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【2】
「部長、今週末空いてますか?」
「空いてるけど……どうかした?」
「次のコンペ用にスーツを新調したいんですけど、買い物に付き合っていただけないでしょうか?」
月曜日の昼休み、給湯スペースでコーヒーを淹れていると、いつのまにか隣にいた長谷部くんからそんなことを言われた。
「うーん、それなら僕よりもっと年の近い友達とかに聞いたほうがいいと思うよ?」
苦笑とともにそう返すと、長谷部くんは「いえ、」と首をゆるりと横に振る。
「次のコンペ、向こうの担当者がちょうど部長くらいの年齢なので。部長世代から見て好印象に見える服装で挑みたいんです」
もっともらしい理屈がつけられてはいるけれど、要はデートに誘われているらしい、とすぐにピンと来た。長谷部くんからのアプローチは彼の気性のように常にまっすぐなのである。
通りがかった社員の何名かが僕たち二人がなんの話をしているのかと好奇の視線を向けてきた。ここでぐだぐだ断り続けても長谷部くんはきっと引き下がらないだろうし、余計に周囲からの目を引くだけだろう。そんなところまで計算してやってるんだとしたら末恐ろしい。僕は断ることを諦めてにこりと笑ってみせた。
「わかったよ。僕でよければ」
「ありがとうございます。これ、俺の連絡先です」
そう言って個人携帯と思わしき電話番号とメッセージアプリのIDが書かれたメモを僕へ渡し、長谷部くんは自席に戻っていった。
長い息を吐く。行儀が悪いと思いつつも、その場で立ったままコーヒーの入ったマグカップに口をつける。
先日のあの告白が酔っぱらいの戯言であることに賭けてみたものの、結果はご覧のありさまだった。あの夜から明らかに長谷部くんからの接触が増えている。
元々長谷部くんが僕に懐いているのは職場内では有名な話だったので、今更その頻度が増えても周りからはそれほど変わらないように見えるだろう。休憩中に「自分だけ食べてるのも悪いので」と個包装の菓子を差し入れてきたり、気がつくと視線を感じたり、食事や飲みに誘ってきたり。ひとつひとつはそんな些細なやりとりだけれど、僕からすると明らかに接触が増えていると感じる、そんな絶妙な匙加減の変化だった。
困ったなぁ、と思いつつコーヒーをもう一口啜る。
「……どうしたものかなぁ」
誰にも聞こえないようにぽつりとつぶやく。
困ってないのが、一番困る。
◆◆◆
土曜日、僕はおすすめのテーラーに長谷部くんを連れて行き、オーダースーツを仕立ててもらった。
「オーダースーツって思ったより安いんですね」
テーラーを出た後に入ったカフェで、長谷部くんはそんな一言を零した。
「まあオーダースーツもピンキリだけどね。お眼鏡に適ったなら何よりだよ」
「ありがとうございます」
長谷部くんは律儀にぺこりと頭を下げる。私服の長谷部くんは普段会社で見るよりもどことなく幼く見える。
「お礼に、ここのコーヒー代は俺が出します」
「別にいいよ。僕も選ぶの楽しかったし」
実際、細身体型の長谷部くんのスーツを選ぶのは、比較的がっしりしている自分のスーツを選ぶのとはまた違った楽しさがあった。似合いそうな柄や色を見繕いながらアドバイスすると、一々神妙な顔で頷く長谷部くんを見るのもなんだか愉快だった。これで奢ってもらうというのは流石に申し訳ない。
「いえ、せっかく休日に付き合ってもらったので」
「……じゃあ、僕の慰謝料を浪費するのに協力すると思って、ここは僕に払わせてくれないかな」
藤色の瞳をぱちぱちと瞬かせた後、長谷部くんはきゅっと唇を引き結んだ。まだすこし不満そうなので、僕は駄目押しの一言を口にする。
「僕の慰謝料、飲み干してくれるんだろう?」
僕の言葉に、長谷部くんはぐうと唸り声を上げ、テーブルの上で組んだ両手に額をぐりぐりと押しつけた。そうやってたっぷり十秒は経った後、はあ、と大きな溜息が吐かれる。
「…………それを持ち出してくるのは、ずるいです」
「あはは、うん。大人はずるいものなんだよ、長谷部くん」
俺も大人なんですけど、とぼやく長谷部くんの言葉は都合よくさらっと聞き流して、僕はメニューを手渡した。
「せっかくだから何かケーキとか頼む?」
「……じゃあ、アップルパイ食べたいです。アイスクリーム付きの」
「オーケー」
通りかかった店員にオーダーを伝え、せっかくなので僕もコーヒーのおかわりを頼んだ。
アップルパイが出来上がるまで十五分ほどかかると言われ、それまで仕事の話を含めた雑談をする。
元々長谷部くんとはたまに飲みに行ったりしていて、会話のテンポや興味のある話題については心得ている。いくつかジャブのように話題をふたつみっつ投げ、ふっと会話が途切れた頃、僕は本題に切り込んだ。
「長谷部くんは、どうして僕のことが好きなの?」
我ながらちょっと切り込みすぎたかな、と思いつつも、ここで引き伸ばしてもお互いに時間の無駄だろう。そう思っての発言だった。なにしろ彼は二十代半ばの未来ある若者で、僕はもうアラフィフの、世間一般で言うおじさんである。
長谷部くんは一瞬だけ目を見開き、どうしてそんなことを言うのかわからない、というように首を傾げた。
「人を好きになるのに理由がいるんですか?」
質問に対して返ってきた答えがあまりに眩しくて、僕は思わず目を細めた。
(……若いなぁ)
いっそ捨て身に思えるほどの真っ直ぐさと、無防備さと、純粋さ。きっと僕がかつて持っていて、今はもう擦り切れて失ってしまったもの。
「気づいたら好きだったんです。部長ともっと一緒にいたくて、部長のことをもっと知りたくなって、でも既婚者だから諦めなきゃって思って……ちょっと、何笑ってるんですか」
「いや、この年になってこんなに熱烈な告白を受けると思ってなかったから、つい」
笑みを誤魔化すために僕はカップに口をつける。そんな僕を見てむっとしたように唇を尖らせた長谷部くんだったが、テーブルにアップルパイの皿が置かれるとさっきまでの不機嫌はどこへやら、ぱっと嬉しそうに目を輝かせた。
添えられたバニラアイスが溶けないうちにとナイフとフォークを手に取り、いそいそと熱々のアップルパイを切り分ける姿は非常に微笑ましい。
一口大に切り分けたアップルパイに溶けかけのバニラアイスをたっぷりと絡ませ口に放り込むと、長谷部くんはふにゃりと相好を崩した。
「長谷部くんて、お酒も好きなんだろうけど、甘いのも結構好きだよね」
「……俺、そんなにわかりやすいですか?」
「うん」
頷くと、長谷部くんはバツが悪そうにフォークをがじがじと囓った。
「昔からババ抜きとかポーカーとかあまり得意じゃないんですよね」
「だろうねえ」
「部長は得意そうです」
「苦手ではないかな」
バニラアイスの横に添えられていたミントの葉を皿の端に避けつつ、長谷部くんがぐうと唸る。
「……なんか釈然としないので、追加でフルーツタルトも頼んでいいですか」
僕は苦笑しながら再びメニューを手渡した。
◆◆◆
「今日はありがとうございました」
駅の改札が見えてきたあたりで深々とお辞儀をされる。
「いえいえ。今度のコンペ、頑張ってね。応援してるよ」
「はい。絶対契約取ります!」
そう言って長谷部くんがぎゅっと拳を握る。
これはちょっと気負いすぎかもしれない。長谷部くんと同じチームの部下たちにはさりげなくフォローに回るよう口添えしておこう。
管理職としてそんなことを考えていると、突然長谷部くんが意を決したように僕を見上げ、「あのっ!」と声をかけてきた。
「あの、契約取れたら、また一緒に出かけてもらえませんか?」
「……うん。いいよ」
「本当ですか?」
「まだ慰謝料残ってるしね。スイーツビュッフェでも高級ホテルのディナーでもなんでもご馳走するよ」
それを聞くと、長谷部くんはほっとしたように胸を撫で下ろし、にっと笑った。
「約束ですよ。じゃあ、俺はこれで」
改札へ早足で去って行く長谷部くんの背中を見送った後、僕は一人ゆっくりと駅のバスロータリーへ歩を進める。
今日は長谷部くんからきらきらと輝かんばかりの若さを浴びたので、なんだか僕もどことなく気分が高揚している。あと二十歳も若かったら、今頃鼻歌でも歌い出していたかもしれない。
『貴方は格好つけだから』。いつか元妻から言われた言葉が脳裏を過ぎる。そのとおり。僕は格好つけなので、こんなところで鼻歌を歌いだすようなことは勿論しない。しないとも。
浮かれている自分をゆっくりと心の奥に隠して、蓋をして、取り繕う。年を取るとこういうことばかりうまくなってしまう。
バス停にバスが到着するのが見えたので、早足で乗車待ちの列に並ぶ。周りの流れに合わせ、じりじりとバスへと乗り込んでいく。
(……距離感を、間違えないようにしなければ)
ぶつからないように、怖がらせないように、悟らせないように。
外面を取り繕うのは僕の得意分野なのである。
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