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【七】
「光坊、この書類これでいいと思うか?」
「いいんじゃない?」
「……こっちの書類なんだが、」
「いいんじゃない?」
「いや駄目だろ。よく見ろ」
目の前にひらひらと書類を揺らされ、それでようやく僕は白紙にへのへのもへじが描いてある紙を認識して思わず溜息をついた。
「……もう。鶴さん?」
落書きされた紙を手でぱしりと払うと、鶴さんはすまんなと苦笑しながら、紙パックのシトラスティーに口をつける。
「この間からずっと上の空だが、長谷部となにかあったか?」
「…………長谷部くんに好きって言ったら、『ひどいやつだ』って言われてトークも全部無視されてる」
鶴さんが勢いよく飲み物を吹き出した。
「うわっ汚っ」
慌てて書類を片付け、生徒会室に置いてある箱ティッシュで長テーブルを拭いていると、鶴さんはげほごほと咳き込みながらも僕に向かって問いを発する。
「えっ、君、長谷部のこと好きなのか?」
「そのつもりだけど」
「長谷部と付き合うつもりか?」
「付き合う? 誰と誰が?」
「君と長谷部」
「なんで?」
「えっ」
「えっ」
互いに絶句して顔を見合わせる。エアコンがついていない教室の中、職員室から借りてきた扇風機が低くうなる音と、汗がぽたりと垂れる音だけが聞こえる。
先に沈黙を破ったのは鶴さんだった。はあーっと大きな溜息をついて、こめかみをぐりぐりと押す仕草をする。
「……えっと、君は長谷部のことを好きなんだな?」
「うん」
「俺のことは好きか?」
「嫌いじゃないよ」
「伽羅坊や貞坊は?」
「嫌いだったらつるんでないよね」
「あー、なるほどなるほど……」
一人なにか納得したように鶴さんはうんうんと頷き、シトラスティーのパックを机に置くと、ぽんと僕の肩に両手を置いた。
「……九十九パーセント君が悪い」
「なんで!?」
「いやぁ、大きくなったなぁって思ってたんだが、君、図体ばかり成長して中身は全然だったんだな。驚いたぜ!」
僕は全くちっとも納得がいってないのに、鶴さんは「これは長谷部も大変だなぁ」と顎に手を当て訳知り顔でぼやいている。
「何それ。意味わっかんないよ。僕のなにが長谷部くんの気に障ったのかも、僕は一体どうすればいいのかってことも、全然わからない!」
今までトークを送ればすぐに既読がついていたにも関わらず、あの日送った『おやすみ』のスタンプにはまだ既読がついていない。もう三日も経つっていうのに。既読スルーも堪えるけれど、そもそも読んで貰えていないのも、堪える。もしかしたらブロックされてしまったのかも、なんて考えてしまってから、僕はその可能性に慄いた。
僕は、長谷部くんの連絡先をあのアプリ以外に知らないのだ。
学校と学年と名前、それからご両親が病院を経営しているのは知っているけれど、仮に黒田高校や長谷部くんの家の病院に「そちらの長谷部国重くんの友達なんですが、連絡先を教えてください」と問い合わせたところで、この個人情報保護にうるさいご時世で教えて貰えるとは思わない。怪しすぎる。
つまり、もし長谷部くんが僕と一切のコンタクトを絶とうと思えば、僕をアプリでブロックするだけでいいのだ。たった数タップ。それだけで僕と長谷部くんの縁は切れてしまう。
「……どうしよう、鶴さん。僕、長谷部くんに嫌われたかもしれない……」
思ったよりも情けない声が出てしまった。どうしたらいいのかわからずにぐしゃりと長い前髪を握ると、向かいからふうと息を吐く音が聞こえた。
「まだ、遅くはないとは思うんだがなぁ」
「だって、僕わからないんだよ。あの時なんていえばよかったのか。なんで長谷部くんは帰っちゃったのか」
ぽんぽん、と子供をあやすような手つきで鶴さんが僕の頭を軽く叩いた。
「じゃあ、優しい優しい鶴さんがヒントをやろう」
「……ホント?」
「本当だ、俺が嘘ついたこと……結構あるな。この話はやめよう。とにかく、だ」
鶴さんがびしりと僕の胸を指さし、トンとつついた。
「好きには色々種類があるってこと、ちゃんと理解しなきゃだな。鶴さんからはそれだけだ」
「種類……」
「親愛、友愛、敬愛。君が長谷部に抱く好意が、どんな種類のものなのか、じっくり考えてみるといい」
そうして鶴さんは僕が持っていた書類をなかば奪うようにして受け取ると、僕にカバンを持たせてぐいぐいと出口へと押しやった。
「あとは俺がやっておく。君は帰ってよぉっく頭を冷やしてくるんだな」
そう言ってバタンと背後でドアが閉まり、僕は生徒会室を追い出された。
生徒会室を出てとぼとぼと廊下を歩いていると、体育館の方から部活帰りの子たちがどやどやと更衣室に向かって歩いて来る。
その中には三浦さんもいて、一瞬どきりとしてしまう。友達らしい子となにやら話しながら歩いていたが、向こうもこちらに気づいたらしく、一瞬気まずい空気が流れた。
「三浦っちどうしたの? 行こ」
「あ、うん」
結局怪訝に思ったらしい友達に促され、彼女は唇を引き結びながら僕の横を足早に通り過ぎていった。
あの日から、三浦さんとはプリントを渡す時くらいしか接触がなく、向こうも積極的に話しかけて来なかった。こちらからわざわざ話題を蒸し返すのも躊躇われて、なんとなくちゃんと返事をしそびれてしまったけれど、これは一応僕が断ったことになってるんだろうか。もしまだ勘違いされているようだったら、ちょっと困る。
だって僕は、正直今は彼女より長谷部くんのことで頭がいっぱいで――。
「………………あ」
長谷部くん。そう、長谷部くんだ。
頭の中をぱちぱちとパズルのピースが嵌まっていくように今までの様々な出来事が繋がっていく。
長谷部くんがなにを考えてるのかはわからない。でも、僕は僕の気持ちにようやく名前をつけてあげられる気がした。
スマートフォンを起動して時間を見る。数字は十七時半を示している。長谷部くんの塾の夏期講習が終わる時間は十八時だと聞いている。
以前雑談をしていた時に長谷部くんから聞いた塾の名前を記憶の奥底から引っ張り上げ、地図アプリに入力して場所を確認する。自転車で飛ばせば、まだ間に合う。
急げ、急げ、急げ。
廊下を猛ダッシュで駆け抜けて、僕は学校の自転車置き場へと向かった。
◆ ◆ ◆
周りに似たようなビルが何棟も建ち並んでいる、何の変哲もないビルを目の前にして、本当にこのビルの中に長谷部くんの通っている塾が入っているんだろうか、という疑問はすぐに杞憂に終わった。塾の駐車場に見慣れた高級車が停まっていたからだ。
「野村さん!」
僕が自転車を停めて声をかけると、野村さんは驚いたようにこちらを振り返った。
「これはこれは、長船様」
駐車場の隅にほとんど乗り捨てるように自転車を置いて野村さんの元へと駆け寄る。
「こんにちは! あの、長谷部くんは、」
「まだ授業中のようです」
「あ、そうなんですね……良かった」
ほっと息をつく。どうやら僕は間に合ったらしい。ここまで自転車を猛スピードで漕いできたので、もう汗だくだった。見かねたらしい野村さんが車からタオルを出してきて僕に渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。……坊ちゃまと喧嘩でもされましたかな」
すべて見透かしているような瞳で野村さんが微笑む。
「あ、はい。その、なんというか、あの、」
「詳しくは聞きませんとも。私はしばらくこの辺りを一周してくるので、どうぞ坊ちゃまと心ゆくまで仲直りされてください」
そう言うと野村さんは一礼して車に乗り、ゆっくりと発信させた。音もなくすうっと駐車場を出ていく高級車を見送っていると、ちょうど反対の方から塾帰りと思しき中高生たちがどやどやとこちらへやって来た。その中に長谷部くんの姿もある。
「長谷部くん!」
長谷部くんは明らかにぎくりとした表情で僕を見て、助けを求めるようにきょろきょろとあたりを見渡した。きっと野村さんを探しているのだろう。しばらくしてどこにも野村さんの姿がないことを確認すると、長谷部くんはようやく観念したらしく、バツの悪そうな顔でこちらを睨めつけた。
「長谷部くん、僕、あの、」
「……ここだと目立つ。近くに公園があるから、そこで話そう」
「……うん」
停めていた自転車を押しながら、長谷部くんの後ろを一メートルほど離れて歩き出す。夏期講習が終わったと思しき小学生たちがばたばたと僕らの横を通り抜けていく。そんなに年の差はないはずなのに、若いなぁ、とそんなことを思った。
公園は本当に塾からすぐで、五分もしないうちに入り口へと着いた。自転車を入り口の端に停めて鍵をかけ、長谷部くんの後を追って中に入る。
無人の公園内にはブランコと数台のスプリング遊具が置いてあり、園内をぐるりと取り囲むように花壇が設置されていた。花壇の縁のレンガに腰を下ろす長谷部くんにならい、僕もその隣へ腰を下ろす。
「……元気だったか」
「うん。君は?」
「まあまあ」
「そうか……」
公園に設置されていた街灯がぱちっと音を立てて瞬いた。低く長いジーッという音はオケラだろうか。
互いの間に横たわる気まずい沈黙を切り裂くように僕は口を開いた。
「…………あの日のことだけど、」
「あれは、俺が悪かった。忘れてくれ」
「長谷部く、」
「初めて、その、友達から好意を告げられて嬉しくてびっくりしたんだ。それだけだ」
「……それだけ?」
「ああ」
長谷部くんの俯いた横顔を見る。あの夏祭りの日のように、視線は合わないままだ。あの日ラムネの瓶を握っていた両手は拳の形で膝の上に置かれている。
「あんな別れ方をしたから気まずくて、トークも見られないでいた。すまん」
そこで長谷部くんは僕に向かって頭を下げた。僕の許しを待つように頭を垂れたままの長谷部くんの両肩にそっと手を置いて、顔を上げさせる。
「ねえ、謝らないでくれよ」
長谷部くんがようやく僕を見た。いつもまっすぐに僕を見てくる綺麗な瞳が、ゆらゆらと戸惑いで揺れている。
「僕、さ。あの日、勢いであんなこと言っちゃったけど、やっぱり君のことが好きだよ」
「長船、」
くしゃりと長谷部くんの顔が泣きそうに歪む。
「君を独り占めにしたい。僕だけを見ていてほしいし、僕だけと話してほしい。もっと君と一緒にいたい。ねえ、長谷部くん。僕は、」
そこで一旦言葉を切った。
「きっと恋愛的な意味で、君のことが好きなんだと思う」
長谷部くんの瞳が零れんばかりに大きく見開かれ、なにかを言おうと開いた口からはなにも音を出せずに、ただはくはくと唇をわななかせている。
「…………う、そだ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だ!」
長谷部くんが鋭い声を出して僕の手を跳ね除けようと身を捩る。今度こそ手を離さないように、細いけれどしっかりした肩をがっしりと掴む。
「なあ、俺を哀れんで言ってるならやめてくれ。おまえにだけは同情なんてされたくないんだ。頼む」
「嘘じゃないってば!」
長谷部くんの手が僕の頬に触れ、戸惑う間もなくやわらかいものが唇に触れた。
「……長谷部くん、」
「おまえの言ってる『好き』ってこういうことだぞ。わかってるのか?」
驚いて目を丸くする僕に、くっと長谷部くんが唇を歪めて吐き捨てるように言う。
「わかりもしないくせに、軽々しく好きとか言うなよ。これ以上俺を惨めにさせないでく」
皆まで言い終わる前に、うるさい口を塞いでしまう。触れた唇は熱く湿っていて、接している面積は狭いのに、まるで僕の全神経がそこに集まっているかのように思えた。そのまま何度か角度を変えて啄むうちに、長谷部くんの抵抗が止まったのを感じてようやく唇を離すと、長谷部くんは顔を真っ赤にしてぱくぱくと口を開け閉めした。
「これでも、わかってないって言う?」
「おまえ、」
「ねえ、いい加減認めてよ。僕たち、両思いなんだ。そうだろう?」
ぐ、と長谷部くんは唇を引き結び、悔しげに目を伏せて溜息をついた。
「…………男同士だぞ」
「そうだね」
「周りに知られたら、変な目で見られたり、反対されるかもしれない」
「かもね」
「結婚だってできないし、子供も作れない。なあ光忠、今からでも遅くない。引き返すなら――」
「長谷部くん」
あの日のように握りしめられた長谷部くんの拳を、僕は壊れ物を扱うみたいにゆっくりと触れる。
「それでも、僕は君がいい」
伝われ、と思いながら一言一言に心を籠める。
「だから、君にも僕を選んでほしい」
長谷部くん、と懇願するように名前を呼ぶと、長谷部くんは長く長く息を吐いて項垂れた。
「…………おまえ、結構情熱的なのな」
「自分では結構ドライだと思ってたんだけどね」
「おまけにしつこい」
「長谷部くんにだけだよ」
「うん。そうしてくれ」
そう言って、長谷部くんは顔を上げて諦めたような笑みを浮かべる。
「……俺も、おまえが好きだよ」
「長谷部くん、」
「気づいたら、おまえのことばかり考えてた。最初は他に同世代で仲いいやつがいないからかなって思ってたけど、」
「けど?」
「違った。鶴丸たちのことは別にそんな風には思わなかったし」
噛みしめるように吐き出されたその言葉に、僕は胸がいっぱいになってなにも言えなくなってしまった。代わりに、触れていた長谷部くんの手の甲をそっと撫で、握る。しばらくして、長谷部くんもゆっくりと僕の手を握り返してきた。
「長船、好きだ」
「うん、僕も」
そうして僕たちはもう一度触れるだけのキスをした。唇を離して目を開けると、焦点がぼやけるほど至近距離にある藤色の瞳が、離れがたさを切々と訴えてきているのがわかる。
心臓がどくどくとうるさい。もう一度、と互いに顔を寄せ合おうとした瞬間、長谷部くんのカバンからくぐもったスマートフォンのバイブ音が聞こえた。
長谷部くんが慌ててカバンからスマートフォンを取り出して耳に当てる。
「あ、じいや。すまない。今から行く。ああ、大丈夫だ。問題ない」
眉を下げた長谷部くんが言いにくそうに口を開いたから、皆まで言わせずに僕は頷いた。
「わかってる。行っておいでよ」
「……じいやになんて言おう」
「様子見てからでいいんじゃないかな」
「…………そうだな」
長谷部くんが立ち上がる。
「じゃあ、また今度」
「またね。あとでトークする」
「ああ」
そう言って長谷部くんは駆け足で公園の入口へと向かっていった。
僕はその背中を見送り、さて僕も帰ろうとスラックスの埃を払いながら立ち上がって、そこでようやく違和感に気がついた。
「……げっ」
今まで気づかなかったけれど、腕を何箇所か蚊に刺されていた。長谷部くんと話すのに夢中でまったく気づいていなかった。しかし気づいてしまうともうひたすらに痒くてつらい。この分だと、長谷部くんもきっと刺されているだろう。腕をぽりぽりとかきながら、格好つかないなぁと苦笑する。
「…………まあでも、幸せだからいっか」
そうやってうーんと伸びをする僕を、夏の夜空が優しく見下ろしてくれている気がした。
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