夏色センチメンタル

短編
     

65862文字(全14ページ合計)

【九】

 黒田高校の友達の家で勉強会してくると告げると、「どうしてもっと早く言わないの!」と母さんは慌ててバッグから財布を出してきて、
「駅前のケーキ屋さんで千円分くらいのちょっとしたケーキ買って行きなさい!」
 と僕に千円札を押しつけるように手渡して来た。

「そんな気を遣う相手でもないのに……」
「鶴丸くんから聞いたわよ。隣町の大病院の息子さんなんでしょ? 手ぶらで行って心証悪くしちゃったら大変じゃない。こういうのは最初が肝心なのよ」

 これが鶴さんたちだったら、買い置きのチョコレートとかポテトチップスを持たせるくらいでたいして気にしなかっただろう。珍しく慌てている母さんを、僕はちょっと冷めた心地で眺めていた。そういう家の違いって、大人はそんなに気になるんだろうか。そりゃあ、僕だって出会ったばかりの頃は長谷部くんのこと世間知らずのおぼっちゃまだなんて思ってはいたけれど。
 複雑な思いで紙幣を受け取り財布にしまう。

「今日は夕飯までには帰って来なさいよ。大事な日なんだから」
「わかってる」

 既に勉強道具を詰めた学校用のカバンに財布とスマートフォンを滑り込ませて、僕は「いってきます」と玄関のドアをくぐった。途端に強い日差しが襲ってきて思わず目を細める。街路樹に止まった蝉がジーワジーワと鳴いている。今日もうんざりするくらいに暑い。
 言われたとおりに駅前のケーキ屋に寄り、シュークリームをいくつか買う。最寄り駅からの電車にしばらく乗り、途中で一度別の路線に乗り継げば長谷部くんの最寄り駅だ。
 僕は駅前のロータリーに着くと、きょろきょろとあたりを見渡した。事前に長谷部くんから野村さんが迎えに来ると聞いていた。ロータリーの端まで視線をやると、見覚えのある高級車が目に留まる。
「野村さん!」
「長船様、こんにちは」
 野村さんがさっと運転席から出て、僕に向けて後部座席のドアを開ける。
「どうぞお乗りください」
 なんだかどこかの王族にでもなった気がしてすこし気恥ずかしかったけれど、僕はお礼を言いながら初めて長谷部くんの家の車の中に乗り込んだ。ほどよい冷房が僕の肌を冷やしてくれて心地よい。革張りのシートの上には上品な柄のクッションが置かれていてふかふかしていた。
 僕が乗り込んだのを確認してからゆっくりとドアが閉められ、再び野村さんが運転席に座る。

「あの、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」

 野村さんがバックミラー越しにこちらへ微笑みかけてくる。穏やかで優しげで、目尻の深い皺が印象的な笑顔だ。
 車はすうっと音もなく発進し、駅から長谷部くんの家へと走り出した。ぼうっと窓の外を眺めていると、運転席から声がかかる。
「……坊ちゃまに同年代の友達ができて、毎日楽しそうな坊ちゃまの姿を見ることができて、長船様には本当に感謝しているんですよ」
 そんなことを言われてちょっとだけぎくりとしてしまった。長谷部くんと僕はもう単なるオトモダチではなく、れっきとした恋人同士なのだ。
 僕と長谷部くんが付き合っている、なんて知ったら、野村さんや長谷部くんの両親は驚いてしまうだろうか。特に野村さんとか、心臓が止まっちゃったらどうしよう。
「…………ええと、」
 思わず口ごもってしまうと、野村さんはふふと笑い声を上げた。照れていると思われたらしい。

「私は、坊ちゃまが本当に小さい頃からお世話をしてまいりました。昔からなにかと欲しいものを我慢しがちな坊ちゃまが、今回初めて自分から『友達を家に連れて来たい』と訴えてくれて、私は嬉しいのですよ」

 車がゆっくりと右に曲がる。体にかかる負担がほとんどないのは、車の性能のせいか、野村さんの運転技術のおかげだろう。
「坊ちゃまのこと、よろしくお願いします」
 真剣な声だった。僕もせめてなにか言おうと思って口を開くと同時、車が家の前で停まった。

「私は車を車庫に入れて参りますので、長船様はこのまま玄関の方に向かってください。中で坊ちゃまがお待ちです」
「あ、はい。あの、送迎ありがとうございました」
 お礼を言って車から降りる。野村さんと車は僕を下ろすとそのまますぐ横の電動シャッターを開け、車庫の中へと消えていった。
 僕はひとつ息を吐いて目の前の家を見つめる。大きな家だった。塀の外からでもわかるくらい広い庭があって、奥には二階建ての一軒家が建っている。土地の相場なんてものには詳しくないけれど、あの駅からこの距離で、しかもこの広さの家を維持するのにかなりの財力が必要だってことくらい、僕にだってわかる。そのくらいの知識はあった。
 知っていたけれど、長谷部くんの家って本当にお金持ちなんだな、と改めて思う。

 緊張しながら門のところにあるインターホンに指をかけ、ぐっと押し込む。ピンポン、と音が鳴るのと同じくらいのタイミングでがしゃんと門のロックが外れて開き、その奥の玄関のドアが開いた。
「よく来たな、光忠」
「長谷部くん」
 シャツにジーンズといったラフな格好の長谷部くんが中から現れてこちらへ駆け寄ってくる。
 門をくぐり抜けると、そこには綺麗に整えられた庭が広がっていた。鮮やかで目を引く彩りの夏の花々が、花壇の中で我こそはとその葉と花びらを自慢げに伸ばしている。
「今日はわざわざ来てくれてありがとう。入ってくれ」
「お邪魔します」
 数メートルほど歩いて玄関につくと、長谷部くんがドアを開けて僕をエスコートしてくれる。どぎまぎしながらドアをくぐって、これまた広い玄関ホールで靴を揃えて脱ぎ、置いてあったスリッパに足を通す。
「暑かっただろう? 待っててくれ、今なにか持ってくる。麦茶でいいか?」
 後ろから入ってきた長谷部くんがするりと僕の横を通り抜けていくのを、慌てて引き止めた。
「あ、長谷部くん! これ、良かったら」
 シュークリームの入った箱を渡すと、長谷部くんは目をぱちぱちと瞬かせてからにこりと笑った。
「ありがとう」
「近所にあるケーキ屋さんのシュークリームなんだ。味は保証するよ」
「そうか。なら、あとでおやつとして食べよう」
 そう言って長谷部くんは階段の上の自室へと僕を案内した。
「飲み物持ってくる。ちょっと待っててくれ」

 ぱたんとドアが閉められ、僕はひとり長谷部くんの部屋で立ったままぐるりと回りを見渡した。
 きちんと整理整頓された、物の少ない部屋だった。机と椅子、ベッド、本棚、タンス。それからローテーブル。本棚には参考書や図鑑の類がみっしりと詰まっていて、なんとなく長谷部くんらしい。
「……ん?」
 ふと机の上にこの部屋の雰囲気にそぐわないものを見つけて近寄って見る。それは小さな図鑑と、見覚えのある遊園地のロゴの入った写真だった。前者は長谷部くんがハンバーガーのおまけに貰ったもので、後者は遊園地でジェットコースターに乗った時に記念にと長谷部くんが購入した写真だ。写真の方にはクリップでフリーパスの半券まで留められている。
 この必要最低限のものしかなさそうな殺風景な部屋で、長谷部くんが僕との思い出を大事にとっておいてくれている。その事実がたまらなく嬉しくて、思わず叫びだしたくなって口元を押さえる。かわいい。ずるい。こみ上げてくる愛おしさに耐えきれなくなってそのままうずくまって手で顔を覆っていると、背後でガチャ、とドアが開く音がした。
「光忠? どうしたんだ?」
 持っていたトレイをローテーブルに置いた長谷部くんをすかさず腕の中に抱き込む。

「みつ、」
「……君さぁ、これはちょっとずるくない?」
「は? なにがだ」
 僕が机の上を指差すと、長谷部くんの頬がさっと赤くなる。
「長谷部くんって、結構僕のこと好きだよね」
 冗談めかして言うと、「当たり前だろう」と怒ったような声で返された。
「でなきゃ付き合ったりなんかしない」
「っ……ああもう! そういうとこだよ!」

 今度は前のような失態はしない。そう決意し、早まる気持ちを抑えつけながらゆっくりと長谷部くんに唇を近づけ……ようとしたら思い切り肩を押されて拒まれた。
「長谷部くん?」
「……そういうのは、勉強が終わってからだ」
 睨みつけてくる長谷部くんの顔は真っ赤で、それでも完全に拒絶しないあたりに長谷部くんから僕への好意が見えて、僕の心の狼が獲物を前にぐるぐると唸り声を上げる。
 まだ時間はたっぷりあるんだ、焦るんじゃないぞ、僕。ステイ。
「……そうだね。とっとと終わらせちゃおう」
「ああ」
 そうして僕たちはエアコンの低い駆動音の鳴り響く中、互いに勉強道具を取り出して広げ始めた。

◆ ◆ ◆

「……終わったー」
「こっちも、終わった」
 気づけばもう夕方近くになっていた。長谷部くんの家に着いたのが十四時過ぎだったので、かれこれ二時間は集中していたことになる。
 結露でびしょびしょになったグラスを持ち上げ、すっかり氷が溶けて薄くなった麦茶を飲み干す。
「あー、夏休みもそろそろ終わりかぁ」
「……そうだな」
「TODOリストもほぼクリアしたよね。来週は最後だし海に行こうか。お盆過ぎちゃったからもう泳ぐのはできないけど」
「ああ」
「ふたりきりで行ってもいいし、鶴さんたち誘ってビーチバレーやスイカ割りするのも楽しそうだね」
「うん」
 いつになく言葉少なな長谷部くんの顔を覗き込む。なんとなくいつもと雰囲気が違う。内心首を傾げていると、長谷部くんは絞り出すように声を上げた。

「……おまえ、さ」
「うん」
「今日、誕生日だろう」
「あれ、言ってたっけ?」
「今朝、アプリ開いたら、おまえが誕生日だって出て、それで」

 自分から今日が誕生日だなんて、「祝ってくれ」と催促しているようで恥ずかしくて言えなかったのだけど、そういえばあのメッセージアプリにはフレンドに誕生日を知らせる機能があったんだった。

「どうしてもっと早く言わないんだ」
「だって、なんか言いづらくて」
「知ってたら、なにかプレゼントとか用意したのに」
「いいよ。また来年祝ってくれれば」
「高校二年の夏が一回しかないって言ったのはおまえだろ。おまえの十七歳の誕生日だって一回しかない」

 不服そうに唇を尖らせる長谷部くんがなんだかかわいくて思わず噴き出してしまう。「笑いごとじゃない」と長谷部くんがぷんすかと怒るのも、駄目だ、かわいくて仕方がない。
「プレゼントなんて、なくても大丈夫だよ。僕、今長谷部くんといるだけで幸せだし」
「駄目だ。俺の気が済まない」
 長谷部くんが僕の手を引いて立ち上がる。状況が理解できないままベッドに突き飛ばされて、後ろ向きに倒れ込む。その上に長谷部くんが馬乗りになってきた。

「長谷部くん?」
「…………して、やる」
「は?」
「気持ちよく、してやる」

 そう言って長谷部くんが僕のベルトのバックルに手をかけ始めたので、僕は腹筋で跳ね上がるように起き上がり、長谷部くんの体を引き剥がした。

「ストップ! 待って、男同士って、その、色々と準備が必要らしいし、」

 僕だって長谷部くんと付き合うということになってから色々と調べたのだ。男同士のセックスの仕方とか、それに必要な準備だとか。僕だって健全な男子高校生なので性欲は人並みにあるし、付き合ってからは長谷部くんで抜いたことも、ある。でも男同士のセックスが思いのほか色々と事前準備が必要なことを知って、これは長谷部くんとよくよく話し合わねばならないぞ、と思っていたところだった。しかし長谷部くんは「知ってる」と言って再び僕の股間に手を伸ばして来るので、無理矢理手首を掴んで止めた。

「なら、わかるだろう?」
「抜き合いくらいなら、できるだろ」
「……え?」

 とんでもない単語が聞こえた気がして聞き返すと、長谷部くんは顔を赤くしてもごもごと口ごもる。
「その、さすがに、後ろを慣らすのは、間に合わなかったから。兜合わせ、っていうのか? そういうのなら、できると思って」
「…………えっと、君、下でいいの?」
 なにかほかに言うべき言葉があった気がしたけれど、僕の口から咄嗟に出てきたのはその一言だった。
「いい。……というか、それしか考えてなかった。おまえが下がいいなら、」
「いや、できれば僕も抱くほうがいいけど。でも、抱かれる側って大変だって聞くし、長谷部くんは本当に大丈夫なのかなって」
「…………イメトレなら、してるし」
「はい?」

「…………おまえに抱かれる想像なら、普段からしてるから」

 たっぷり数秒かけて言われた言葉を咀嚼する。ようやっと意味を理解してから、顔にじわじわと熱が上ってくる。
 この、真面目一辺倒な長谷部くんが。僕に抱かれる想像を。普段から。

「………………そ、うなんだ」
「…………ああ」
「……そっかあ……」

 顔が熱い。きっと今の僕は耳の先どころか爪先まで真っ赤になっているだろう。長谷部くんも唇を引き結び真っ赤な顔で俯いている。強張っていた長谷部くんの体から徐々に力が抜けてきたタイミングを見計らってぐいと抱き寄せると、長谷部くんはおとなしく僕の上に倒れ込んでくれた。
 お互いのTシャツ越しに、とくとくとすこし速いリズムの心音が重なり合う。
 顔を近づけると、長谷部くんはきゅっと目を閉じて心持ち唇を突き出してくる。こういうの、キス待ち顔って言うんだっけ。かわいすぎてどうにかなっちゃいそうだ。
 前回のような失敗をしないよう、ゆっくりゆっくりと顔を近づけてそっと唇を触れさせる。ふに、とやわらかくてあたたかな感触がする。ちゅ、ちゅ、と小さなリップ音を立てながら何度か角度を変えてキスをする。上唇を食むようにすると、ほんのすこし口が開いたので、えいやとそこから舌を差し込んでみる。長谷部くんは一瞬体を強張らせたけれど、僕を拒まなかった。
 生まれて初めて他人の、それも好きなひとの口の中に触れて、脳が沸騰しそうだった。縮こまった長谷部くんの舌と僕の舌をさりさりと擦り合わせると、じんと腰が痺れた。夢中になって長谷部くんの舌を舐めて、吸う。最初は戸惑っていたような長谷部くんも次第に慣れてきて、僕の舌を吸ったり、軽く歯を立てたりしてくる。
「…………ん、」
 つるつるした歯の裏側をくすぐるように舐めると長谷部くんが身じろぎして、お互いの硬くなったものがごりっと触れ合う。唇を離して思わず顔を見合わせて、どちらからともなく苦笑する。

「……下、脱がせてもいい?」
「ああ。俺も、おまえのこと脱がせたい」

 起き上がってお互いのベルトのバックルに手を伸ばし、カチャカチャと股間をくつろげる。ジーンズと下着も取り去ると、二人分のいきり立った性器が現れる。他人の勃起状態の性器なんて、アダルトな動画や広告でしか見たことがなかった僕は、それだけでものすごく興奮した。恐る恐る長谷部くんのものへと手を伸ばす。僕のものよりもやや小ぶりで、綺麗な形をしている。
 手の中で他人のペニスがどくどくと脈打つ感覚に不思議な感慨を覚えていると、僕のものも長谷部くんにそっと握られて、思わず溜息が漏れる。
「……俺のより、でかいな」
 そう言いながら親指で敏感な亀頭をくりくりと撫でられて、思わず声が漏れる。
「っ、あ、」
「はは、……気持ちいいか?」
「……おかげさまでね」
 お返しに長谷部くんの雁首を指の輪で締めつけると、きゅうと長谷部くんの眉根が寄せられる。

 そこからはお互い相手の急所を探るように動かすのに必死だった。お互い股間についているものは同じだからか、力加減は絶妙だ。長谷部くんは裏筋をよく攻めてくるので、そこが弱いのかと思って反対に攻めてやると、案の定長谷部くんはびくりと震え、くたりと僕の方へ倒れ込んで来た。肩に長谷部くんの頭がこてんと乗せられる。首筋に当たる呼吸が荒い。
「ぁ、あ、ッ」
「イきそう?」
 やわやわと左手で玉袋を揉みながら裏筋を意識して竿を上下に扱くと、長谷部くんはがくがくと首を縦に振った。
「ん、ぅあ、だめだ、無理っ……」
「……ちょっと体勢変えるね」
 長谷部くんに僕を片足で跨ぐように座らせて、ぴたりと性器同士をくっつける。
「手、握って」
「っん、」

 二人分のものを指を絡ませ合いながら握って、擦る。そんな単調な動きなのに、腰から下が蕩けるように気持ちが良かった。
 は、は、と浅い息の合間に、お互いの上擦った喘ぎ声が漏れる。二人分の先走りでぐちゅぐちゅと濡れた音が部屋の中に響いた。しっかり冷房はついているはずなのに、体が熱くてたまらない。
 長谷部くんがぎゅっと目を瞑り、震えるペニスを僕の手のひらに押しつけるようにして腰を揺らす。どうしよう。めちゃめちゃエロい。唇から赤い舌がちらりと覗くのを見てしまったらもう駄目だった。まるで吸い込まれるようにして、僕はその唇へと吸いついてしまう。

「ッ、ん、ふっ、ぅ、」
「ん、ふ、ぁ、」

 上からも下からもぐちゅぐちゅといやらしい水音が聞こえる。
 すごい。僕たち、今、えっちなことをしているんだ。生まれて初めての興奮に頭の中の神経が焼ききれそうだった。
「ぁ、あ、ふあっ、だめ、光忠っ……!」
 長谷部くんが唇を離し、がくがくと震えながら絶頂する。僕も数秒遅れて手の中に白濁を吐き出す。
 荒い息をどうにか調え終わると、どちらからともなく顔を寄せ合い、労るように相手の唇を食む。
「……長谷部くん、ティッシュとかある?」
「ああ、ちょっと待て」
 長谷部くんは立ち上がってウェットティッシュの箱を取って僕に手渡してきた。一度に何枚か出して、二人分の精液でべたべたになった手をさっと拭う。長谷部くんの手も拭いてあげようと隣に視線をやると、長谷部くんが濡れた手のひらをじっと見つめているのに気づいた。なにをしているんだろうと不思議に思いつつ眺めていると、なにを思ったのか、長谷部くんは精液に塗れた手をぱくりと口に含んでしまった。
「長谷部くん!?」
 慌ててその手を口から引き離すと、長谷部くんは不服そうに眉間に皺を寄せた。
「不味いな」
「当たり前だよ。なにやってるんだ」
 まったくもう、と長谷部くんの手を拭いてやっていると、反対に手を引かれて抱き寄せられた。すっかり馴染んだ唇の感触と同時に、なんともいえない生臭い味が口の中に広がる。
「……うえ……まず……」
「おすそわけだ」
 なぜだか長谷部くんはすこし楽しげに笑っている。かわいいけど、かわいくない。苛立ち紛れに長谷部くんの鼻をきゅっとつまんでやる。長谷部くんは愉快げに肩を揺らして笑うだけだった。

 そこからお互いの服を拾い集めて再び身につけ、部屋の窓を開けて換気をした。残暑の生ぬるい風に乗って、涼しげなひぐらしの声が聞こえてくる。
「長谷部くんは誕生日いつ?」
「一月」
「その時は覚えてなよ」
「楽しみにしてる」
 そんなことを言いながら荷物をまとめて帰り支度を終えた。

「じゃあ、そろそろ帰るよ。今日はありがとう」
 そう言いながら玄関で靴を履いていると、「光忠、」と長谷部くんが僕の肩を叩いてくる。首を巡らせて長谷部くんの方を振り返ろうとした瞬間、頬に柔らかいものが押し当てられる。長谷部くんの唇だった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
 そうやってふわりとした笑みを向けてくるものだから、僕はなんだかたまらなくなって長谷部くんをきつく抱きしめてキスをする。

 好きだ。誰に憚ることなく世界中の人にそう叫んで回りたい気分だった。僕は、やっぱり長谷部くんのことが大好きだ。

 長谷部くんの腕が僕の背中に回り、もっととねだってくる。だから僕は求められるままさらに深く口づけた。

 背後のドアががちゃりと開いたのは、その瞬間だった。

「国重さん、お友達はまだいらしてるの? 私からもご挨拶を、」
 声が途中で不自然に止まる。

 誰もなにも話せなかったし動けなかった。背後を振り向く勇気がないままの僕の耳に、「母さん」と掠れた長谷部くんの声が聞こえた。

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