夏色センチメンタル

短編
     

65862文字(全14ページ合計)

【一】

 塾の講義を終えると、辺りは既にとっぷりと日が暮れていた。クーラーの効いていた屋内から出ると、むわりとした熱気が僕を包む。七月の初めからこんな気温と湿度では、これから先の真夏は一体どうなってしまうんだろうと思ってすこし心配になる。
 参考書とノートがぎっしり詰まったバッグを肩にかけ、僕は駅前の方に足を進めた。バッグの持ち手が肩に食い込む。高校に入学した時に買ってもらった通学バッグは日々の酷使によってあちこちほつれが出ていて、そろそろ替え時かもしれない。なんせ、卒業まではあと一年半はある。
 高校二年というのは宙ぶらりんの時期だと僕は思う。入学したばかりの時の初々しさはとうになく、かといって三年生ほど学校生活に慣れきっているわけでもない。大学受験を来年に控えているとは言っても、まだ気持ちには余裕がある。将来なにになりたいか、なんて周囲の大人たちの質問にも答えを濁すことができる、そんな時期。
 勉強は嫌いな方ではない。新しい知識を得るのは楽しいし、今まで解けなかった問題が解けるようになるのは嬉しい。じゃあ、かといって好きかと言われると首を傾げてしまう。一生をかけて勉学や研究に勤しみたいかといったらそうではない、と思う。多分。でも具体的になにになりたいかというと明確なビジョンはなく、つまりまあ、世間一般の大多数の高校二年生と同じ、自分の将来に悩める若者の一人というのが僕だった。
 きっとこのまま順当に行けば、学力相応の大学に行って、勉強して、バイトして、それなりのところに就職して、年頃になったら結婚して子供を作って……という当たり前の生活を送るんだろうな、とそう思っている。
 ぼんやりと先の見えてきた人生のレールに、ちょっとした息苦しさを覚えて僕は深呼吸した。飲食店から漂ってくる食事の匂いにぐうとお腹が鳴る。
 両親の帰りが遅いので夕飯は食べてくるように言われていた。頭の中で財布の中身をざっと計算して、なにか食べて帰ろうかな、と思って駅前の方向に足を向けた。

 二十一時過ぎ、駅前のハンバーガーショップはそこそこの賑わいで、僕のような塾か部活帰りらしき学生や、仕事帰りらしいサラリーマンが多く見られた。手近な席にカバンを置いて、財布とスマートフォンを持ってレジの列に並んでいると、ふと見覚えのある制服が目に留まった。きちんとアイロンのかけられたダークグレーのブレザーは、この辺りじゃ一番の進学校の制服だ。顔はこちらからでは見えないけれど、ぴんと伸びた綺麗な背中が印象的だった。壁に貼られたメニューの前に立ってじっと熱心そうに眺めているのを見て、僕はふうんと思った。おぼっちゃまでも、ハンバーガーって食べるんだな。
 あの制服の高校は、いわゆる「おぼっちゃま」「お嬢様」が通うのでも有名な私立だ。薄い色の髪をしているので、もしかしたらあの高校の中では不良に入るのかもしれない。そんなことを考えながらスマートフォンのアプリでクーポンをダウンロードしてレジの列を進む。適当にハンバーガーのセットを頼み、トレイを持って席に戻ろうとして、まだメニューの前に人影が立っているのが見えたので僕はちょっと驚いた。

 なにか面白い限定メニューでもあったっけ、とそっと後ろから近づいてメニューを覗き込んだものの、変わり映えのしないいつものメニューだった。強いて言えばお子様向けセットのおまけが先月から変わってるくらいだったけど、まさか高校生にもなっておまけで悩んでいるわけでもないだろう。
 なんだか気になってきたので、僕は思い切って声をかけることにした。
「ねえ、そのメニュー、さっきからずっと眺めてるけどどうかしたの?」
 びくりと肩を震わせておそるおそる振り返った彼は、声をかけた相手が同じくらいの年齢の男子だとわかるとちょっと安心したようだった。気の強そうな目元をすこしだけ和らげて、「……実は、」と重たげに口を開いた。

「……こういう所は初めてで、なにを頼んでいいのかわからなくて……」
「初めてって、家族とか友達とかと来たことないの?」
「ないな。なあ、これ、セットじゃないと駄目なのか?」

 天然記念物かなにかかよ、と僕は心の中で叫んだ。この誰もが知るハンバーガーショップに、子供時代おまけ目当てで親に連れられて来たことも、友達とゲームのアイテム配信をゲットしに来たこともない男子高校生が現代日本にいるなんて!
 とはいえ顔に出すような不躾な真似はせずに、僕はスマートフォンの画面を彼に示して笑ってみせた。
「今だとこういうクーポン出てるから、お得なのはこのセットかな。あと僕のおすすめはこれとこれ」
 メニューをいくつか指差すと、彼は僕とメニューをしばらく見比べてからぺこりと頭を下げた。
「ありがとう。恩に着る」
「どういたしまして」
 そうして彼がレジの方に向かったのを見送ってから、僕は自分の席に戻った。すこしだけ冷めたハンバーガーにかじりついてスマートフォンで母さんに夕飯を食べた旨を連絡していると、僕の隣の空席に彼が座った。向こうもこちらに気づいたようで、軽く目礼される。
 僕もにっこり笑い返して、再び手の中の液晶に目を落として他の友人とメッセージアプリで明日の小テストについていくつかやり取りをする。キリのいいところで「また明日」とスタンプを送り、アイスティーをずずっと飲み干した。さて、そろそろ帰るか、と立ち上がろうとして、隣の席の彼がまだトレイの上の包みをためつすがめつしているのが目に入った。まさか、と思う。食べ方がわからないなんて、そんなことないだろうな。

「……どうしたの?」

 しかし放っておくのもなんだかかわいそうな気がして、僕は仕方なく声をかけた。
 彼は明らかに困ったように眉を下げて、「……食べ方がわからないんだ」と消え入りそうな声で呟いた。
 僕の脳内外国人ユーチューバーが叫んだ。ジーザス。マジかよ。
 ここまで来ると天然記念物っていうか国宝だ。世界文化遺産だ。レッドデータアニマルだ。
 謎の感動を覚えながら、僕は彼の向かいの椅子に手をかけて腰を下ろす。驚く彼に手を伸ばし、「ちょっとごめんね」とハンバーガーを受け取った。
「こうやって半分くらい紙を剥くと、半分ハンバーガーが出てくるから、それをかじるんだ。紙の辺りまで食べたらまた包みをめくるといい」
「なるほど、巻物みたいだな」
 その感想はよくわからないけど、伝わったならまあいい。
 彼は半分顔を出したハンバーガーをしげしげと見つめ、意を決したようにかぶりついた。もごもごとしばらく口を動かして、目を丸くした。

「……美味い」
「よかったね」
「こんなの初めて食べた。もう一個買って帰ってじいやにやろう」

 じいやって実在するんだ、ともうなにか別世界のものを見るような心地で彼を眺めているうちに、彼はぱくぱくとハンバーガーを胃に収めていき、食べ終わるとごちそうさまでしたとお行儀よく手を合わせた。

「さっきといい、今といい、本当に助かった。えーと、」
「長船光忠。伊達高の二年だよ」
「長谷部国重、黒田高校の二年だ。……同い年か」
「奇遇だね」
「あの、連絡先を教えてくれないか」

 いきなりの申し出に僕は何度めかわからない驚きを得た。これが女の子だったらナンパかなって思うところだけど、彼、長谷部くんは男だし、ナンパというにはあまりにも真剣な顔をしていた。
「日を改めてなにか礼をしたいんだ。今日はもう帰らなくてはいけないから」
「……いいよ」
 ちょっと考えてからOKを出す。初めて会う他校の生徒に対する警戒心より、なんだか面白そうだという好奇心の方が勝ったのだ。僕の仲のいい幼馴染風に言うならば「退屈な日常を彩る、ちょっとしたスパイス」ってやつだ。
 メッセージアプリのひとつも入っていない彼のスマートフォンにアプリを入れてもらい、使い方を簡単に説明してから連絡先を交換する。僕が『よろしく』とスタンプを送ると彼があまりに物珍しそうに画面を見つめるものだから、面白くなって僕のおすすめのスタンプをいくつかプレゼントした。

「……本当に世話になった。スタンプ代も次に会った時に必ず返す」
「いいよ、気にしないで」
 ひらひらと右手を振りながら、僕は鞄を掴んで席を立った。
「じゃあね、長谷部くん。またそのうち」
「ああ、またな」
 そう言い合ってハンバーガーショップを後にした。

 帰宅してシャワーを浴び、自室のベッドに横になると、机の上でブブッとバイブ音がしたので起き上がってスマートフォンを手にとって見てみる。通知は長谷部くんからで、トーク画面に『今日はありがとう』というメッセージの下、『おやすみ』と愛嬌のある顔の猫のスタンプが送られていた。
 あの真面目そうな彼がどんな顔でこのスタンプを送ってきたのだろう、とおかしくなりながら、僕も「おやすみ」とスタンプを返した。すぐに既読がついたので、きっと見てくれたのだろう。
 今日はなんだかいい夢が見られるような気がした。

◆ ◆ ◆

 次に長谷部くんから連絡があったのは、出会って次の日の夕方だった。

『こんにちは。お礼をしたいので、空いている日を教えてほしい』

 ちょっとそっけない文に対して、その下では『よろしくお願いします』と愛嬌のある顔の猫のスタンプがぺこりと頭を下げていて、なんともミスマッチだ。
 僕はスマートフォンのスケジュール帳で予定を確認して返事をする。

『今週だと今日と明後日が空いてるかな』
『じゃあ明後日で頼む。時間は十八時で場所はこの間会ったハンバーガーショップでいいか?』

 了解のスタンプを返して、僕はスマートフォンの画面を消した。と同時に後ろからいきなり両肩をがしりと掴まれる。

「わっ」
「……なんだ、鶴さんか」
「なんだとはなんだ、先輩に向かって」

 そう言うと鶴さん―鶴丸国永生徒会長は背もたれを回り込み、僕の隣に腰を下ろした。生徒会室の年季の入ったソファがぎしりと嫌な音を立てて軋んだがお構いなしのようだった。

「やけに楽しそうにスマホを見てたから気になってな。彼女でもできたか?」
「残念。男子だよ」
「彼氏か! やるな!」
 僕は溜息をついて持っていたバインダーで鶴さんの頭を小突いた。
「昨日、黒田高校の生徒が困ってたからちょっと助けてあげたんだけど、その子からお礼がしたいって連絡。それだけ」
「随分律儀だな。君、命でも助けたのか?」
「ハンバーガーの食べ方を教えただけだよ」
「ははは、君も冗談がうまくなったな」
 僕の言葉を鶴さんは完全にジョークだと捉えたらしい。特に修正する必要も感じなかったので、僕は曖昧に笑って誤魔化した。

「で、どんな生徒だった? 美人か?」
「んー、まあ、綺麗な子だったよ」
 昨日会った長谷部くんの容姿を思い浮かべる。すこし冷たいくらいの印象を受ける左右対称の整った顔立ち。カフェオレみたいな不思議な髪の色。しなやかそうな筋肉のついた長い手足。いくつかの特徴がぱっと思いついたが、その中でもやはり一番鮮やかなイメージで脳裏に浮かんだのは、最初に見た背筋のまっすぐさだった。
「……背筋がね、ぴんと伸びててすごく綺麗だったんだ」
「へえ」
 鶴さんはアリスのアニメに出てくるチェシャ猫みたいな笑みを浮かべた。
「君がそんな風に人を褒めるだなんて珍しいな。驚いたぜ」
「鶴さん? いつまでもそうやってからかうつもりなら僕もう書類整理手伝わないからね」
「つれないこと言うなよ、長船副会長」

 外から蝉の鳴き声がジイジイと聞こえてくる部屋の中、そんな他愛もないじゃれ合いをしていると、あれだけ残っていた書類もあっという間に片付いてしまった。
 夕暮れ色の日差しの差し込む窓にカーテンを閉めて帰る準備をしていると、一足先に準備を終えた鶴さんが僕の荷物を差し出して来てにやりと笑った。
「じゃあ、例の彼となにか進展があったら教えてくれ」
「絶対ないよ」

 そうして約束の日時はあっという間にやって来た。六時間目が終わってから図書室で自習して時間を潰し、下校のチャイムが鳴るすこし前に学校を出た。
 ハンバーガーショップの裏手に自転車を停めて店の中に入ると、奥の方に長谷部くんが座っているのが見える。

「長谷部くん」
 近づいて声をかけると、長谷部くんは手元の文庫本から顔を上げた。
「長船。おつかれ」
「長谷部くんもおつかれ。今日も暑いね」
 そう言って長谷部くんの向かいの席に鞄を下ろす。
「喉乾いたから、先になにか買ってきていい? 長谷部くんはもうなにか食べた?」
「いや、飲み物だけだ」
「頼むの決まってるなら一緒に買って来ちゃうよ。なにがいい?」

 アプリでクーポンを探しながら尋ねてみたが、返事はすぐに来なかった。怪訝に思って長谷部くんの方を見ると、すこしだけ目が泳いでいる。
「……あー、あの、ここのお子様セットは、俺でも頼めるんだよな?」
「うん。あれでいいの? 量足りる?」
 僕らは食べ盛りの男子高校生だ。ハンバーガーとポテトのLサイズなんかすぐに食べきってしまう。飲み物とナゲットだけのお子様セットなんてどう考えても夕飯には足りないだろう。そう考えての発言だったのだが、返ってきたのは意外な答えだった。

「……お子様セットを二つ頼みたいんだ。その、おまけの図鑑が二種類欲しくて」

 なるほど、目が泳いでいたのはそのせいだったのか。落ち着いていて大人びて見える長谷部くんも、案外子供っぽいところを持っているらしい。
「いいよ。どれとどれ?」
「……動物図鑑と、魚類図鑑」
「飲み物二つになるけどいい?」
「ああ。頼む」
 そんな会話を交わしながら小銭のやり取りをし、僕は手早くレジで注文を済ませ席へと戻ってきた。
「お待たせ。ナゲットのソース、どっちがいいかわからなかったから両方貰って来ちゃった」
「ありがとう」
 長谷部くんは商品とおまけの載ったトレイを受け取ると、嬉しそうに顔を綻ばせた。袋を破って手のひらサイズのミニ図鑑を取り出すと、まるで子供みたいに目を輝かせてちまちまとページを捲っている。

「よかったね」
「ああ」

 一通り中を読むと満足したようで、長谷部くんは図鑑を大切そうに鞄にしまうと「いただきます」と礼儀正しく手を合わせた。なんとなく僕もつられて「いただきます」と手を合わせて食べ始める。
 さすがにナゲットの食べ方までわからないということはなかったらしく、箱を開けてナゲットを指で摘むと、付属のソースにつけてもぐもぐと咀嚼していく。
「これも美味いな」
「まあまずくはないと思うけど……」
 もしかして長谷部くんはジャンクな味が好みなんだろうか。普段いいものを食べてると、逆にこういうチープな味が珍しくて美味しく感じるのかもしれない、と色々と失礼なことを考えた。
 そのまま長谷部くんがナゲットを二箱、僕がハンバーガーを二つ黙々と食べ終えた頃、長谷部くんはようやく口を開いた。

「……あの、この間の礼がしたいんだが」
「ああ、そうだったね。でも、別にいいのに」
「俺が良くないんだ」

 そう言うと、長谷部くんは鞄から小さな包みを取り出して僕に差し出した。
 袋に貼ってあるシールの、有名ブランドのロゴを見て思わず「え」と声が出る。

「ハンカチだ。それほど高価なものではないから、受け取ってほしい」
「いや、僕本当に大したことしてないし、そんなの貰えないよ」

 たしかに高校生じゃ手が出ないほどの高級品ではないだろうけど、それでも確実に四桁はするだろう。アプリのスタンプ代を差し引いたって十分すぎる額だ。
 もっとこう、コンビニで売ってるチョコレートとか飴とかそのくらいのお礼をイメージしていた僕は大いに焦った。すっかり頭の隅に置いていたが、長谷部くんは有名私立に通うおぼっちゃまだったのだ。金銭感覚が庶民のそれとは若干異なっている。

「じいやにも、礼はきちんと返すように言われたんだ。俺も返したい。それとも、迷惑だっただろうか……?」
「や、あの、迷惑っていうか、ちょっと貰いすぎっていうか……」

 眉を下げてこちらにハンカチを差し出し続ける長谷部くんを見ると、なんだか僕が悪者になったような気がしてくる。

「……友達からそんなの貰えないよ。誕生日でもあるまいし」

 苦し紛れにそんなことを言うと、長谷部くんは薄いレンズの向こうで目をぱちぱちと瞬かせた。
「……友達……」
「あ、ごめん、会ったばかりで失礼だったよね。でもやっぱり同い年の相手からそういうのは受け取れないっていうか」
「…………じゃあ、俺はどうやって礼をすればいい?」

 途方に暮れたような顔でそんなことを言うものだから、僕も困った。
 ここで具体的な品物を挙げて要求するのもなにか違う気がするし、かといってなにも要らないと言っても長谷部くんはきっと納得しないだろう。

「じゃあさ、」
 ふと頭に浮かんだ思いつきを僕は口に出してみた。

「また僕と遊んでよ。長谷部くんのこととか、黒田高校の話とか、色々話も聞いてみたいし。もしあれなら勉強とかも教えて貰えると助かるかな」

「そんなのでいいのか?」
「うん」
 言ってしまってから、これは案外名案なのではないかと思った。この間出会ってから、僕は長谷部くんに対して興味を持っていた。同い年で違う高校に通う上流家庭のおぼっちゃまがどんな暮らしをして、どんなことを考えているのか。知りたいと思う自分がいる。
 まあでもいきなり馴れ馴れしかったかなとは思ったので断られるつもりでいたら、返ってきたのは大きな頷きだった。

「……わかった。俺でよければ」
「えっ、いいの?」
「男に二言はない。よろしく頼む」

 そう言って長谷部くんがこちらに向かってびしっと頭を下げるものだから、僕も慌てて礼を返した。

「あ、えーと、ヨロシクオネガイシマス」

 こうして僕と長谷部くんの奇妙な関係が始まったのだった。

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