰謝料なんて下手な作り話までして」
なにか話の雲行きが怪しくなってきた。不審に思い始めた俺は、隣の長船さんをちらりと見る。こちらからだと前髪で顔が見えないけれど、それでもいつになく長船さんが焦っているのが雰囲気でわかった。
「……美和子さん、ちょっと、本当に帰ってくれないかな」
「嫌よ。さすがにどうかと思うから言わせてもらうわ」
元奥さんは俺の隣、長船さんのことを人差し指でびしりと示して「いいこと?」と俺に顔を向けた。
「まず最初に『好きな子ができたから別れてほしい』って言ったのはそこの男のほうよ」
「………………は?」
俺がその言葉の意味を完全に理解するよりも早く、次の台詞が元奥さんの口から告げられる。それは一度目よりも衝撃の内容だった。
「そもそも、私達同性愛者同士のカモフラ婚よ。私も光忠もお互いに恋愛感情なんて微塵もない」
「……………………………はぁ!?」
さすがに今度は声が出た。
「詳しいことはそこのかっこつけ男から聞いて頂戴。ごゆっくり」
そう言って、嵐はドアを閉めて去って行った。
しばし無言のまま呆然とした後、俺はギギギ、と首をぎこちなく動かして隣の長船さんを見る。
長船さんは手で顔を覆い、天井を仰いでいた。
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