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【7】
「好きな子ができたから別れてほしいんだ」
夕食の席でそんなことを言ったら、妻は「ふうん。いいんじゃない?」と頷いた。
「二十年近く結婚してたって経歴があれば偽装には充分だし、この歳で見合い話なんかももう来ないでしょうし。お互い潮時かもね」
僕と妻の美和子さんは、いわゆるカモフラージュ婚というやつだった。僕はゲイで、美和子さんはレズビアン。しかし異性から大変モテるうえに周囲からも結婚はまだかとせっつかれ、勤めている会社の社風的に結婚していたほうが出世に有利。
お互い似たような境遇だったために意気投合し、十数年前から法律上の夫婦としてルームシェアをしている。
「話が早くて助かるよ」
美和子さんは僕の恋愛対象からはまったく外れているが、友人として、表向きの妻として非常によくできた女性である。だからこそ結婚したのだけれど。
「相手はどんな子なの?」
「会社の新人だよ」
「ってことは二十代か。社内かつ年の差ありで同性? パワハラとセクハラで捕まらないようにしなさいね。離婚後の元夫がそんな理由で解雇にでもなったら私嫌よ」
「そこはうまくやるさ」
僕には現在好きな子がいる。名前は長谷部国重くん。昔電車内で痴漢に遭っていた彼を助けたことがきっかけで知り合った。
彼とは一度御礼の電話を貰って以来疎遠になっていたのだが、どういった理由なのか最近僕と同じ会社に入った彼は、再会後いきなり僕を避け始めたかと思えば、うちの部署に配属されてからは一転して僕に対して懐くような素振りを見せている。
疎遠になってからもう四年以上経っていたし、入社後すぐの頃は明らかに避けられていた。
もしかしたら痴漢のことは彼にとって不名誉なことで、それを思い出させる僕のことはもう忘れたいのかもしれない。残念に思いつつも彼の意志を汲んで初対面として接しようとしていたのだが、今はなぜか猛烈に懐かれている。
最近の若い子って何考えてるかわからないなぁと思っていたものの、この一年、まるで仔犬がじゃれつくように「部長、部長」と僕の後をくっついて回る長谷部くんの姿は正直こちらの庇護欲をくすぐるものがあった。
そもそも、長谷部くん自体僕の好みのタイプそのものなのである。好意を持つなという方が無理だ。
けれど僕は役職持ちで彼は新入社員、しかも同性同士だ。彼から僕にスキンシップを取ってくる分にはそこまで問題はないが、僕から彼に迂闊に近寄って人事へと訴えられたりすれば、僕は社会的な地位のすべてを失ってしまうだろう。それではなんのために偽装結婚までして出世したのかわからない。
僕はこの一年ほど注意深く長谷部くんを観察してきて、彼の好意は本物だろうと結論を出した。しかもその好意はおそらく恋愛的な好意である。とすると仮に告白したとしても受け入れてもらえる可能性は非常に高い。高いが、上司が入社したばかりの部下に手を出すなんてことは、性別に関わらずかなり外聞が悪い。
なので、僕は美和子さんへ追加でこう告げた。
「だから、離婚はあと数年後にさせてほしいんだ。入社したばかりの部下に手を出すなんて問題だろう?」
「それならなおのこと今離婚しておいたほうがいいんじゃない? 離婚後すぐ次の相手なんてのも世間的には問題でしょ」
「もし仮にうまく彼と交際できたとして、その事実が会社に知られた場合に、彼が入社してすぐ離婚したなんていう過去があったら色々勘ぐる人もいそうだからね。探られて痛い腹はなるべく作りたくない」
「なるほど」
そう言って美和子さんは食後の汚れた口元をティッシュで拭った。
「つまり、その新人くんが新人じゃなくなる頃に離婚して、そこからさらに時間をかけてゆっくりその子を口説き落とすっていう作戦のわけね」
さすが理解が早い。肯定の笑みを浮かべる僕に、美和子さんは唇をへの字に曲げて腕組みをする。
「ちょっと気が長過ぎるんじゃない? その間に新人くんが他に恋人でも作ったらどうするの?」
「だから適度に気を持たせたりして今の状態をキープするつもり」
うわ、と美和子さんがドン引きの表情で僕を見る。
「……その新人くんが気の毒だわ」
「なんとでも」
僕は恋愛は勝負に似ていると思っている。勝負は勝ってこそ。それはそうだけれど、僕は勝ち方と、勝ってからの状況作りにも美学を持っている。
どれだけ時間がかかろうとも、最後に望んでいる状態まで持っていければ僕の勝ちだ。
引くわーと呆れながらワインを飲み始めた美和子さんに、僕はにっこりと笑ってみせた。
「仕事も恋愛も――――かっこよく決めたいよね」
◆◆◆
長船さんから事のあらましを聞き終えた俺は、あまりのことにしばらく何も言葉が出てこなかった。
ちなみに今はリビングに戻っていて、俺はソファに、長船さんには目の前で床に正座をしてもらっている。
「…………つまり、俺は数年前から長船さんの掌の上だったと、そういうわけだったんですね」
長船さんは先程までの様子が嘘のように気まずけに項垂れている。いつもより背中を丸めているけれど、元が大柄なのであまり小さくは見えない。
「かっこわるさの世界ランキングとかあったら、今の長船さん相当上の方ですよ。わかってます?」
ぐっと長船さんが小さく呻いた。自覚はしているようだ。
「……俺の気持ちを弄んで楽しかったですか?」
ぽつりとそう言えば「それは違う」と否定された。
「君への気持ちに嘘はないよ。僕はちゃんと長谷部くんのことを、」
「でも少なくとも誠意ある態度とは言えないですよね?」
長船さんが押し黙ると、じっとりと湿度の高い沈黙が俺達の間に落ちる。
「大体、そんなに前から俺を狙っていたっていうなら、俺が告白した時点ですぐにOKしてくれれば良かったじゃないですか。それをこの数ヶ月間俺のこと振り回して。なんでそんなことしたんですか?」
答えによっては一発殴らせてもらおう。長船さんはこの後に及んで口を開いたり閉じたりしながら言い淀んでいるので、俺は目の前のローテーブルを蹴った。
ガツンと大きな音が響き、ローテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンがごとりと床に落ちる。
「言っておきますけど、今の長船さんには黙秘権も拒否権もないんですよ。とっとと言ってください」
「……でも、」
「言えって言ってんだよ」
声を低くして凄んでみせれば、長船さんはとうとう観念したように口を開いた。
「…………だって、好きな子に真正面から口説かれるのが思いの外嬉しかったから」
「は?」
思わず自分の口がぽかんと開くのがわかった。
「僕としてはもっと長期戦で口説いていく腹づもりだったけど、僕を落とそうと必死になる君の姿があんまりいじらしくて可愛くて、それならいっそ告白も長谷部くんからしてほしいなって、途中から欲を出してしまった。君への誠意より自分の下心を優先したんだ。こうなった以上、相応の罰を受ける覚悟はできてるよ」
長船さんはそこまで一気に捲し立てると、さあ煮るなり焼くなり好きにしろとでも言わんばかりに、姿勢を正して俺を見つめた。一応腹は括っているらしい。
「…………本当に呆れた人ですね」
溜め息をつきながら、俺は長船さんが望むとおり罰を与えることに決めた。この数年ずっと純情を弄ばれてきたのである。俺にはその権利があるし、本人もこう言っている。遠慮することはあるまい。
「わかりました。とりあえず一発殴らせてください。そこに立って目をつぶって」
長船さんはすっと立ち上がり、指示したとおりに目を閉じて唇を真一文字に引き結んだ。緊張しているのか、眉間にわずかに皺が寄っている。
馬鹿な人だなぁ、と思う。俺が思っていたよりもずっと、この人は案外子どもっぽいところがあるらしい。そういうところもかわいいと、絆されそうになる自分を内心で叱咤する。
そう、いくら大好きな人とはいえ、腹立たしいものは腹立たしいし、悔しい。何年も人の好意を弄びやがって。それに何より長船さんの企みを今まで見抜けなかった自分がほとほと情けない。たとえ年齢という経験値の差があるとはいえ、俺は長船さんをずっと見てきたつもりだったのに。
俺は直立不動で俺からの沙汰を待つ長船さんの正面へと立った。
「歯、食いしばっててください」
長船さんの眉間の皺が深くなる。今の長船さんは信じられないほど無様でかっこわるい。なんらかのギネス記録にも載れる気がするくらいだ。
俺は目の前のかっこつけ男の目の前に立ち、そして――、
「…………ん、」
そして、その唇に自分のそれをゆっくりと重ねた。
ちゅっとリップ音を立てたあと、驚愕に目を見開いた長船さんの胸に間髪入れず飛び込んだ。たくましい背中に腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「…………長船さんは、ばかです」
「長谷部くん、」
「でもそんな長船さんのことやっぱり嫌いになれないので、俺も大概大馬鹿者です」
そこで一度言葉を切り、顔を上げて微笑んでみせる。
「俺のこと、一生離さないでください。そうしたら全部水に流してあげます」
俺の言葉を聞き終わった長船さんはくしゃりと顔を歪ませ、「参ったよ」と息を吐いて肩を竦めた。
「……僕の完敗だ」
長船さんが俺をぎゅうと抱きしめ返す。俺の耳元で苦しげに、でもどこか満足気にこう言った。
「長谷部くん、ずっと君のことがすきでした。……これから先、一生僕のそばにいてほしい」
長船さんからようやく聞けた本心。正真正銘のストレートを、俺はようやくミットのど真ん中で受け止める。そうして俺もまた同じように長船さんに向けて渾身の一球を投げ返した。
「返品不可なので、あしからず」
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